1.始まりの前夜
これは簡単な、噂話の出処を突き止める程度の話だったはずだった。
実際に学年で広まった噂話の出処など突き止めることが出来ないとは思う。
それでも、ある程度絞ることはできるし、これでいいやと妥協できる問題のはずだった。
「それで? 君はどうするんだい?」
月明かりを背景に、窓の縁に腰掛ける女性は問いかけてくる。
およそ大学構内で見かけることがない装いをした女性は退屈そうな表情で煙草に火をつけた。紅蓮を想わせる派手なドレスに身を包み、日本人らしい黒髪は無造作に括られている。
ため息に混ざった煙が月明かりに照らされて、彼女の妖艶さを演出した。
「タイムリミットはもう来たんだよ。だから私も君もここに現れた」
自分の喉が鳴り、口の乾きと空気の冷たさが追い討ちをかけるように心を焦らせる。
「……なるよ、あんたと契約する」
渇きに耐えられず、俺は口にした。
なぜこんなことになったのだ。
ことの原因は24時間前に遡る。
◇
某大学の理系のみが集められたキャンパスのC棟に俺は居た。
大学も四年目、進級に必要な成績だけを取り続けた俺は就職活動をしていた。この大学の学生は八割がた院進する。そもそも友達と言えるほど親密な関係まで発展した人物は同学年にいないことを加味しても、この大学での就職活動は孤独すぎた。
研究室で卒論テーマの論文を眺め、時折エントリーシートを書く。自分自身の空っぽさが浮き彫りになり、自己嫌悪に陥り、現実逃避に目を瞑る。
人と話すのが苦手ではないので、面接の選考ももそこそこのところまでは進むことが出来ていた。しかし、面接時間が長くなると、自分自身の強みが剥がれ落ち、ペラッペラの人間性が顕になった。
そんなこんなで、一人暮らしの宿と研究室を往復するだけの生活をしており、この日は大学を出るのが午後十時をまわっていた。
何をしても空腹感が紛れなくなり、ここらで帰るかと思い立った。
C棟の5階に研究室はあり、他の棟は3階建てだ。
研究室から出て右に向かって歩く。エレベーターがあるからだ。
エレベーターの下ボタンを押し、パネルの数字が1.2と増えていく。
ふと声が聞こえた気がして、ガラス窓から外を覗いた。正面に見えるB棟の屋上に奇妙なものが見えた。
そもそも屋上といっても屋根があるだけで、立ち入りできる場所ではない。
けれども、その場所に大勢の人影が見えた気がした。
声は聞こえないが賑やかに話しているように見えた。
「なんであんなところに」
どっかのサークルが悪ノリでもして登ったんだろうかと思っていた時、一斉にこっちを向いた。
「っ!」
なんだなんだなんなんだ!?
逆光で顔は見えないが、全員が俺の方を向いている気がする。
言い表し難い不気味さを感じ、冷や汗が額から流れ落ちる。
ちん
ハッと後ろを向くと、パネルの数字が5になっていた。
さっさと帰ろう、B棟を通らないでいいように少し遠回りをしよう。
「ミ、タナ?」
後ろから声がした。
「誰だっ!?」
声がする窓の方に振り向き、エレベーターの扉が開く音が背後から聞こえた。
グジュッ
聞いた事のない効果音が音のない廊下に響いた。
「……え?」
右の腹から、鋭い腕が飛び出ていた。
効果音は抉った肉を握りつぶした音だったらしい。眼前の窓にも血飛沫が着いている。
激痛が体全身から爆発する。立っているのか座っているのか、地に伏しているのか、何も分からず、まるで全身がバラバラになったかのような痛みと真っ赤に染まった視界で何も分からず、ゴボゴボと溺れているような声が出る。
死んだ、なんてことを思う暇はなかった。痛みが絶えず爆発し続け、どれだけ経ったかも分からない。
俺の意識は痛みに呑まれ、消えた。
◇
「起きろ青年」
声がした。
寝ているところに人が話しかけてくるなんて実家以来だ。どこかで寝ていたんだっけ。
頬に冷たく硬い感触がある。
目を開けると見慣れた研究室の廊下が90度回転して見えた。どうやら廊下で横向きに寝ていたらしい。
「ここに倒れていたが、何か覚えているか?」
身体を起こすとそれはもう派手な服装をした女性が立っていた。端正な顔に真っ赤のドレス、まるで夜職の女性のような外見だが、煙草の煙とその表情、ヘアメイクの粗暴さがなぜかそれではないと俺に理解させた。
「何も、覚えていません。今何時ですか?」
なんでこんなところで寝ていたのかは分からないが、暗さを見るに真夜中である事には間違いないだろう。
「凄いな。君は私のことに一切興味が無い。危機感ってものも欠けているみたいだな」
表情からは相変わらず何も読めないが、自分で危険人物だと告げているかのような言動に身が強ばる。
そう言われるとその通りだ。この大学にこの格好をする人は見たことがないし、そもそもこの時間のこの棟に人の立ち入りはほとんどないはずだ。
「すみません。起こして下さってありがとうございました。急いで帰らないと行けないので」
あまりこのままこの人といるのも良くない気がする、早々に立ち去ろう。
起き上がり、背を向け、もうひとつのエレベーターがある方に歩き始める。
「まあ待てよ」
ぐいっと首が何かに引っ張られ、ごほっと咳が出た。
「君は私の話を聞かなければならない。いや、聞きたくなるはずだ」
首に煙が巻きついている。手で掴もうとしても掴めないのに、首は拘束されている。
「君はもう死んでいる。騙されたと思って腹を見てみろ」
背後からの声と首の圧迫感で、緊張感が背筋をなぞってくる。
そうだ、この女性は、危険人物に間違いないのだ。不可解な現象を抜きにしても、さっさと逃げ出すべき、背中を見せるべきではなかった。
しかし、この状況を招いてしまったことを悔いても仕方がない。女性に対する恐怖が今更、体を支配した。
手で首の煙を掴むのは諦めて、服を捲ってみる。
「……なんで、こんな」
腹は無事だった。
一部の穴を除いて。
穴といっても、貫通している訳ではなく、穴としか表現できない暗闇が腹にあるのだ。
手で触っても、触った感触も触られた感触もない。
直感で、この世のものではない
と確信した。なぜかそう理解出来たのだ。
それと同時に、自身の首に巻きついているものも同質の存在であることが理解出来た。
「何か思い出したか?」
「死んでいるってどういうことですか!」
女性の言葉に被せるように、大きな声が出た。
まだ、後ろを見る勇気は無い。
「ふふっ、そのままの意味さ」
そんな訳がない。
首に巻きついた煙と腹の穴が同質のものだとは理解できた。それと同時に、まだこの体のほとんどは死んでいない、この世のものだと理解できた。
「その穴に全てが飲み込まれるまで24時間、そうやって人間ってのは終わるんだよ。言ってしまえば、死が確定したロスタイムってのが今だ」
この穴に飲み込まれて死ぬ?
いや、既に死んでいて、意識だけある状態が今ってことなのか。
すべて、無くなるまで、あと24時間。
「死ぬのか」
口から無意識に出た言葉だった。
「死んでんだよ」
行き場のない焦燥感と怒りが恐怖を吹き飛ばした。
直視するのが怖かった女性と正面から向き合う。
よく見れば瞳は緋色で、肌は異様な白さをしている。
物語の悪魔のような見た目の女性が、今では……この世のものでは無いと理解できた。
それでも、死んでいるから、もう。
何も無いのだから。
「首のこれ、離せよ。あんたに構ってる時間はねぇんだ」
「そう焦らないでくれ、私は君に選択肢を与えるためにここにいるんだ」
選択肢だって?
「君の死は、私の不手際によるところもあったんだよ。広ーく解釈するとね。だから、せ」
「生き返れるのか!」
何があって死んだかは覚えてないけど、この女性のせいで死んだなら。
「それは残念だが、無理だ。君はもうこっち側に来ることは決まってしまったし、どうにかすることもできない」
そううまい話ではなかった。そりゃそうだ。天使には程遠い見た目をしているじゃないか。
「そう、私は天使ではないからね。けれどもまだ君を君として存在させてあげることはできる」
「どういうことだよ、もう期待させるようなことは言わないでくれ」
なんだかもう疲れた。死んでまで一喜一憂、元気を出しすぎた。もう生気など残っていない。
「自己紹介をしておこう」
悪魔(女性)が煙をファーのように身にまとい、窓の方に向かって歩く。
そのまま、ぶつかることなく壁を通り抜け、宙を歩く。
「私の名前は久遠。
この世とあの世の境界を生きる幽霊ってやつだ」