巡行聖女リーシェさんの懺悔室
「今日はお話しを聞いてくれてどうもありがとうっ、聖女さま!」
少し手狭な室内。内側からのみ見通せる特殊な窓の外側で、ウラーラ村に暮らす十歳の少年が可愛らしく声をあげました。
「ふふ、どういたしまして」
対するわたくしこと、ヴィスラ法皇国に身を置く〝巡行聖女〟のひとり――リーシェ・ロスティナも笑顔で答えます。
教会の懺悔室で村人たちの罪の告白に耳を傾ける者にとって、それは当然のことでした。
「ちゃんとご両親に謝ることができるとよいですね」
「うんっ!」
「どうか。汝の選ぶ未来に聖母アリアのご加護があらんことを」
「えぇと、聖女さまにもご加護があらんことをっ!」
お互い〝聖母アリアの教え〟における祈りの言葉を告げ合い、この場を終えます。
それからきっと少ないお小遣いから出したものであろう銅貨を一枚、寄付してくれた後。少年は元気よく懺悔室から出てゆきました。
わたくしとしても、ああして表情が明るく前向きに変わっていると嬉しくなるものです。
少年が扉を閉じると、小さく鈴の音が鳴りました。
(……彼ならばきっと母の目を見て正直に話すことができるでしょう)
わたくしはひとつ息をつき、考えます。
少年の懺悔は『母親が大切に飾っていた花瓶を壊してしまい、しかしそれについて勝手に壊れたのだとウソをついてしまった』というものでした。
彼の話によると初めのうちはバレなかったことにホッとしたものの、後になって真っ先に怪我がなかったかを心配してくれた母を思い出して、なんだか眠れなくなったそうです。
心優しい親子なのでしょう。微笑ましいことです。
当然、何らかの振動や衝撃を与えられなければ飾られた花瓶がいきなり倒れるということはあり得ません。
ですから少年の母も、きっと走り回ったりしていた我が子がぶつかって落としてしまったのかもしれないという考えが、彼の目を見たときには頭をよぎったはず。
そして感情のままに「どうして走るの!」「どうして嘘をつくの!」と指摘し、問い詰めることはとても簡単なことです。
けれどそれを選ばず、まず先に怪我の心配をしたうえで嘘に触れることもしなかったからこそ少年の良心は痛み、罪と告白するにいたりました。
この結果はまさに母と子の積み重ねの賜物、という他ありません。
日々の接し方次第では懺悔など頭の片隅にも浮かばず、ただ嘘が露見せずに済んで助かった、と。
小さな胸をなで下ろして終わらせ、決して自らの判断や選択に対して責任を持とうとしない堕落した大人へと一歩近づいていたことでしょう。
(……わたくしも彼らのように、未来へ積み上げるべき今をきちんと選んでいかなければなりませんね)
それからしばらく。村の人々が懺悔室を訪れることはありませんでした。
ジャンゼルク大陸におけるヴィスラ領の中でも、ウラーラ村は比較的小さな村ですから教会に行列ができるというようなことをわたくしも望んではおりません。
世界中を渡り歩く巡行聖女に興味がある人々が多いこと自体は、喜ばしいと同時に嬉しくも思います。
とはいえ、わたくしがウラーラ村に滞在してすでに一週間。皆さんの生活がある程度の落ち着きを取り戻すことは、いたって自然な帰結でしょう。
「…………」
ふとわたくしは小さく丸い手鏡を取り出し、自らを見つめ直しました。
肩先にかかる白みがかった長い蒼銀の髪。
後ろ暗さなどまるで感じさせない薄紫の双眸。
巡行聖女としての、適度に金の意匠が施された白と紺色の長衣。
どうぞご覧くださいとばかりな、ハイレグカットに黒のボディストッキング……。
向こうから見えることもないですが、外見は内面の一番外側の部分と考えるわたくしとしては、身だしなみを整えることはとても大事なことなのです。
……まぁ、長旅のあらゆる事態を想定したというデザインに思うところがまったくないわけでもないのですが。
「ん、んっ」
そうして誰に見られているわけでもないのに、つい咳払いをしたそのときです。
コンコン、と扉を叩く音が鳴りました。
「どうぞ」
わたくしが一声かけると鈴の音が鳴り、新たな解告者はゆっくりと入室してきました。
彼女はたしか、三十代女性の方だったと記憶しています。
「し、失礼します」
「緊張なさらず、気を楽にしてくださっていいのですよ。ここにいるのは、いずれ村を去る巡行者だけなのですから」
「は、はいっ」
まだぎこちない様子で女性が椅子に腰を下ろしたのを見届けた後。わたくしは、彼女に常と同じ解放の言葉を告げるのです。
「では――どうか、胸につかえた罪をお話しください。父神レイドス、大精霊ガルガッハ、そして聖母アリアの名において、ヴィスラの聖女リーシェ・ロスティナが汝の罪を許します」
促しを受け、程なく彼女は罪の告白を始めました。
これ以降。ひと通り話し終えるまで聴き手に徹することが、わたくしの務めなのです。
「私は、その……不倫を、してしまいました……」
「お相手はどのような方なのでしょうか」
「えっと……私には今年十七になる息子がおりまして、マイヤのアーウィンド学園に通っているのです。それで息子は同期のフェイさんという方とお付き合いしているのですが……私は彼女の父親と、あと兄妹とも……その」
「肉体関係を?」
わたくしが訊ねると、彼女は恥じるように小さく頷きました。
「マイヤのアーウィンド学園と言えば、ヴィスラ国内でも数少ない無宗教の教育機関ですから。その分、入学者にはかなり高い水準の学力・能力が求められているはずです。子育てはご苦労なさったのではありませんか?」
「い、いえっ、そんな私は何もっ! ただ息子が頑張っただけです。なのに、私は……それに浮かれて。彼女のご両親と顔合わせのとき、あんなにお金持ちなお嬢さんとまでは思っていなくて。だから慌てて、年甲斐もなくはしゃいでしまったんです」
家庭の裕福さが学力や能力に影響を与えやすいのは事実でしょうから、そういった差に動揺してしまう心情は、元は孤児であるわたくしにもよく理解できます。
「お酒を飲みすぎて帰るに帰れなくなってしまって、泊まらせて頂くことになり……気付いたら彼女の父親と同じベッドで眠っていたんです……夫も酔って寝ていたので本当に助かりましたが――」
「関係を終わらせることはできなかった、と」
「はい。後日何度も忘れてくださいとお願いしに行くたび、ずるずると……それで繰り返すうち、彼女のお兄さんに見つかってしまって。不倫を黙っている代わりに、彼とも寝てしまったんです」
「不本意でしたか?」
「最初だけです……今はもうあまりそんな風には思っていません。だから私、本当にどうしていいか分からなくなって……なのに、夫とするよりも気持ちがいいし、若い子に求められるのもすごく気分が良くて。でも家に帰ってあの人の顔を見る度、泣きそうになってしまって……慰めてくれるんですけど、やっぱり下手なんです……」
すすり泣く声とそれを何度も拭うかすれた音が懺悔室に響きます。
ですので、わたくしは少しだけ間を置いてから改めて訪ねることとしました。
「だから今日はここへいらっしゃったのですか?」
「息子が、フェイさんと結婚すると言い出したんです。それで彼女の方も同じ気持ちみたいで……とても、とても嬉しそうで。幸せそうでした」
「そうでしたか……」
母親が彼女の父兄と肉体関係を持っていた。という事実は、息子の立場からすれば認められないものでしょう。当然ながらそのフェイさんからしても同様のはずです。
まるで薄氷の上で激しく踊るような生活は生きた心地がせず、継続させることなど到底できない可能性が高いであろうことは想像に難くありません。
それからわたくしはひとつ息をつき、彼女に必要な言葉を告げました。
「――聖母アリアの教えのひとつに〝過去を断ち切る〟という考え方があるのはご存知でしょうか」
「過去を、断ち切る……あ、あのっ、申しわけありません聖女様。実はその私、イーツァオの生まれでして、極派ほどではありませんが信仰はあまり……」
「あぁ、それでアーウィンドにお子さんを。もちろん、気になさることはありませんよ」
彼女が口ごもるのも無理のないことでしょう。わたくしはまだ巡行しておりませんが、極東のイーツァオといえば世界で最も無神論者の多い国として知られています。
大修道院時代、枢機卿長からも生粋のイーツァオ人はすでに一般化されたはずの魔法を含めたあらゆる霊的な存在を信じず、それどころか否定・拒絶する価値観を有するとよく聞かされました。
「えっと、それで……過去を断ち切るというのは、過去を捨てるということなのですか?」
「捨てることとはちがいます。残念ですが、どれだけ望もうとも過去を捨て、なかったことにすることはできません。過去は決して、決して消えることはないのです」
目を背け、何もなかったかのように振る舞おうとも。過去はふとしたときに必ず、追いかけてくるもの。言わば、その者を描く輪郭――影のような存在に等しいのですから。
「そう、ですよね……不倫をした過去を、消すことはできませんよね」
「はい。ですが、不貞それ自体を否定することも、肯定することもありません」
「え?」
意外だったのでしょう。懺悔を望む者らは誰しも罪悪感を抱えているからこそ訪れるのですから、彼女もきっと非難されて然るべきと思っていたにちがいありません。
ときには〝自分は悪くない〟ということをただ主張するためだけにやってくる他責思考の方もいらっしゃいますが、その際は静かに嵐が過ぎるのを待つのみです。
「過去を断ち切るとは通り過ぎた現実を認め、未来へと積み上げるべき今を選ぶことなのです。人は、過去なくして未来を見ることはないのですから」
「過去を……認めて。選ぶ……」
彼女の反芻にわたくしはできるだけ穏やかに、しかしはっきりと頷きを返します。
「今、あなたが選び得る現在には、どのようなものがあると考えられますか?」
「え。そ、それは……不倫したことを夫へ正直に話すか。それとも話さない、か……とか」
「他にも不貞の相手と添い遂げ、どんな手を使ってでも隠し通す。という未来もあることでしょう」
「!?」
口にすべきか迷っていた彼女の驚きが、息づかいからもはっきりと伝わってきました。
個人的なことを申せばもちろん、不貞そのものに反対ではあります。ですが、この懺悔室は働いてしまった行為の是非を問う場ではありません。
過ちを犯し、罪悪を抱いた己はどうすればよいのか。それを自らの意志で選び、決断し、覚悟を持って実行できるか否かというところに、聖母アリアの教えはあるのです。
「あなたが苦しんでいるのは、悩んでいるから。あなたが悩んでいるのは、無数の運命においていずれが最善で最良かが分からないから。そして分からないことを恐れ、嫌悪し、過去に想いを馳せ、ふと立ち止まってしまっているからなのでしょう」
「そ、そうですっ! その通りです聖女様っ!」
「答えをひとつに決められていないがゆえに、進むべき道がはっきりと見えないのです」
「ならっ! わ、私はどうすればよいのですかっ!?」
彼女の言葉は、先程までよりいっそう焦りの色を濃くしてゆきました。
恐らく元々が無神論者に近しいからこそ、寄り添う声は輝きを増すのでしょう。
「まず自らに〝本当はどうしたいのか〟を問いかけてみてください。そしてその心に従い、物事に対して優先するべき序列をつけるのです」
「物事に、序列……」
「はい。それはきっとこれからも続いてゆく人生に訪れるであろう幸福への、最も困難で近い道を指し示す光となることでしょう」
「…………」
二分ほどでしょうか。彼女が口を閉ざし、わたくしはただ静かに待ち続けました。
汗の匂いや息づかいから窓越しでも多くの苦悩が伝わり、胸が痛みます。
「だ、駄目です。わ、私にはとても選べません。できません。おっ、お願いします、聖女様。どれが……何が、一番正しいのですか? 幸福なのですか? 教えてください……」
「それは自らで決断することにこそ意味があるのです。己の内から生じた結果と他者から生じた結果の価値は、必ずしも等価ではありませんから」
「何故ですか!? せ、聖女様の信じる神はっ、アリアはっ! 私のようにふしだらな者は見捨てると言うのですかっ!?」
「見捨てることはありません。聖母アリアはいつもあなたのすべてを見ているでしょう。ですがだからと言って迷える人々を正しき道へ導くため、一方的に優しく手を差し伸べることもありません」
これまでもわたくしは懺悔を聴く中で、彼女のようにいっそ自らの行く末を委ねてしまいたいとおっしゃる方を多く見てきました。
逃げ出したくなる気持ちが理解できないわけではありません。ですが弱さから生まれる妥協は、やはり後悔と怨念だけを吐き出すだけの脆く儚いものなのです。
「その代わり聖母アリアはあなた自身の決断を尊重し、選んだ未来へ歩き出すその背中を後押しすることを惜しまないでしょう」
「……私が本気で聖女様に、身も心も全て委ねたいとそう決めればよいと言うのですか?」
「えぇ、もちろんです。確固たる意志のもとに下されたものであるのならば、それもひとつの素晴らしい選択でしょう。あなたの未来を選ぶことを、わたくしも迷いません」
なら、と。彼女が言いかけた声に重なるかたちで、わたくしは言葉を続けます。
「ですが、わたくしが定めた運命を悔い、拒んで、呪ったそのとき。あなたには必ずや神罰が下されることでしょう。約束します。この不幸を、聖母アリアも望んではいないのです。どうかご理解してくださると、わたくしとしても幸いに思います」
「…………」
「ただひとつ以外すべてを――こぼれ落ちた過去のすべてを断ち切り、続けてゆくことこそが今のあなたに最も必要で、なくてはならない意志であり選択なのですから」
「それが、アリアの教えの〝過去を断ち切る〟ということ……」
「はい、もっともこれも教えのほんの一部分に過ぎませんが」
わたくしがそう答えると、彼女は再び沈黙しました。
ですがこれは思いをひとまず吐き出し終え、聖母アリアの教えについて考えを巡らせているのでしょう。つまり求めるものはすでに懺悔ではなく、ただ時間なのです。
「少々よろしいでしょうか」
「え。あっ、は、はいっ!」
であれば懺悔室に留まる必要はどこにもありません。わたくしは引き出しから本と特殊な紋様の栞をそれぞれひとつずつ取り出し、彼女へ差し出しました。
「アリア聖書と……この、栞は?」
「わたくしの持つ聖痕が刻印された特別な栞です。これは、わたくし以外に触れた二人目の肉体情報を記録する……そうですね、言わば紹介状のようなものです」
「紹介状……」
「えぇ。もしもこれから先、進むべき道を選べなかったときや物事が上手くいかなかったと感じたとき。人生を新しく始めたいと思ったとき、それを持ってヴィスラの首都リンドベルをお尋ねください。同胞たちはあなたへ寄り添い、共に歩みを進めてくれることでしょう」
これ以上、わたくしから今の彼女に言えることはありません。
やはり後は自身で考え、導き出し、信念を持って臨むだけなのですから。
「ありがとうございます、聖女様。私……必死に考えて、どうにか答えを出してみようと思います」
それを彼女も分かってくれたのでしょう。とても喜ばしいことです。
だからこそわたくしは、わたくし共を隔てていた小窓を開き、そのか弱い両手を取って告げました。
「――どうか。汝の選ぶ未来に聖母アリアのご加護があらんことを」
いかがでしたでしょうか。
なろうではどうやら短編が結構読まれるらしい、ということを知ったので評判が良ければ続き、というか他のエピソードも書くことを考えてみようかと思います。
(*一応、巡行聖女の補足としましては世界中を単独で渡り歩く都合、魔法による戦闘能力が高く、悪しき人々を裁く審判者としての側面も持っています。あと旦那の方は、同じ日に息子の彼女の母親と寝ています……)
この他にもジャンルは全然違いますが、『昔から何でも話してくれた幼馴染にある日突然「昨日、彼氏ができたんだよね」と言われ、クラスの女子に泣く泣く相談したら幼馴染の彼氏の幼馴染と付き合うことになった。』(現代ラブコメ)と『メリトコリック・リバースサイド』(ロボゲーやってる恋愛もののような何か)(完結済)もありますので、良ければそちらもお読み頂けますと幸いです。