五月 その五
そばえと茂闇の件が落ち着いた二日後。照と命、暈陰雲の三匹は近衛団長の鍔貴の家を訪れた。鍔貴の弟や妹、親戚たちが集まって家系図を製作することになったので見学に来たのだ。
照たちが鍔貴家の広い居間にお邪魔したとき、既に弟妹たちは到着しており、床にはたくさんの書物が並べられていた。鍔貴は机の前に座り墨のついた筆を持って、まさに今から家系図を認めようとしているところだった。
「うわぁ。たくさん書物や資料があるのですね」照は感心した。「他の家の家系図まで?」としげしげ書物の表紙を見つめる。
「とても興味深いわ」暈陰雲も手に取って乱読した。
「枝分かれが多いと家系図も増えていきますから」鍔貴はそう言ったあと自分の祖先の名を一番初めに書いた。
「さて、この方の息子の名前はなんだったかな?確か…。その次の娘殿の名は覚えているのだが…。齢を重ねると物忘れが多くてならん。どこかに書いてないか?」とブツブツ言いながら手当たり次第近くにある書物を漁る。
「ここにありますよ」鍔貴の親戚が示した。
「おぉ!」団長は名前を書き留める。「これでよし。次は娘殿で、その次が…」
「三代目近衛団長さまですね。長夜さまにお仕えしていました」と親戚が助言する。
「そうだったな」名を刻む現団長。
「照さま」鍔貴の弟が小さな黒猫に話しかけた。
「なんでしょう?」照はその弟を見る。
実は鍔貴と弟と妹は三つ子で、鍔貴は近衛団長、弟は城の蔵管理、妹は警察団に所属していた。
「本日、照さまにお会いできると伺いまして」鍔貴の弟は言った。「こちらをお持ちしました」黒い表紙の書物を出す。
「可惜夜さまから照さままで続くお頭の家系図です。照さまがご覧になりたいかと思ってお持ちしました」
「ほぉ!」照は驚きつつ受け取った。「いいのですか?私が見ても?」
「はい。直系の方は見てもいい決まりになっています」
「でも…。蔵から出していいのですか?」
「ちょうど掃除する時期でしたし、管理に関しましては全面的に任されておりますのでご安心ください。私が責任を持ちます故」
「あら。懐かしい」暈陰雲が照の持っている書物を覗き込んだ。「私もむかし見せてもらったことがあるわ」
「なるほど。では遠慮なく拝見させてもらいます」照は表紙を開いた。
一枚目には猫の国の成り立ちが簡潔に書かれ、その次がお頭録と記されている。紙の隅に小さくオスとメスの名があり、そこから線が伸びて【初代 可惜夜】と大きく書かれていた。
「可惜夜さまの時代には文字が今より普及しておりませんでしたので、専属の書き師がおりました」鍔貴が手を動かしながら説明した。
「それが某らの祖先です」
「ふむふむ」照は紙に羅列されている文字に目を滑らせた。「可惜夜さまには妹君がおられたのですね」可惜夜の隣に小さくその名が書かれていた。
「はい。月夜美さまです。月夜美さまから続く家系図も私が管理していますよ」鍔貴の弟が言った。
「ほぉ」照は紙をめくる。「……番の名前はないのですか?」と弟に尋ねた。
「ありません。可惜夜さまのご指示で血族のみ記すという決まりになっております。他の資料でも記すことはありません」
「名前すら残してもらえないなんて」可惜夜の子孫は憤った。「なんという冷遇」好奇心から家系図を開いたが、まさか気分を害することになるとは思っていなかった。
可惜夜一族と結婚すると家系図だけでなく他の資料にも名前が載らない。つまり番の名が猫の国の歴史に残ることはほとんどないということだ。
日常生活において番は優遇されるものの一族の中では身分が低い。お頭の葬儀では例えその妻や夫であっても参列は出来ず、年に一度の集会も出席はできない。宴や祭り事などの行事には参加できるものの、影のようにひっそりと隅に存在していた。
暈陰雲の夫、樋成のように近衛に所属していたり、国の公署や役職に就いていれば別だが、大抵の番は毛並みは良いものの大役に就いている者は少ない。
照は歴代の番たちのことを想った。才能あるものが沢山いただろう。肩身の狭い思いをしていてもその尊い命を懸命に生きていただろう。そして番にも親兄弟がいただろう。思い出があっただろう。
それが記されることなく消えて行く。ひとつも残さず。せめてどこかに一度でもその名が書いてあれば報われるのに。その猫が生きていたという証拠になるのに。母さんや暮夜おじさんの妻、うららさんもそうなっていたかもしれない。
歴史に名を残すことだけが全てではないと分かっている。世の中の大半は何処にも記されずに朽ちていくのだ。今まで出会ったほとんどの動物もそう。
それなのに私はここに記されている。一族の子孫としてここにいる。もう抜けたというのに。なぜだ?なぜ私の名がここにあるのだ。父さんと母さんの元に生まれたことは幸せだが、私もみんなのように儚く消えゆく命でありたかった。
この名に、この命に、この血に付属しているものがあまりにも多すぎる。
照は猫の国にきてからというもの、そのように感じる場面が多々あった。何も言わずとも門をくぐれたり、護衛が付いたり恭しく接せられたりと優遇された。
「悪いことばかりではないと思いますよ」鍔貴が言った。
「え?」照は思案から目覚めた。「そうですか?」
「はい。可惜夜一族の方と結婚されるのはそれなりの身分の方です。その家に生まれたのであれば、己の役目というものを幼子の頃から教えられ、それをよく理解したうえで結婚なさっている方ばかりだと思います。
一族と結ばれれば一生困ることはありませんから。なので一概に不幸とは言えません。もちろんいつだって例外はありますが」鍔貴は暮夜や冴夜のことを暗に示した。
「確かにそれはありますね」照は複雑な心境になった。
「これは私見なのですが、」鍔貴は筆を置く。
「可惜夜一族は血の繋がりを大切になさる方々です。仮に身内同士で争いが起きますと国の危機に陥る可能性がありますので。そうなったら他国から攻められやすくなり、国民の生活が危うくなります。
それを避けるために厳しい掟やしきたりがあるのです。大きなものを守るために規則があるのです。全員が生きやすくするために全員が従うのです。そして己の運命を受け入れるのです。
猫種は他の動物と比べるとお世辞にも最強とは言えませんから、団結することが必須。こうして国が確立していても常に警戒はいしていますし、己の国は己で守ると心に決め、某は任に当たっています」
照は鍔貴の強い信念に触れ、祖父の誘夜や従叔父の極夜に否定的な言葉を投げかけたことを反省した。鍔貴のようにこの国を守るために命を張っている者がいる。彼らには彼らの大きな責任がある。そしてそれを貫く努力もしている。
それなのに私はこの国に住んでおらず、一族から抜け、何の責任も圧力も受けていない。端から否定して、外野の自分が正しいと意見を押し付けるべきではなかった。
「鍔貴さんは父さんのことをどう思っていますか?」照は真剣に質問した。「冴夜のことです。運命から逃げ出した腰抜けだと思われますか?」
「いいえ」鍔貴はキッパリと否定した。「冴夜さまは非常に優れたお方でしたから、某がそのように感じたことは微塵もありません」
「しかし運命を受け入れていないのですよ?」
「冴夜さまには冴夜さまのお考えがあった。それだけです。そのお考えの通りに生きていらっしゃるだけです。それに合うのがメディウの街だっただけです」団長は照の不安を拭うように言った。
小さな黒猫は少し安堵した。「では私の子とはどうお思いでしょう?この国に来て若頭になるべきでしょうか?」
「姐さん?」ずっと黙って側にいた命は魂消て口を開いた。
「それは照さまがお決めになる事です」鍔貴は芯の通った優しい声で言った。
「照さまは素晴らしいお方です。冴夜さまの娘さんだけあってとても勇敢ですし、お心遣いのできる方だ。きっと何をすべきかご自分で分かっていらっしゃるでしょう。ご自分の成さりたい事をするのが一番です」
「ありがとうございます」照は少し頭を下げた。
「私は父さんのようになりたいのです。困っている方を助けたい。たとえそれが猫であろうと犬であろうと、どんな動物であっても。メディウではそれができます。
ですがメディウだけでなく、この世界中の全ての国が平和になって欲しいと思っています。その夢を叶えるのは簡単ではありません。むしろ不可能です。けれど少しでも近づけたい。良くしたい。そのために私は自分の運命を受け入れるべきなのではと考えてしまったのです」
「なにを仰っているのですか!」命は思わず立ち上がった。
「私がお頭になればその夢が叶いやすくなるのではと思っただけだ」照は三毛猫の足元を見る。
「探偵を辞めると?」助手は焦った。
「いいや。いま少し、そんな考えが過っただけだ。ただの世迷い言」黒猫はふらふらと頭を振る。
「そう…ですか」命は腑に落ちないまま座った。
「どのような形でもできる事は沢山ありますよ」鍔貴が助言する。
「そうよ照。可能性はひとつじゃないわ」暈陰雲も励ました。
「はい」照は頷く。「あの、よろしければ他の家系図を見ても?」と鍔貴の弟に尋ねた。
「構いませんよ」弟は白い表紙の書物を照に渡した。「こちらは先ほどお話に出た月夜美さまの家系図です」
「失礼します」照はそれを開いた。「こちらも繁栄されているのですね」パラパラと紙をめくる。
「家系図に名前を載せるには血族の方が報告しに来る必要があります。血が続いていても報告が無くなると消滅する家系図もあるのですよ」弟は説明した。
「へぇ。ではこの家系図があるということは、月夜美さまの子孫が報告にしに来ているんですね?」
「はい。とても齢を召したご老猫の方が新しい命が生まれるたびに来られます。しかしその方が最後に来られたのが幾分と前なので、もしかするともう…」と口ごもる。
「そうですか」照は家系図に目を落した。
「そのご老猫の話によりますと、」弟は言う。「月夜美さまは月光のように美しい白毛の持ち主だったとか。それに先見の明がおありだったそうで」
「先見の明ですか」照は大きな青い目を光らせた。「そのような力を持つ方が存在するとどこかで読んだことがあります」
「どういった力なのですか?」命は近くに座っていた暈陰雲に尋ねた。
「未来を見る力よ」暈陰雲は説明する。「なにが起るかを事前に見抜くの。例えば二日後に雨が降るとか、来年は不作になるとか。自然のことだけじゃなく個々の事情も見たりするのよ」
「そんなことが可能なのですか?」命は小さく驚いた。
「当たり外れはあるみたい。自分の勘や能力で先読みをする方もいれば、星の流れを見て読む方もいるそうよ」暈陰雲は天井を指す。
「月夜美さまはそのどちらも駆使していたそうで」弟が言った。「お力そうとうなものだったと」
「へぇ」照は信じているのかいないのか生返事をした。「……ん?」
「どうされました?」命が尋ねる。
「この方々」照は家系図の最後に記してある名前を指した。「月華と風見。この名前って…」
「なんです?」弟が家系図を覗き込む。
「母さんを担当している医者と看護師と同じ名前です」
「同一猫物かもしれませんね」と弟。
「でもその方々、そんな話は一度もしていませんでしたよ?」照は首を傾げる。
「分家の子孫は自分がそうだと気付いていない方も多くいらっしゃいます。家系図に名前が載っていることも知らなかったり。たくさん枝分かれすると知っていても縁遠くて気にしない方もいますから」
「なるほど」黒猫は納得した。
「元を辿れば某たちはみな同じ猫の生まれ。同じ動物に行きつくと言われています」書き作業に戻っていた鍔貴が言った。「はるか遠い昔のことですがね」
「面白いですねぇ」照の好奇心が刺激された。「意外と世界は狭いのかもしれませんね」相棒を見る。「私たちもどこかで繋がっているかもしれんな」
「は、はい」命はなんとなく恥ずかしくなってぎこちない返事をした。
家系図作りの見学を終えた翌日、メディウへ戻る日が来た。
「もっと泊っていけばいいのに」城の門まで見送りに来た暈陰雲が悲しそうに言った。
「私もそうしたいのですが、」照は耳を下げた。「留守番を頼んでいる者がいますし、母さんのことも気になります。それにこれ以上事務所を閉めておくわけにはいきませんから」
「そうよね…。このおチビさんとまたしばらく会えなくなっちゃうのね…。寂しくなるわ」暈陰雲は火が揺蕩っているような耳と黒い尾を下げた。
「ういさま」小さな黒猫は大叔母を抱きしめる。「大好きです。次はういさまが事務所に来てください」
「えぇ。必ず行くわ」暈陰雲も抱きしめ返す。「大好きよ照。あなたがうちの子だったらよかったのに」と愛情を込めて言った。
照の青い目は涙で潤んだ。「うぅ…。私もういさまの子になりたいです。でも私には母さんが。母さんのことも大好きなのです」
「それはそうに決まってるわ」暈陰雲は微笑む。「こんなに可愛い娘ですもの。ひなたさんに怒られちゃうわね。困らせてごめんなさい」
「いいえ」照の目から大粒の雫がひとつ落ちた。「どうかお元気で」
「照もね。命もよ」
「はい」命は頷いた。「お世話になりました」
「えぇ。暮夜に伝えて。私も樋成さんも元気にやってるから、何も心配はいらないって」
「分かりました」
「照。向こうに着いたら手紙を書いてね。あなたが無事に着いたか知りたいの」
「はい。必ず。ういさま、お世話になりました」照は涙を拭いながら、命と共に猫の国をあとにした。




