七月 その一
「ただいま戻りました」命が帰ってきた。
「お戻りなさい!」つむぎが言う。
「おかえり」探偵も言った。
「姐さん。郵便屋で手紙を受け取って来ました」助手は手紙を渡す。
「ありがとう。どれどれ」照は手紙を見る。「ん?母さんからだ」
「奥さんからですか」命も手紙を覗く。「変ですね。奥さんからの手紙は月に一度だけだったのに。次のお手紙はもう少し先かと思っていました」
照は何か悪いことが起きたのではと予想し、顔を強張らせながらすぐ開封した。文字を指で追いながら貪るように読む。
「なんと書いてあるのですか?」命も不安になった。
「うむ……。体調に変わりはない…。そちらは元気にしているか…。手紙はもうそろそろ…」黒猫は独り言のように内容を言った。「ん?また治療費が必要だって?」
「え?」三毛猫も驚く。「どうしたのでしょうか?」
つむぎが寄ってきて、照の持っている手紙を覗き込んだ。「うわぁ。文字がびっしり……。あれ?」と顔をしかめる。
「どうしたつむぎくん?」照は子犬を見る。
「この匂い…」つむぎは鼻を手紙に押し付けた。「病院の匂いですね」
「病院から来ていますからね」命が言う。
「薬草の匂いと、紙と墨の匂い…」とブツブツ言いながら子犬は鼻を利かす。「あとは誰かの匂い…」
「そんなに匂うのか?」鼻の利かない照は驚いた。
「このくらい僕には朝飯前ですよ!猫さんは?」と猫たちを見る。
照は助手を見上げた。
命も手紙の匂いを嗅ぐ。「確かに薬草と紙と墨との匂いがします。ごく微量に誰かの匂いがしますが、誰のものかは分かりません。あとは姐さんの匂いが強いですね」
「そうですかぁ。まぁ犬と猫では色々と違いますからね」とつむぎ。「鼻の長さだったり、嗅ぎ分ける能力だったり、体臭の出る場所だったり。個体差もあるので感じ方や得られる情報はそれぞれです」
「そうか…」照は唸った。
「ところがどっこい!」つむぎはエッヘンと胸を張る。「僕のこの鼻ならもぉっと嗅ぎ取ることができますよ!このお手紙には少なくとも七匹の動物の匂いが付いています!」
「七匹!?」照は青い目を真ん丸にして驚いた。
「はい!」子犬はさらにふんふんと鼻をひくつかせて匂いを嗅いだ。
「三匹の強い匂いと、四匹の微かな匂いがします。恐らくこの四匹の微かな匂いは郵便屋さんのものでしょう。お手紙を仕分けたり命さんに渡したりで、一瞬このお手紙に触れた方の匂いですね」
「宜なるかな」黒猫は感心した。「三匹の強い匂いというのは?」興味津々に尋ねる。
「もちろん照さんと命さんです!このお手紙に長く触れていますからね。匂いが新鮮です!」
「匂いに鮮度があるのかい!?」探偵は再び魂消た。
「ありますよ~!」ふふんと得意気になる子犬。「時間が経つと匂いは薄れますからねぇ」
「それじゃあ、あともう一匹の匂いは母さんか」照は手紙を掲げる。「この手紙を書いたのだから」
「違います」つむぎは首を振る。
「え?」照はヒゲを立てた。「どういうことだいつむぎくん?君は私の母さんの匂いを知らないだろう?どうしてそう言い切れるんだい?」
「照さんのような匂いがしないからです」
「どういうことですか?」命も首を傾げる。
「動物の匂いというのは一匹一匹違います」警察犬を目指す子犬は説明した。「それは皆さんも嗅ぎ分けることができますよね?」と命を見上げる。
「はい」三毛猫は頷く。「このお手紙では分かりませんが、実際にそこにいらっしゃれば」
「ですよね。でも皆さんが嗅いでいるのは上のほうの匂いなんです。匂いには段階があって、例えるなら…。そうだなぁ…。
外套を身に着けた猫がいるとして、皆さんはその中の毛の匂いを嗅いでいるんです。大抵の動物はこの毛の匂いでその方を認識しているんです。分かりますか?」
猫二匹は頷く。
「一匹一匹の毛の匂いは違うのですが、家族になると外套の匂いが少し似てきます。同じ生活をして、同じものを食べていたりするとそのお家の匂いになるんです」
「じゃあ私と命の外套の匂いは似ているということか?」照が尋ねる。
つむぎは猫たちの匂いを嗅いだ。「そうですね。ほんの少し」
「ちょっと待て」照は肉球を見せる。「君はこの手紙に付着している母さんの外套の匂いを嗅いだということか?私と母さんはもう一年近く離れて生活しているぞ?食べる物も違うし、母さんは薬草だって口にしているはずだ」
「違いますよぉ」つむぎはフルフルと顔を振った。「警察犬は外套の匂いではなくもっと深いところ、皮膚の匂いを嗅ぐんです。たとえ違う生活をしていても血の繋がった親子なら皮膚の匂いが似ます。特に同性の親子の場合、かなり似ます」
「ほぉ…?」照は考え込みながら感嘆した。
「これは僕の鼻がそう捉えているという話であって、他の動物や犬さんは違うと思います。匂いの段階も僕なりの表現ですよ」
子犬は得意気に鼻を鳴らす。
「このお手紙、照さんのお母さんが書かれたんですよね?僕は照さんのお母さんの毛の匂いを知らないから、その奥の皮膚の匂いを嗅いだんです。照さんの皮膚のような匂いがするはずなのに、全く違う匂いがします!だから違うと言い切れるんです!」
「いやしかし」照は肉球を舐めた。「手紙を書いてから時間が経っているから鮮度が落ちてしまったんじゃないか?この手紙に触れた他の動物の匂いが混ざっているとか」
「僕の鼻を舐めないでください!」つむぎは鼻先をペロッと舐めた。「普通の犬さんだったらここまで嗅ぎ分けられないんですよ?僕は生まれつき嗅覚が鋭いのでできるんです!
あ~ぁ!僕のこの天才的な鼻も警察に入って訓練すればもーっと精度が上がるのになぁ!僕なら皮膚のその先の、血の匂いまで嗅げそうなのになぁ!どうして落ちちゃったかなぁ!」と嘆く。
「すごい鼻だ」照は子犬を褒めた。「私は匂いについてはどうも…。もっと勉強が必要だな」
「とにかく!」つむぎは叫ぶ。「そのお手紙、他の誰かが書いています!」ビシッと手紙を指した。
「なぜ他の方が書いたのでしょう?」命は怪しんだ。
「もしかして、」探偵は真剣な表情になった。「母さんは手紙も書けないほど悪い状態なのかもしれない」
「え?」つむぎは固まる。
「代筆させているということですか?」と三毛猫。
「あぁ。だから手紙を書くのを控えたいとか、また治療費が必要だとか書いてあったんだ。重症だから…」大きな青い目に涙が溜まる。「どうしよう…。母さん。そんなに悪かったなんて…」
「姐さん…」命は戸惑った。
照はハッとなった。「病院に行ってくる!事は急を要すぞ!」と言いながら事務所を飛び出す。
「待ってください!俺も行きます!」助手は後を追いかけた。
「あっ!僕も行きますよぉ!」つむぎも慌てて事務所を出た。
三匹は白組が運営する病院へ向かった。メディウにある病院は基本的にどの動物でも診察を受けることができるが、白組が運営する病院は猫種が多く受診することで知られている。紅組が運営する病院は犬種が多い。
「あの、母に会いたいのですが」病院の受付に着くと照は言った。「白猫のひなたという者です」
受付をしていたのは犬で、その犬は照を見ると分厚い書物を取り出し、パラパラと紙を捲った。
「その方なら面会禁止になっています」犬は言った。
「ですが…。不調なのでしょう?少しくらい会わせてくれたっていいじゃないですか。もう一年近く会ってないんですよ」照は粘った。
「駄目なものは駄目です」
「ではせめて担当の医者か看護師と話をさせてください。母さんの状態について詳しく知りたいんです」
犬はめんどくさそうにため息をつき、「分かりました」と言うとどこかへ行った。数分で戻ってくると、「呼び出しましたので、その辺でお待ちください」と病院入り口付近を指す。「次の方」
「どうも」照は指定された場所で待った。命とつむぎも同伴する。
呼び出しをしてから三十分、一時間、刻々と時が過ぎて行ったが、医者も看護師も一向に現れなかった。
「まだですかねぇ?」飽きてきたつむぎが言った。
「いくらなんでも待たせ過ぎかと」命も同意する。
「ちょっと待ってて」照は再び受付の犬に問い合わせに行った。「呼び出してはいるそうだ」と言いながら戻ってくる。
「忙しいのでしょうか?」命は周辺を見回した。受診しに来ている動物はちらほらいるが、慌ただしくしているようには見えない。
「さぁな」照は落ち着かない様子で長い尾を振った。「君たちは帰ってもいいぞ」
「いえ、待ちます」助手は即答する。
「僕も待ちます!」つむぎも元気に答える。
三匹はただひたすらに待った。さらに一時間と時が過ぎたのち、ようやく看護師が姿を見せた。
「まだいらしたんですか?もうとっくに帰ったかと」看護師は悪びれずに行った。「なんのご用で?」
この看護師は月華という名の猫種のメスだ。
濃い茶色の毛にところどころ灰色の毛が混ざっているまだら模様をしていて、三角の顔に丸い耳、暗い黄色の目に長いまつ毛をしていた。
月華は照の母、ひなたの担当看護師をしている。一匹でひなたの身の回りの世話を担っていた。
「月華さん。母の様子が知りたいんです。母は元気なのですか?どうなっているんですか?」照は食いつくように早口で質問した。
「急にどうしたんですか?」月華は落ち着いて微笑む。
つむぎが鼻をひくひくさせた。
「ひなたさんなら何も問題はありませんよ。心配はいりません」看護師は小さな子供を落ち着かせるように告げた。
「そんなはずありませんよね?手紙を誰かに代筆させるほど弱っているのでしょう?」照は震えを含んだ声で言った。母への心配と随分と待たされた苛立ちで不安定な精神状態となっている。
「なぜそのようなことを?」月華の微笑みがぎこちなくなった。
「この方の匂いです!」つむぎは小さな指で看護師を指した。「お手紙から匂ったのはこの方の匂いです!あなたが代筆していたんですね!」
「なんだって?」照は子犬を見たあと月華を見た。「あなたが代筆を?どうして教えてくれなかったのですか?」
「なんのことですか?意味が分からないですね。私は代筆などしたことはありませんよ」看護師は不快な顔をする。
「さっき母からの手紙を受け取ったんです」照は説明する。
「このつむぎくんがその手紙の匂いを嗅いだところ、母の匂いがしないと言ったので誰かが代筆しているんじゃないかと考えたのです」
月華は鼻で笑った。「なにをバカなことを」
「バカじゃありませんよ!」つむぎは大声で叫んだ。「僕の鼻は騙せません!」
「私はひなたさんの担当看護師ですよ」月華は少し毛を逆立てた。
「手紙から私の匂いがして当然です。ひなたさんが手紙を書いているところを見ていますし、病室から出られない彼女の代わりに私が手紙を出しているのですから」
「そんな軽い匂いの付き方じゃありませんよ!」つむぎは反論した。「あんなに強く匂いが付くのは書いた方しかありえません!」
「お静かに」看護師は注意する。「ここは病院ですよ。騒いでいい場所ではありません」
「でも!」
「あなたの鼻がおかしいのではありませんか?」月華はつむぎを睨みつける。
「病院で診てもらったほうがよろしいかと。犬の方は紅組の病院をお勧めします」子犬の言うことなど真に受けないという態度を取った。
「あっ!酷いです!」つむぎは鼻息荒く怒った。「子犬だからってバカにして!僕の鼻は天才です!みんなが認める優れた鼻です!」
「落ち着いてくれつむぎくん」照がなだめる。「私はこの子犬を信じます。あなたが代筆しているのですか?」と看護師に尋ねた。
「していません」月華は断言した。「仮に私が代筆していたとして、何か問題がありますか?」
「私は母の容体を知りたいんです」
「看護師の私が、ひなたさんは大丈夫だと言っているんですよ」
「ではなぜ代筆する必要があるんですか?」探偵は折れなかった。
「だから仮にと言っているでしょう。私は代筆などしていません」
「じゃあどうしてあなたの匂いがするんですか!」つむぎが噛みついてきた。
「元気なら自分で書きますよね」照が畳みかける。
「だから匂いくらい付くと言ってるでしょう」月華は苛立って耳を下げると、牙を見せた。「しつこいですね」
「でもあなたの匂いがべっとりと!強烈についているんですよ!」つむぎも負けなかった。
「もういい加減にして!」看護師は叫んだ。「手紙を辞めたいと書いたでしょう!あなた方のそのしつこさに、ひなたさんはうんざりなさっているのでは?」
「奥さんはそのようなことを思う方ではありません」命も参戦する。「奥さんは誰よりも姐さんのことを大切になさっています。出鱈目を言わないでください」
「そんなの私の知ったことではありません。あなたのほうこそ出鱈目を言わないで」看護師は体の大きな三毛猫にも物怖じせず言った。
「看護師の私が一番ひなたさんの側にいるのですよ。彼女の状態をよく知っています。何度も言いますが、彼女にはなんの問題もありませんので、お帰りください。これ以上は迷惑です」病院の入り口を指す。
「しかし、」命は反論しようとした。
「もういい」照が止める。
「姐さん?」助手は探偵を見降ろした。
「分かりました。もう手紙は送らないと母に伝えてください」照は感情のない声で看護師に言った。
「何を言っているんですか!」命は驚く。「奥さんとの手紙のやりとりを楽しみにしていらしたじゃないですか」
「黙れ」命令するような口調で照は助手を見た。
三毛猫はグッと黙る。
「手紙はもう送りませんが、」照は看護師に言う。「せめて母がどの病室にいるのか教えていただけませんか?できれば近くまで行きたいのですが」
「無理です。面会はできません」月華はしかめ面で首を振る。「近くに行くこともできません」
「場所くらい教えてくれたっていいじゃないですか」黒猫は消沈した姿で頼んだ。「病院の外からその場所を見つめて、母を想うことすら許されないのですか?」
看護師は怒りを含んだ大きなため息をついた。「西側の棟にいます。三階の角のお部屋です」
「分かりました。どうもありがとう。治療費はまたあとで持ってきます」照は頭を下げた。「行くぞ」と他の二匹に言って病院を出る。
「え?帰っちゃうんですか?」つむぎはポカンとする。
命は戸惑っているつむぎを抱えると照の後を追った。




