十一月 その一
【娘の調子が良くなってきているので、家族でそちらの街へ遊びに行こうと考えています】
集会から数か月たったある日、暈陰雲から手紙が届いた。命はその手紙を受け、探偵事務所の戸を久しぶりに開いた。
暈陰雲一家がメディウに来るにあたり、泊まる場所が必要になる。暮夜の家や宿屋でも良かったのだが、暈陰雲の娘の事を考えて、騒がしい場所ではなく静かで他の動物の出入りが少ない探偵事務所のほうがいいだろうという話になった。
なのでこの度、命が事務所の掃除の任を請け負った。一年以上閉ざされていた事務所には埃の雪が積り、ここだけ時が止まっているように見えた。
命は三階から一階まで全ての窓を開け放ち、長い間住み着いていた埃を外へと追い出した。つむぎが見たら発狂するだろうなと考えながら、体中に埃を絡ませ、何度もくしゃみと身震いを繰り返して掃除をする。
「ごめんください」
一階の掃除をしていると、戸のほうから動物の声が聞こえた。
「はい?」部屋の奥にいた命はそちらを見る。「あぁ。うだつさん。お久しぶりです」
訪問してきたのは一年以上前、息子を探してほしいと依頼してきた薄茶毛の犬、うだつだった。
「ご無沙汰しております。お元気でしたか?命さん」うだつは言った。相変わらず不健康なほどに痩せていて、脆弱に見える。彼はその細い体とは対照的に、中身の詰まった大きな巾着を持っていた。
「はい。なんとか」命はうだつの側へ行った。「うだつさんもお変わりありませんか?」
「まずまずです。…おや?埃が、」黒い鼻をひくつかせたあと、盛大にくしゃみをする。
あまりの大きなくしゃみに命はヒゲを立てて驚いた。「大丈夫ですか?」
「えぇ」痩せた犬は脇腹をさすった。「びっくりしたでしょう。妻からも、くしゃみが大きいと注意されるんですよ…」
「いいえ。すみません。いま掃除中でして」命は事務所を振り返ったあとうだつを見た。「今日はどうなさいました?」
うだつは鼻をズッとすすってから話した。
「いえね。実はここ最近、何度かこちらに伺っていたのですが、いつも閉まっていて。心配していたんですよ。もう辞めてしまわれたのかと。そんな噂も流れていましたから」
「それはそれは」命は軽く頭を下げる。「何度もご足労頂いて申し訳ありません。少し事情があって、今は閉めているんです」
「そうでしたか」うだつはヘラっと笑った。「照さんはいますか?」と事務所を見回す。
「姐さんは…。調査で出掛けています。大きな仕事で、それにかかりきりなんですよ。他の仕事も受けられないくらいで」助手は誤魔化した。
照がいなくなってから、他の動物にも同じように照の所在を聞かれることがままあったが、その度に命は用事や調査と言って誤魔化していた。しかし巷では行方不明や死亡した、猫の国に帰ったなどといった良からぬ噂が立つこともあった。
「だから閉めていらしたんですね」犬は残念がった。細い尾が下がる。「お会いしたかったです」
命も照に会いたい気持ちで一杯になった。「姐さんに伝えておきます。それで、どのようなご用で?」
「あぁ。そうでした」彼は手に持っていた中身がぎゅうぎゅうに詰まっている巾着を見せた。
「まとまった文ができましたので、お持ちしました。息子探しのお礼です。遅くなって申し訳ない」
「そんな」命は驚く。「受け取れません」
「いいえ。受け取ってもらいますよ。照さんは余裕のある時にでもと言ってくださいました。あっしらもお礼をしないと気が済まねえんです。
息子が塾を終えて一匹立ちしたとはいえ、生活が楽になったとはいえず一年以上もかかってしまいましたが、貰ってください」うだつは巾着を命のほうへ掲げた。
息子の塾代のために節制して痩せ細っていたうだつだが、息子が見つかった今でも心配になるほど痩せている理由はこのためだったのだろう。
「しかし…」助手は迷った。「俺は何もしていませんし、今は事務所も締めていますし…」頑張って貯めた文を助手の自分が受け取るのは申し訳なく思った。
「駄目です。なにがなんでも受け取ってもらいますよ」うだつは三毛猫の手を掴むと、巾着を押し付けた。
「ところで、事務所を開けて掃除なさってるということは、その仕事が終わったのですか?再開なさるとか?」
「いいえ」命は巾着の扱いに困った。ぎっちり詰まっているのでかなり重い。「近々姐さんのご親戚の方がいらっしゃるのでここに泊ってもらおうかと」
「なるほど。ではお仕事はまだかかりそうなんですね?」垂れた耳がさらに下がる。
「えぇ。そうです」助手は巾着を部屋の真ん中にある背の低い椅子に置いた。あとで資料室に仕舞っておこうと考える。「うだつさんはいかがですか?お仕事のほうは」
「あっしは変わらずです」うだつは額にシワを作る。
「採掘やら郵便やらで仕事をしたあと、週に一度飲むくらい。妻の藍真はあの後しばらく落ち込んでいましたが、最近は穏やかになったんですよ。というのも実は、久司から手紙が届くようになったんです」細い尾を控えめに振る。
「おぉ」命は感嘆した。「それは良かったですね」光石祭で演説をしていた姿を思い出す。
「はい。あいつが選挙に出るというのは未だに信じられませんが、やりたいと望んでいるのならあっしらは応援しようと思います。子供を支えるのが親の役目ですから」
うだつの晴れ晴れとした表情を見て、息子の久司だけでなく父親の彼もまた変化したのだと命は思った。
「姐さんがそれを聞いたらきっと喜びます」
「ぜひ照さんが戻られたらよろしくお伝えください。またお会いしましょうとも」
「はい。必ず」
うだつは頭を下げるとお邪魔しましたと言って帰って行った。
命は掃除の手を再開させながら、照の信念や努力が、彼女がいなくなった今もなお残っているのだと実感した。彼女が解決した事件、救った動物たちが確かにいる。
一年以上照の影を追う日々が続き、まるで夢の中で見た存在するかどうかも怪しい猫を追いかけている気分になる時もあったので、こうして彼女が残した痕跡を見つけられると嬉しくなる。
そしてまた新たに彼女を探す気力も命の中に湧いてきた。うだつのことを伝え、喜ぶ照の顔を想像する。きっと青い目を輝かせ、長い尾をピンと立てながらよかったなぁと言うはずだ。
掃除を終わらせた数日後、投札の日がやってきた。事前に有志でできた組合が撒いていた札をもって命は出掛けた。
選挙の演説が行われていた場所に大きな箱が設置されているので、白組が演説をしていた広場へ行ってみると、大勢の動物が投札をしようと群れていた。ごちゃごちゃとお喋りしている声で溢れている。
押し合いへし合いして命もようやくはこの前に辿り着き、札を投げ入れる。投札は今日一日行われ、結果が出るのは後日となる。
投札の翌日の昼。暈陰雲夫婦とその娘が探偵事務所へやってきた。数日間メディウに滞在し、一家が泊っている間は命も事務所で寝泊まりする。
「とても素敵な事務所ね」暈陰雲は事務所に入ると言った。
彼女はこれまでほとんど猫の国を出たことがなかったので、目に映るものすべてが新鮮で刺激的に映り、興奮してその淡い黄色の目を星のように輝かせていた。
「お世話になります」樋成が命に言った。
「長旅でお疲れでしょう。ゆっくりしていってください」命は一家を労わった。
「ここが照と冴夜が働いていた場所なのね。手紙ではよく様子を教えてくれていたけど、実物を見るのと私の想像ではやっぱり違うわね」事務所の中をぐるりと見回したあと、娘を見る。
「どう思う?天?」
娘の天は知らない場所が怖いのかプルプルと震えていた。
「大丈夫?」母は落ち着かせようと娘の背を撫でる。
「疲れているのかもしれないね」樋成も娘を心配した。
「そうね。城を出てここまで来るのに二日はかかったから」
「上の部屋で休んでください」命は促した。
「えぇ。そうさせてもらうわ」
一家は二階にある空き部屋を使った。暈陰雲は今日はもうどこへも出かけることはないだろうと言ったので、命は午後から道場へ行って暮夜の手伝いをしたあと照探しに移り、夜になると事務所へ戻った。
「おかえりなさい」部屋の真ん中にある背の低い椅子に暈陰雲が座っていた。
「ただいま戻りました」命は彼女の対面に座る。
「ご苦労さま」暈陰雲は命が毎日このように過ごしているのかと考えた。
「いいえ。こんなのは苦ではありませんから」大きな三毛猫はなんのそのと首を振る。「樋成さんと天さんは?」
「二匹とも寝ているわ。娘は初めての旅行で、初めての場所だったから怯えて疲れちゃったのね。ぐっすりよ。彼女の調子が良かったら明日はこの街を観光して回ろうかと思っていたけど、落ち着くまで少し時間がかかりそうだわ」小さなため息。
「やっぱりまだ旅をさせるのは早かったかしら?」
「知らない場所は誰でも疲れますよ。慣れるまでご無理なさらず」命は励ました。
「そうよね。焦っちゃ駄目よね」
「暈陰雲さまはお疲れではないですか?」
「私?私は全然。むしろ興奮して疲れ知らずなの。それに目が冴えてしまってね。なんだか眠ってしまうのは勿体ない気がするの。せっかく外に出られて、知らないものをたくさん見ているんだから、少しでも長く目に焼き付けておかないと」部屋を見回す。「本当に素敵な場所よね」
「姐さんが聞いたら喜びます」この瞬間の暈陰雲を照が見ていたら、と命は悔しく思った。
「娘もここを楽しめるといいんだけど…」二階で寝ている娘を心配し、母は揺らめく炎のような耳を下げた。
「せめて暮夜たちに会いに行けるくらいの余裕が出てくれたらね。せっかくこの前子供たちと友達になれたんだから」
「そうですね」頷く命。
「もしあの子が癇癪を起してしまったらごめんなさいね」
「構いませんよ。ところで、」命は声を落した。「よく誘夜さまが出国を許可してくださいましたね」
「えぇ。私も驚いているわ」暈陰雲も不思議だと首を傾げる。
「一生猫の国から出ることはないと思っていたから。しかもお兄さまのほうから提案してきたのよ」
「誘夜さまから?」命は面食らった。
「そう。お兄さまは私たちを厄介払いしたいのよ」
「といいますと?」
「ほら、お兄さまから見れば私は仕事もしていない邪魔者でしょ?最近はお姉さまとの言い争いも増えてしまったから、ますます厄介者になってるの。
娘の病気のこともあるし、私たち家族を城から追い出したいと思ってるのよ。そんなことしなくても私たちはいずれ追い出されるのにね」
可惜夜一族の決まりで現在のお頭、誘夜が亡くなった場合、その兄弟たちは城から居を外れることになっている。
「たぶんお兄さまは自分がお頭のうちに私たちに出て行ってもらいたいんじゃないかしら?
今までずっと外に出してもらえなかったのに、今になって社会勉強だとか気分転換だとか、姪っ子の病気のためだとか言って外に出るように促してきたの。可笑しいわよね。
きっと私たちのほうから出て行きますと言うように仕向けてるんだわ。自分から言うのは体面が悪いから」
「そんなことがあったのですね」
「陰湿よね」暈陰雲は悲しげに微笑む。「本当にくだらない体面だわ」
命は胸の内で静かに驚いた。暈陰雲がここまでお頭を悪く言うのは聞いたことがなかったからだ。猫の国を出て開放的な気分になっているせいかもしれない。
「ずっと前から樋成さんと話し合いをしていたの」彼女は言った。
「城を出たあとはどうしようかって。だから出て行くことに関しては何も問題はないし、気にしていないの。でも今すぐ引っ越すってわけにはいかないわ。娘の病気のことが心配で。
城には血迷い症についてよく知るお医者さまが来てくださるのだけれど、城を出たら診てもらえるか分からないから。メディウにはそうしたお医者さまがいる?」
「正直に言ってこの街の医療は当てにならないかと」命は耳を掻いた。メディウにも血迷い症になる猫はいるが、治ったという話はあまり聞かない。
「そうよね。私は仕事もしていないお荷物なのに城に住んで、使い猫もいて、娘の病気も診てもらえて、蔵に隔離もできている。とても恵まれていると思っているのよ。何もしていない私がこんな恩恵を受けるなんて厚かましいとも。
だから私も何か家に貢献したいのに、何もさせてくれない。やっぱり私にできる事は一刻も早くあの家から出て行くことなのかしら」がっくりと落ち込む。
「暈陰雲さま…」
「私って…。なんのためにあの家に生まれたのかしらね?こんな毛色に生まれたせいでお父さまの子じゃないって言われ続けて…。城からもあまり出してもらえず、一族のために働くこともできない。照を探すための情報だって何ひとつ見つけられてないし…」
命もつられて落ち込んだ。「お辛いですね…」
深いため息。「でも、あまりクヨクヨもしていられないわね。私はもう母親になったんだから、娘のためにしっかりしないと」気合をひとつ入れる。
母親の強さを目の当たりにして命は複雑な内情になった。自分の母親、照の母親と、暈陰雲とは一体何が違うのだろう。




