七月 その三
-前回-
病院から戻った一行は、看護師の月華の話を怪しみ、病院へ忍び込む計画を立てる。つむぎには今までの手紙を嗅いでもらい、照と命は準備を整えて病院へ向かったのであった。
照は気配を消すと茂みから出て行った。両手を地面に付いて極限まで身を屈めると、足音もなく風がそよぐようにスルスルと進んでいく。
棟の影に辿り着くと照は体を丸めて手足や胸にある白い毛を隠し、青々と輝く大きな目を閉じた。その姿はただの黒い塊となり、闇夜影に溶けて見つけるのが困難となった。
以前暮夜が「冴夜は隠れるのが誰よりも上手い」と言ったが、それは冴夜が全身真っ黒の毛をしているため、目をつぶるだけで闇に身を混ぜることができるからだ。
それに加え猫種は体が柔らかいため、頭さえ通ればどんな隙間でもすり抜けられる。さらに液体のように体形を変えることもでき、足音も静かなので隠密行動に向いている動物だった。
冴夜もまた非常に優れた柔軟性を持っており娘の照もそれを受け継いでいる。
命は探偵の姿を目で追っていたが、丸まってからは見失ってしまった。一抹の不安を抱きながらも指示された通りに動く。
茂みから出ると照が指した木に近づき、手に持っていた木の棒を口に銜えてから爪を立てて登り始めた。音もなく軽い身のこなしで中腹部分にある太い枝に辿り着く。
そこは三階ほどの高さで、照が言った通り窓から廊下と病室の戸が見えた。相棒を心配する気持ちはあるが、命は己の役目をしっかりと果そうと集中して周りに目を配る。
照が消えてから十分ほど経つと、見回りに来た看護師の犬が廊下に姿を現した。光の石が入った提灯を持っている。
命は木の棒で自分が乗っている太い枝を二度叩いた。これで大丈夫かと不安になるほど小さな音だったが、足音と提灯の明かりもあって看護師の居場所が照にもすぐ分かるだろう。
看護師の犬が廊下を渡って姿を消すと、しばらくはなんの変化もなかった。木々の擦れる音、風、虫の声といった自然の音だけが鳴り、一度だけ遠くのほうで誰かが話す声が微かに聞こえた程度だった。
命は空を見上げた。もうそろそろ三十分になる。辺りを見回してみたが照の姿はない。このままでは彼女を置いて事務所に帰ることになる。
指示を守らず探しに行くべきかと悩んでいると、とつぜん命のすぐ後ろで青々とした二つの光がパッと浮かびあがった。
「…っ!」命はひどく驚いた。なんとか声は出さずに済んだが、三色の毛は逆立ち、筋肉が跳ねたせいで乗っていた枝をガサガサと揺らしてしまった。
「姐さん!」助手は動揺を押さえながら小声で言った。「いつの間に?」
「もう五分近くここにいたぞ?」青い目をキラリと光らせながら照は茶目っ気のある声で言った。
「驚かさないでくださいよ」助手は静かに怒った。「落ちるところでした」爪を枝に食い込ませる。
「猫も木から落ちることはあるさ」耳を澄ませる。「うん。君の心臓はちゃんと動いているな。ちょっと速いけど」
「ふざけないでください」呼吸を整える。
「ごめんね」照はひらりと身を翻すと、音もなく命のひとつ上にある枝に移動した。
「...母さんはいなかったよ」と、とてつもなく低い声で告げる。
「え?」
「看護師が言っていた部屋に近づいて耳を澄ませてみたんだ。さすがに中に入ることはしなかったよ。母さんがいたら病気を悪化させてしまうかもしれないからね。それで、これ以上にないほどの集中力を発揮させて聞いたが、部屋には誰もいなかった」
「誰も?空室だったのですか?」
「あぁ。私の耳がおかしくなったのかと思って一応隣の部屋も聞いてみたら、こちらには母さんじゃない誰かが寝ていたよ」
「では、奥さんは一体どこに?」命は顔をしかめる。
「分からない。別の部屋か、別の棟か…。いずれにせよあの看護師はまた嘘をついたわけだ」照は考えた。
「情報が少ないな……。よし。一か八か、看護師たちの詰所へ行ってみよう。何かわかるかもしれない」
「駄目ですよ。見つかってしまいます」助手は止めた。
「詰所は確か一階にあったよな」照は聞いていなかった。
「姐さん!」命は語気を強くする。「駄目です!」
「調べないと」探偵は相方を見た。「君はこのままで終わっていいのか?なにも分からないまま帰ることになるぞ。ちょっと見るだけだ。いや、正確には聞くだけ」
「……分かりました」三毛猫は折れた。こうなった照に何を言っても無駄だと、長年相方をしている経験で理解している。「少しだけですよ。すぐに帰りましょう」
「あぁ」
二匹は静かに木から飛び降りると、病院の壁伝いに歩いて昼間に訪れた受付がある建物へ向かった。コソコソと進み、二匹の目がときたまキラリと暗闇に光る。
開いている窓を見つけるとそこから中へ忍び込み、看護師たちが集まっている詰所へ向かった。
「ここで見張っていろ」照は詰所から少し離れた廊下の角で助手に指示した。
命は頷く。
黒猫は床に頭が付くほど身を低くして詰所の近くへ移動した。一段と暗く影になっている場所を見つけると、そこに身を丸めて手足を仕舞い、目をつぶって耳の神経を研ぎ澄ます。
数匹の動物の足音、物を移動させる音、話し声。その中でも聞き覚えのある声が目立った。
「いつまで続けるつもり?もう限界でしょ?」昼間に会った看護師、月華の声だった。
「そろそろだな」オスの声。「潮時だろう。切ればいいさ」
照はオスの声に聞き覚えがあった。それは風見という名の猫で、ひなたの担当医師だった。月華と風見は双子であり、猫の国で見た家系図によると照のはるか遠い親戚にあたる猫たちであった。
「あなたが始末してよね。言い出しっぺなんだから」月華は苛ついていた。
「お前だって賛成しただろ」風見は言い返す。
「そうだけど、そうやっていつも面倒なことは私に押し付けるじゃない。昔っからそう。あなたは考えるだけで、実行するのはいつも私。自分は何も手を汚してませんって顔するじゃない。腹立つわ。今回のことは医者のあなたから言ってよね。その方がうるさくないから」
「わかったよ」風見はめんどくさそうに了承した。
二匹の間に沈黙が訪れる。照は話の内容が良く掴めず、ただ兄妹喧嘩をしただけで二匹の会話はこれで終わりなのかと思い、別の会話に耳を傾けようとした。だが月華が再び喋り出したのでそちらに集中した。
「それにしてもあのチビも健気よね。毎月ちゃんと文を持ってくるんだもの。半年も前に母親は死んでるっていうのに。今日も会わせろってしつこかったわ」
「そういうのを間抜けって言うんだ」風見が言う。
「えぇ。間抜けだから首飾りを選ぶ能力もないのよ。あの古臭い首飾り、ぜんぜん高く売れなかったわ」クツクツとせせら笑う。
「あんなのが子孫で可惜夜の名も落ちたもんだな」風見も嘲笑った。「先祖泣かせだよ」
「探偵なんてバカな仕事を父娘でやってるなんてね」月華は息まく。
「抵抗せずに跡継ぎをやっていればよかったのよ。こっちは安月給で働いてるっていうのに。命を預かる仕事なのに安く見られたもんだわ。
それに対してあんな名ばかりの奴ら。一族の文があるから探偵なんて愚かな仕事ができるんだわ。所詮は文持ちのお遊びよ。
あ~ぁ。月夜美さまがお頭になっていればよかったのに。そうしたら今ごろ私たちもこんな仕事しなくて済んだわ」
「確かに」と風見。「俺たちのほうが子孫としての出来がいいのにな。可惜夜の子孫ってだけでチヤホヤされやがって。分家の俺たちがどれだけ惨めな思いをしてきたか、あいつらには一生分からないだろうな」
月華はおおきなためいきをつく。「あの母親が入院してきて、せっかく一族から文を巻き上げるいい機会だと思ったのに、チビが持ってくるのは治療費だけ。しかも自分で稼いだ文よ?もっと持ってるくせに、ケチケチしちゃって」
「やっぱりあの噂は本当だったんだな」風見は意味ありげに言った。
「噂?」
「あぁ。終夜が孫を見限ったってやつだ。鐚一文、孫には与えてないからあのチビもで自分で稼いだ文しか持ってこないんだ」
「ふ~ん」月華はつまらなさそうに言った。
「所詮は逸れ者と庶民の子供だ。俺たちのほうが位が高いってもんよ」風見の声には貶しの色しかなかった。
「そうれはそうね。というか、その終夜はこの間くたばったそうじゃない」月華はどこかを掻いた。「誘夜のほうは息子にご執心だって話だけど?」
「その子にしてその親ありだな。放蕩息子に世間体を気にする父親。ある意味一族の名にふさわしいんじゃないか」風見はふっと笑う。
月華は欠伸をした。「とにかく、このお遊びはもう終わり。手紙を書くなんて嫌だったから清々したわ」
「もっと楽しんで稼げると思ったんだけどな。当てが外れた」風見も欠伸をする。「さっさと帰ろう」
「そうね」
二匹はガザガザを音を立てて仕事に戻った。
「母さんが…」照の全身がぶるぶると震える。「死んでる…?」
「姐さん?どうしました?」探偵の戻りが遅いことを心配した命はこっそりと彼女に近づいていた。
「そんな……。まさか、嘘だ…」照は譫言のように呟く。
命は相方の異常に気付いた。震える小さな黒猫を抱えると素早くその場を離れ、入ってきた窓から外へ出る。
腕の中にいる照はまだ小刻みに震えていたため、話を聞くのは後回しにして、命はしっかりと黒猫を抱えると駆け足で事務所へ戻った。
「姐さん。大丈夫ですか?」事務所に着くと命は部屋の真ん中にある椅子に照を座らせた。
「あ、あぁ…」探偵はまだ動揺していた。体の震えは収まっていたが手は細かく揺れている。
「あ!お帰りなさい!」つむぎが二階から降りてきて大音声で言った。「ごめんなさい!お留守番してたんですけど、眠たくてちょっとだけ寝てました!どうでしたか?」
「つむぎさん。どうかお静かに」命は注意すると照の横に座った。「姐さん。なにがあったのです?」
照はしばらく塞ぎこんで何も言わなかったが、やがてボソボソと説明した。
「だから、母さんは…。もう…。もう…」青い目に涙が溜まる。
「照さん…」静かに話を聞いていたつむぎは戸惑った。
「私がやって来たことは全部無駄だったんだ!」小さな黒猫は唐突に叫んだ。
「母さんのために仕事を頑張ってきたのに!母さんが帰ってくるのを待ってたのに!だのに!なぜだ!!あんな奴らに…。あんな奴らに!!
なぜこんな仕打ちができる!?私は好きで可惜夜の家に生まれたわけじゃないのに!」
激しい慟哭を露わにし、照は自分の爪を引きちぎらんばかりに噛んだ。
「姐さん。落ち着いてください」命は彼女の手を掴んだ。「あいつらの言ったことが本当かどうか分からないじゃないですか。もう少し調べてみましょうよ」
「無駄だよ!」照は相棒の手を払った。
「嘘をつく必要が何処にある?誰も聞いていないのに嘘の悪口をいう奴がどこの世界にいるって言うんだよ!私が聞いていると奴らが知ってたのか?そんなわけないだろ!
現に母さんは病室にいなかった。手紙だってあの看護師が書いてる。これ以上調べる必要があるのか!?母さんはもう半年も前に死んでたんだよ!それなのに私は間抜けにも奴らに文を払ってたんだ。あんなさもしい奴らに!」
大きな青い目から大粒の雫がポトポトと床に落ちる。
命はそのあまりにも痛々しい姿に何を言えばいいのか分からなくなった。
つむぎも怯えて小さくなる。
「なぁ、命」照は猫が変わったかのように急に穏やかになった。
「は、はい。なんでしょうか」命は戸惑った。
「私はどうすればいいんだ?」
「え…?」
「母さんがいなくなった今、私はどう生きていけばいいんだ。なんのために生きればいいんだ」小さな黒猫はそう問うたが答えを求めているようには見えなかった。
「姐さん…。まだ希望はありますよ。たとえ奥さんが…。そうであったとしても、旦那は今もきっとどこかで頑張ってらっしゃるはずですから」できる限りの言葉を探す。
「どこで!?」照はまた別猫に変わると毛を逆立てて怒鳴った。
「それは……。分かりません」助手は耳を下げる。
「ほらな。父さんだって生きているか分からないんだ」
「生きていらっしゃいます!」
「だからどこで!?君ももうわかってるだろ!」小さな牙を見せる。
「この一年、何の音沙汰もないんだぞ。なぜ何も言ってこない?なぜ紙切れひとつ寄越さない?妻と子供以上に大事な仕事とはなんだ?そんなのあるわけないだろ!
死んでいるんだ!死んでいるから帰って来ないんだよ!!きっと骰狗の奴らに殺られたんだ!」
ずっと抱いていた不満をぶちまける。
「違いますよ。きっと姐さんと奥さんのために身を潜めているんです。もしくは身動きが取れない状態で、」
「もういい!そんな詭弁はうんざりだ!」照は千々に乱れながら立ちあがると、事務所を飛び出して行ってしまった。
「姐さん!」命は追いかけようとする。
「待ってください!」つむぎが命にしがみ付いて止めた。「照さんを一匹にしてあげましょうよ」
「しかし、」
「今は何を言っても照さんが辛くなるだけです」子犬は耳が無くなるほど後ろへ折りたたんだ。「そっとしてあげましょう」
命は事務所の開け放たれた戸を見つめてつかの間悩んだ。
やがて「そう…ですね」と呟いて力を抜く。なんの助けにも慣れなかった己の不甲斐なさを恥じて拳を握り締めた。
三毛猫と子犬は呆然としながら照が帰ってくるのを待った。つむぎはすぐに舟を漕いで椅子で眠ってしまったが、命は朝まで起きて待っていた。
「……姐さん!」
朝になると照がうつむいたまま長い尾を引きずって事務所に入ってきた。
「大丈夫ですか?」命は相方に駆け寄る。
「あぁ…」照は小声で答えた。表情は暗く、命と目を合わせようとしない。
「…お疲れでしょう。休んでください」その様子を見て命は上階へと促した。
肩を落とた彼女は何も言わずに重い足取りで階段へ向かった。
「…なぁ、命よ」階段に足をかけたところで照は言った。その声は意外にもしっかりしていた。
「はい。なんでしょう」
「この事務所に意味はあるのか?」やおらに尋ねる。
「え?」
「父さんも母さんもいない。だったらもうこの事務所を守る意味がないよ」命に背を向けているため照の表情は読めなかった。
「旦那は生きています。必ず帰ってきます」命は断言した。「それに、俺はこの事務所に意味があると思っています」
「君にあっても、私には無いんだ」黒猫は闇に消えて行きそうに言った。「私は無力だ。無意味だ。……もう疲れたよ」
それを聞いて命は面魂を見せながら心の中で叫んだ。
俺にとってはあなたこそが意味なのに。俺はあなたのために生きているのです。ここで頑張るあなたのためにここにいるのです。俺のために頑張ってくれとは言いません。ですがどうか、俺の生きる意味を奪わないでください。
そんな叫びが聞こえるはずもなく、探偵は全てを諦めた様子で階段を上り始めた。
「……照さん」
片耳をピクリと跳ねさせて照は動きを止めた。
「あなたが旦那と奥さんのためにこの事務所を守っていたことは分かっています。ですが、探偵のお仕事は楽しくなかったですか?やりがいを感じなかったですか?」命は探偵業をしている照の青い目の煌めきを思い出していた。
照は微かに命のほうを向く。
「誰かのお役に立てて嬉しくなかったのですか?俺は…。俺はそうではないと思っています。
あなたの側にいて、あなたを見ていて、あなたの手伝いをしていて、この方は本当に心の底から誰かの役に立ちたくてこの仕事をしているんだと感じました。誰かを助けたいという純粋な気持ちを持っていらっしゃるんだと。
そんな方が簡単にこの事務所を終わらせていいのでしょうか?」
照は黙って相棒の言葉に耳を傾けていた。
「俺は旦那も奥さんも生きていると信じています。そんな気がするんです。きっとお二匹は今もあなたを頼りに思っています。あなたという希望の照を頼りに。
あなたは今、暗い場所にいるかもしれません。ですが、あなたこそが光なんです。ご自身が光っていることに気付いてください。あなたがいるからこの事務所には意味がある。だから諦めないでください」
二匹の間に沈黙が流れる。
「命」照は静かに呼んだ。
「はい」
「私はしばらく寝る。起こさないでくれ」
「……分かりました」
照は階段を上がった。「ありがとう。命」




