【9.国王退位】
さて、『離縁の儀』が取りやめとなりイベリナ妃にとっては宙ぶらりんな日々が続いていたある日、まだ王妃であるイベリナ妃が王宮の自分の私室で「さて、離婚をどうするものか」と考え込んでいたとき、侍女が真っ青な顔で息せき切って駆け込んできた。
「王妃様! 今、御父上様とコーネル公爵が……!」
「何ですって!?」
イベリナ妃は侍女から簡単に状況を聞くと、慌てて立ち上がり急いで王宮の広間へと速足で歩いて行った。
広間では、イベリナ妃の父ハーシャター公爵とジャスミンの後ろ盾のコーネル公爵、そしてジェイデン・カフマン侯爵を含む同志の貴族たちが国王の前に立ちふさがっていた。
「国王陛下、あなたを逮捕させていただきたく存じます。その後の処遇については後ほど沙汰があるかと思います」
国王は怯えたようにじりじりと後退りしながら叫んだ。
「何だと、逮捕!? お、おまえたち、私を裏切るのか? ハーシャター公爵、おまえは私のサポート役だろう!」
ハーシャター公爵は疲れたように小さく笑った。
「まあ、娘も離婚を望んでいるし、いい加減あなたの尻ぬぐいは疲れました」
その何だか決心を固めたような態度に国王は冷や汗をかいた。
「何だとっ! 私の退位だなどと、理由はなんだ? そもそも政治的なものはおまえがやっていただろう、ハーシャター公爵! つまり、政治的な落ち度はすなわちおまえの落ち度だ。退位を言い渡される覚えなどないぞ。おまえの娘だって、私は離縁など望んでいない! だから、私がお前から恨みを買う理由はないわけだ」
するとハーシャター公爵は苦笑した。
「恨みと言えば、まあそうですね。娘が離縁を望んでいることに関しては、娘の方からしっかり説明がありましたから何も言う気はございません。それどころか、この国にあなたの血脈の子を残す務めを果たそうとした娘に誇りすら感じますな。まあ、娘のためにも早く離縁していただけた方がありがたいですが」
父ハーシャター公爵が離縁を後押ししてくれているので、イベリナ妃はハラハラ見守りながらも、うんうんと心で肯いた。
しかし、国王は空の威勢で凄んで見せた。
「離縁はせぬ!」
すると、コーネル公爵が怫然とした態度で一歩前へ進み出た。
「離縁のことは今はよろしいのですよ、陛下。私たちが陛下の退位を望むのは、ご自分でちゃんと分かっていらっしゃるでしょう? 一昨日、側妃のジャスミン妃が大怪我いたしましたな。あなたがやったのでしょう?」
「えっ!」
イベリナ妃は、大事な話の最中なのでできるだけ黙っていようと思っていたのに、ジャスミンが大怪我と聞いて、そしてそれが国王のせいだと聞いて、思わず叫んでしまった。
国王は言われたくないことを言われて口ごもった。
「そ、それは……」
「記憶にございませんか? あなたはうまく隠したつもりかもしれませんが、そんな都合よくは参りません。ジャスミン妃の傍に侍っていた侍女たちがしっかり事の次第を見ております。あなたは乱暴にジャスミン妃を引き出すと、どこかへ連れ去りましたな……」
コーネル公爵は長い口髭をゆっくりと撫でながら、らんらんと光る目で国王を見つめていた。
「い、いや、ジャスミンは……ええと、流産して……責任を感じて宿下がりをしたのだ……」
国王はしどろもどろになりながら、震える小声で言い訳を述べるように言った。
しかし、コーネル公爵は残念そうに首を横に振った。
「――ということにしたかったのでしょうが、そういうわけには参りませんな。ジャスミン妃の居場所は突き止め、もう身柄を確保しております。ジャスミン妃はたいへん混乱しており絶対安静状態ですが、あなたが乱暴を命じたようなことを申しておりました。侍女の証言もありますし……」
「ジャスミンの身柄を……おまえたちが?」
国王はバツが悪そうな顔をした。その顔には、しっかりと「しまった」と書いていある。
コーネル公爵は困り顔で国王を見つめている。
「陛下、側妃に乱暴を働き流産させようなどと、さすがに私どもも陛下を擁護しかねます! しかもそれを隠そうとなさる! 我がコーネル家では陛下の跡継ぎを産む妃を補助するということで、身分の高くないジャスミン妃を養女にしました。身内からもいくらか反対意見がありましたよ、それを押し切って、ご協力して差し上げたのです。それなのにこんな仕打ち、コーネル家も理解ができない状況です」
「陛下……。今のは本当ですか?」
イベリナ妃が口を挟んだ。
怒りでぶるぶると肩を震わせ、唇が真っ青だった。
「イベリナ! いや、だから、おまえだって側妃が身籠るなど嫌だろう? ジャスミンが子を生せばおまえは王妃を辞めなくてはならないが、ジャスミンの子が流れれば離縁する必要はない、ということでだな……」
国王は汗をかきかき言い訳を述べた。
「まさか、あなた様ご自身でジャスミンさんを害されるとは! お子がいるのですよ、あなたのお子が! 私がどれだけお子を授かれるように熱望したことか。私の気持ちを裏切るのですか!?」
イベリナ妃は自分がヒステリックになっていることは自覚しながらも、自分を抑えきれずについつい口調を荒げてしまった。
しかし、相変わらず話の噛み合わない国王はまだ頓珍漢なことを言っている。
「おまえが側妃の流産を嘆くのか? 喜びこそすれ、嘆くのは変だ! ジャスミンは病気ということでよいのだ、彼女は側妃の地位からも下りるだろう――」
「気の毒なジャスミンさん! あなたなど退位なさったほうがよろしいわ!」
イベリナ妃は断固とした口調で言い捨てた。
「なんだと? 側妃の流産など珍しいことではないだろう! おまえが今回も良きように後始末してくれればよい。それで王宮はいつも通りだ」
国王は腕を組んで提案した。
「我が子をわざと流産させる国王の後始末をするのが王妃の仕事ではありません! むしろあなたの跡継ぎを用意するのが仕事です。……ジャスミンさんのお子の命は私が最も望むものでした、それをあなた自身が手にかけようというなら、私はあなたを排除します」
イベリナ妃はもう迷いは少しもなかった。
国王は面と向かって「排除する」と言われて腹が立った。
「私を排除する? それはおまえの理屈に矛盾してるだろう! 本末転倒ではないのか? おまえは王の血筋を残すためにジャスミンの子を望んだのだあろう? 王家の血統そのものである私を廃するというのか!?」
「ええ! もうこれは理屈じゃないんですわ! 私が女としての屈辱に耐え、王妃としての屈辱に耐え、最後は王妃としての地位も捨てて、あなたのお子を望んだのに、それをあなた自身が殺そうとするなど、もう我慢がなりません!」
イベリナ妃は拳をぎゅっと握った。
「全部おまえの王妃としての地位を保証するためではないか!」
国王はまだ言っている。
「いいえ! 跡継ぎは私の最後の願いでした。それをあなた自身の手で潰そうというのなら、私も我慢がなりません。お父さま、これまでの陛下の国への背信行為をすべてお話しします。私はこれまでだいぶ割り切って陛下の悪事を庇って隠蔽を指示してきましたのでね、陛下の悪事が全て明るみになればずいぶんと多方面から怒られることでしょう。退位を求めるに十分な理由になると思います」
イベリナ妃は覚悟を決め、父親に言った。
「イベリナ! 退位だと!? 本気で言っているのか?」
国王が往生際悪く喚く。
「ええ。でも私を恨むのはお門違いですよ。私も陛下の悪事を隠蔽してきた罪を問われるでしょうから。悔しいけれど共犯者です」
イベリナ妃は皮肉っぽく笑った。
しかしそこで、ずっと黙っていたジェイデン・カフマン侯爵がすっと前へ出た。
「イベリナ妃、あなたが国王陛下の尻拭いをしてきたことは皆知っています。それが国王陛下の意向だということも。つまりあなたは後始末を命令されていたに過ぎません。ですから大した罪に問われないよう、我々は全力を尽くします」
「ジェイデン……」
イベリナ妃は驚いてジェイデンを見つめた。まさかこんな風に自分に味方してくれるとは思っていなかったから。
幼馴染が助けの手を差し伸べてくれる――そのことに胸が熱くなった。
実際、ジェイデンが堂々と宣言したことで、ハーシャター公爵はほっとしたような顔をしたし、その空気を感じ取ったコーネル公爵は特別異論は唱えなかった。
そうすると、その場にいた貴族たちは自然とジェイデンの方針に賛同する形になり、もうすでにその場は全体的にイベリナ妃を擁護するような空気になっていたのだった。
「これくらいさせろ。これまでおまえがそんな苦労をしていたとは知らなかった。全くとんでもない夫に振り回されて可哀そうに。おまえはちっとも幸せじゃなかったんだな」
ジェイデンは小声でイベリナ妃に言った。
その瞬間、イベリナ妃の目から涙がこぼれ出た。肩を震わせ、顔を覆う。
ジェイデンはハッとして微かに動揺し、慌ててイベリナ妃を慰めるように柔らかく抱いてやった。
イベリナ妃は想いが溢れ出て、人目を憚らずジェイデンの胸にしがみついて嗚咽を漏らした。
安心したのか、同情が嬉しかったのか、それとも独身のときの想いか……。一つに定まらない感情の中でイベリナ妃は混乱していた。
国王も見ていた。国王の驚きようといったらなかった。ジェイデンは他人行儀な、至って紳士的な態度でイベリナ妃に胸を貸していたのだが、イベリナ妃は自分に忠実だと思っていたので、まさか他の男の腕の中で泣くような女だとは思っていなかった。
イベリナ妃の父ハーシャター公爵も見ていた。娘の気持ちを無視して国王との縁談を決めたハーシャター公爵は、心苦しそうに視線を床に落としたのだった。