【3.女神ズワン】
さて、国王の愛人がそんな風に恨みながら日々を悶々と過ごしている間のある日のこと。
イベリナ妃が気の休まらない日々をリセットするように王立公園をゆっくりと散歩していると、
「やあ、これは美しいお姫様だね。みごとに手入れされた庭にこんな美女。ここは楽園かなあ」
とのんびりとした声がした。
イベリナ妃は驚いた。
「あなたは誰?」
「俺? ヴォルカー。隣国から来たよ。この国は栄えているからね。見物に来たんだ」
声の主はニコニコ笑いながら軽い口調で自己紹介した。
金髪巻き毛が肩まで垂れた、青い目の美しい少年だった。
イベリナ妃は、声の主が思いの外身分が高そうな風貌だったので少し身構えたが、
「この庭に入り込んでいいって誰に聞いたのかしら?」
とそっと窘めるように言った。
「え? 王立公園だろ? 誰でも入ってよいと聞いたよ」
「でも、金曜の午前だけは私専用の時間にしてもらっているのよ。異国から来たから知らなかったのね」
イベリナ妃は遠慮がちに説明した。
それを聞くとヴォルカーは素直に申し訳なさそうな顔になった。
「そうだったのか。初耳だった。おっと、失礼、もしかして王族の方?」
「そうよ」
イベリナ妃が頷くと、ヴォルカーはしまったといった顔をして、畏まった態度でお辞儀をした。
「そりゃ無礼を詫びねばなりませんね。申し訳ございません。すぐに出てゆきます!」
「あ、待って。あなた隣国の、それなりの身分の者ね?」
イベリナ妃は、ふと思うところがあって、ヴォルカーを呼び止めた。
呼び止められたヴォルカーは不思議な顔をして、
「ええ、まあ。隣国の神職の家系の三男です。気ままに旅をしている道楽息子でしかないんですけどね」
とぼそっと答えた。
「へえ、旅を。いいわ。しばらく話し相手になってちょうだい」
「え? 俺が? いいですけど……」
ヴォルカーが汗を垂らすと、イベリナ妃はにっこりと微笑んだ。
「私は王妃イベリナよ。少し愚痴を言いたい気分なの」
名を聞いてヴォルカーは驚いた。
「イベリナ妃か。あなたが……。なんであんな愛人なんかをのさばらせてるんですか?」
ヴォルカーは無邪気にも人が口にしにくいことも平気で口にしてしまう。
イベリナ妃は苦笑した。
「まあ、言いにくいことを直球で言うのね。そりゃ私に子ができないからよ」
「そういうもんですかね?」
ヴォルカーは首を傾げている。
すると、イベリナ妃は急に神妙な面持ちで、
「ねえ、一つ聞くけど、あなたの国じゃあ、子どもが欲しい時は誰に祈るの? うちの神殿でいくら祈っても子を授けてはくれないのよ」
と聞いた。
「まあねえ。子どもは医学的なものですから」
とヴォルカーが「そりゃそうでしょう」と言った顔で肯くと、
「だいぶ現実的なことを言うのね」
とイベリナ妃はムッとしたように答えた。
イベリナ妃が怒った顔をしたので、ヴォルカーは慌てて、
「でもそうですね、女神ズワンに祈るとかですかね」
と付け加えた。
イベリナ妃は、聞きたかったことを聞けてハッとした顔をしたが、同時にその名に首を傾げた。
「ズワン? 聞いたことない女神だわ」
「聞いたことないですか。まあ、うちの国の神話ですからね」
「あなたの国の神話……。ねえ、それ、私が祈っても効果あるかしら」
とイベリナ妃は身をヴォルカーの方にずいっと乗り出して聞いた。
ヴォルカーは、可愛らしいイベリナ妃が無邪気に顔を寄せてきたので、少しドキッとして仰け反りながら、
「そりゃあるんじゃないですか? 神様は依怙贔屓しませんよ、原則的には」
と平静を取り繕って、中立的な答え方をした。
イベリナ妃はヴォルカーの回答に満足したようだった。
「なるほどね、女神ズワンか……」
可愛らしい顔を難しく歪めて、何かしきりに考え込んでいる。
イベリナ妃が本気そうなので、ヴォルカーは慌てて補足した。
「でもね、女神ズワンは見返りを要求します。それは大事な物だったりしますよ」
「大事な物?」
「例えば、王妃の地位を失ってもよいか」
ヴォルカーがぼそっと言うと、イベリナ妃は弾けるように飛び上がった。
「まあっ! けっこうな見返りを要求するのね! っていうか、何その見返り! 私が王妃の地位を失って女神ズワンが得することってあるの?」
イベリナ妃は半べそになってヴォルカーに訴える。
取り乱したイベリナ妃を見て、ヴォルカーはもっと慌てた。
「あ、いえ、王妃の地位は『例えば』ですよ! 女神ズワンはうちの神話でも寛大な絶対神ではないんです。絶対神が救い切れなかった人々を見返り付きで救う補助的な神というか……。女神ズワンが要求するのは『覚悟』ですよ」
『覚悟』と聞くとイベリナ妃は動揺をぐっと落ち着かせ、深刻そうな顔で考え込んだ。
「まあ、そういった立ち位置の女神なのね。見返りは『覚悟』なのか。私が王妃の地位を失うとしたら、後釜は……子を授かるあの愛人が王妃になるということかしら? それは悩むわね。夫を盗られ、女として子も産めず、さらには王妃の地位までジャスミンにくれてやるというのは……」
「え? 子を授かるってあなたが、じゃないんですか?」
ヴォルカーは思わず声を上げた。
イベリナ妃はのろのろと顔を上げた。
「ジャスミンに子が授かるように祈るつもりよ」
「なぜ? あなたが望めばよいのに!」
ヴォルカーは叫び、思わず説得するようにイベリナ妃の手をとった。
イベリナ妃は手を取られたことに気づいていない様子で、残念そうに口の端で笑った。
「国王陛下は私には興味がないのよ。あなたはさっき医学的にと言ったわね。そうよ、いくら女神ズワンに祈ったとして、夫婦生活がなく子を授かるなど、考えられると思う?」
「でも、やりようはいくらでもあるじゃないですか! 例えば国王を酔い潰して寝所に潜り込むとか……」
「そこまでしなくちゃだめなの?」
イベリナ妃は心底嫌そうに顔を歪めた。
「え?」
ヴォルカーはポカンとして、イベリナ妃の手を放した。
「あまりにも……手段が卑しいわ……」
イベリナ妃は身を竦めた。
すると、ヴォルカーは力を込めて言った。
「そんなことを言っている場合ですか? 相手の女は手段選ばずやってきたのでしょう? すべてをその女に奪われてもいいと言うのですか。聞きましたよ、シャンデリア。命まで狙われてるんですってね、あなた!」
「……」
イベリナ妃が何も答えず下を向いたので、ヴォルカーは自分のお節介さを恥じて少し冷静さを取り戻した。
「……まあいいですよ、これはあなた自身の問題です。確かに、私が何か言うことじゃない」
そんなヴォルカーの言葉にはイベリナ妃は何も答えなかったが、ただ、
「……女神ズワンは見返りを要求するくらいだから、その効果は確実と思って良い?」
とだけ心細そうに確認した。
「さあね。この世界に確実な物なんかありはしません!」
「ずるい言い方……」
イベリナ妃は低い声で詰るような言い方をする。
「何とでも言ってください」
「まあいいわ。来週の金曜日。またここにいらっしゃって」
ヴォルカーが取り付く島のない様子でそっぽを向いているので、イベリナ妃は一つため息をつき、命令するようなはっきりとした物言いで言った。
「来週また!? 何ですか、俺に何かさせる気ですか?」
「まあまあ。私を助けると思って」
イベリナ妃は凄味のある笑顔をヴォルカーに向けた。
ヴォルカーはイベリナ妃の空気に呑まれ、ごくっと喉を鳴らした。
それから、ほんの少し気味悪そうにイベリナを眺めた。
しかし、イベリナ妃は可愛らしい顔に似つかわしくない目で黙っている。
ヴォルカーは観念した。
実際、こんな目をした人間を説得できたことなんかない。
そして、試すようなイベリナ妃の目を真っすぐに見返して、
「いいですよ。じゃあ、来週。次はあなたに良いものを見せてあげましょう!」
と宣言してみせた。