五月 その四
-前回-
萌零陽の兄、茂闇に会いに行った照と命。茂闇は飲み屋で酔い潰れていた。照は彼から話を聞くため、賭け事を仕掛けたのだった。
「離せよ!」店の外では茂闇がまだ騒いでいた。
「質問に答える気になりましたか?」照は穏やかに尋ねる。
「嫌だね!」
命は茂闇の首を掴んでいる手に力を入れた。
「痛い痛い!」高い声をあげる。「分かった!分かったから放せよ!」
「離して」照は助手に指示する。
助手は茂闇を投げるようにして手を離した。
茂闇は道に転がる。「いてぇ!なにすんだよ!!」
「離しただけです」三毛猫は悪気無く言う。
「約束通り、質問に答えてもらいますよ。茂闇さん」照は転がっている猫を見降ろした。
「なぜそばえさんとの婚約を破談にしたのですか?」
「けっ!」茂闇は座った。「そんなの聞くまでもねぇよ。あいつのことが嫌いになったからに決まってぇんだろ」
「仲が良かったんでしょ?」
「初めはなぁ!」照を睨む。「気立てが良くて愛嬌のある奴だったのによぉ。おいらが草物屋を辞めたあたりから口うるさくなっちまったんだ」
「そばえさんが?」照は意外だと驚いた。
「あぁ。おいらを虚仮にするようなこと言ったんだ!『どうして草物屋を辞めたの?』とか『結婚するならあそこで働いているべきでしょ』とか。おいらを見縊りやがって」
「どうして草物屋を辞めたのです?」
「役者の仕事が増えてきたから辞めたんだ!」茂闇は吠えた。
「おいらは役者をやって生きていきたかったんだ!真剣だった!本気で、役者一本で頑張っていこうと思ってたさ!草物屋の店主は応援してくれたってのによぉ!そばえもおいらの親も反対しやがった!唐変木どもめ!」
「ふむ…」照は腕を組んだ。
「せっかく仕事が増えてきて、おいらのことを気に入ってくれる客も増えてきたところだったのに!」茂闇は頭を掻きむしった。
「評判が良くなってきたから他のメスを誑かし始めたんですか?」白けた目を茂闇に向ける。
「仕方ねえだろ!愛想を振りまいておかねぇと舞台を観に来てくれねえんだからよ!役者は客が付いてなんぼの仕事だ」
茂闇は噛みつくように話を続けた。
「そばえのやつ、『他のメスに声をかけないでぇ』とか『もう役者なんか辞めてぇ』とか抜かして。めそめそ泣きやがるんだ。鬱陶しいったらありゃしない」
「なるほど。それで彼女に舞台を観に来るなと言ったんですね?」
「あぁ。でもあいつは懲りずに毎回来やがった。その度に小言を言われて、ピーピー泣かれてうんざりだったんだよ!」
照は困ったようにヒゲ袋を真ん中に寄せた。「役者を辞めたのはなぜ?」
「辞めさせられたんだよ!」茂闇は悔しそうな表情で立ち上がる。
「そばえが座長に告げ口しやがったんだ!『茂闇くんはメス遊びが激しいからどうにかしてください』ってな!みみっちいことしやがって!
おかげでおいらは主役が決まってたのに降ろされたんだ!悪い評判が立つと困るからってな!これで不満を言うなって?無理に決まってぇんだろ!あぁ、胸糞が悪い。あの愚図!へなちょこ!弱虫!鈍らの碌でなしめ!反吐が出る!」
「そんな襤褸糞に言わなくてもいいでしょう」黒猫は耳を後ろへ倒した。「婚約者の心配をするのは当たり前では?」
「そばえが小言を言わずに応援してくれてたらおいらだって結婚してたさ!でもあいつのせいでおいらは仕事を失くしたんだぞ!上手くいってたのに!
仕事がなきゃ文もねぇし結婚もできねえだろ!破談にして当然だ!情けなくて草物屋にも戻れねえ!」茂闇は攻撃的に照に詰め寄った。
照は身軽に後ろへ下がり、命が間に入って茂闇の胸をドンと突いた。
茂闇は尻餅をつく。「いてぇ!」
「失礼」助手は言った。「姐さんに手を出すなら容赦はしません」爪を剥き出す。
「やめろ命」探偵が止めた。「私は何もされていない」
「もうおいらのことなんて放っておいてくれ!」茂闇は泣きそうに叫んだ。「どうせ…。どうせおいらなんて!なにをやっても上手くいかないんだ!」
茂闇は淡い緑の目に涙を溜めながら立ちあがると、どこかへ走り去って行ってしまった。
「あ」照は追いかけるか迷った。「……いや、そっとしておこう」と留まる。
「姐さん。大丈夫ですか?」命が聞いた。
「あぁ」探偵は茂闇が去って行ったほうを見る。
「口汚い方でしたね」命も見た。
「元は違ったのだろう」小さくため息。「彼の気持ちも分からんではない。茂闇さんは夢を追いかけようと頑張っていて、そばえさんは安定した静かな生活を望んでいた。結局、私はあの二匹が合わなかったのだと思う」
「そうですね」探偵を見る。「どうなさいますか?」
「ひとまずういさまのところへ帰ろう」
「はい」
二匹は城へ向かって歩き出した。
「あの、姐さん」
「なんだ?」
「どうやって文の表裏を当てたのですか?」命はずっと気になっていたことを尋ねた。
「簡単だよ」照は指で片耳をピンと弾いた。
「音で分かったのですか!?」助手は魂消た。
「あぁ」照はしたり顔で笑う。
「文は表と裏で模様が違うから、卓に当たる音も少し違うんだよ。何も細工はしていないと相手に文を見せるとき、卓に当てて音を確認したんだ。
さすがに三枚になったときは文同士が重なる可能性もあったからちょっとヒヤヒヤしたけど」
「はぁ…」命は感嘆した。相棒の耳の良さは十分に知っていたのだが、ここまで精度が高いところを見せられると改めて驚く。
「二匹とも大丈夫だった?怪我はない?どうなったの?」家に帰ると暈陰雲がすっ飛んできて話してくれとせがんだ。
照は飲み屋での出来事を隅から隅まで話す。
「重ね重ねあたいの兄さんがすみません」側に来ていた萌零陽が言った。「やっぱり復縁は難しいですよね…」
「そうなりますかね…。何も解決できずこちらこそ申し訳ないです」照はかさぶたになっている頬を掻いた。
「そんなことありません。お話を聞いていただけただけでも有難いです」萌零陽はペコペコと頭を下げたあと大きなため息をついた。「兄さん、どうしてこんなことになっちゃったかな…」と呟く。
「…ねぇ、照」萌零陽の様子を見た暈陰雲が言った。
「なんでしょう?」
「明日、そばえちゃんに会いに行きたいの。もう一度だけ話がしたいわ。構わない?」
「えぇ。いいですけど…」照は少し耳を下げた。「今夜の茂闇さんの言葉をそばえさんに伝えるのはちょっと…」と腰が引けた。きっとまたそばえが大泣きして落ち込むだけだと分かっていたからだ。
「大丈夫よ。私に任せて。あなたは何も言わなくていいわ」暈陰雲は頼もしく拳を握った。
「え?いいのですか?」耳を上げる。「ではお供します」
「ありがとう」大叔母はホッとした。
「命は留守番な」と照。
「え?またですか?」助手は不満気に小さな黒猫を見る。
「すぐに帰ってくる。それに、」命を見上げる。「そのあと二匹で散歩にでも行こう」
「散歩?…わかりました」
翌日、照と暈陰雲、使い猫の萌零陽のメス三匹は城を出てそばえ姉妹がやっている店へ行った。
「おはようございます」暈陰雲は勘定場で仕事をしていたそばえに声をかけた。
「あ、昨日の…」そばえは表情暗く顔を上げる。
「お話いいかしら?」
「えぇ…。なんでしょうか?」
「実はね。昨日の夜、この照が、」暈陰雲は又姪を指す。「茂闇くんと会って話してくれたの」
「え?!本当ですか!」そばえの目に輝きが戻った。「茂闇くんはなんて!?」
「それがね」暈陰雲はそれを見て少し悲しくなった。「彼は役者を続けたかったようなの。それで、あなたの助言や要求が好ましくなかったみたいで、怒っていたわ」
「そんな…」そばえは衝撃を受けた。「私は…。私は、茂闇くんが結婚してくれるって言うから、だからちゃんと草物屋で働いてくれたほうが安心できるって言っただけなのに…」
「そうね。結婚するとなったらそっちのほうが良いわよね」暈陰雲は同情した。「でも彼にはやりたいことがあったのよ」
「メス遊びすることがやりたいことだったんですか!?」そばえは急に叫んだ。
「彼はいろんなメスに声をかけていたんですよ!?役者がやりたいって言って、本当は浮気がしたいだけじゃない!それでも私が悪いって言うんですか?我慢しろって?」
「確かに婚約者がいるのにつまみ食いするのはよくないわ。それは茂闇くんの落ち度よ」
「結局どっちが悪いんですか!?」そばえは苛立った。
「どちらが悪いという話ではないわ。ただあなたと茂闇くんは合わなかったというだけよ」暈陰雲は毅然とした態度を取った。
「でも…」そばえは泣きそうになる。「婚約までしたのに…。私には茂闇くんしかいないのに…」
「思い込んじゃ駄目よ。そばえちゃん」優しい声で諭す。
「割れ鍋に綴じ蓋という言葉があるように、どんな方にも合う方がいるのよ。あなたの場合、それは茂闇くんじゃなかった」
「そんな…」そばえは小さく震え始めた。
「私はね、お互いに協力して助け合える関係が結婚には向いていると思うの。安心できて、自分らしくいられて、自分を強くさせてくれる相手が」番のいる暈陰雲だからこそ言えた言葉だった。
「お互いを貶し合って、足を引っ張るようなことをするのは間違っているわ。それは相性が悪いってことよ。
それに泣かされてばかりの相手なんて、いつまで経っても幸せになんかなれないわ。結婚生活だって上手くいかない。そうやって依存するのはあなたが辛くなるだけよ」
そばえは何も言わずハラハラと落涙する。
「大丈夫。あなたは素敵な才能を持っているし、思いやりのある方だわ。あなたがあなたらしくいればきっとまた良い方と出会う機会がある」そばえの肩に触れる。「諦めは心の養生よ。自分を大切にして、自信を持って」
「……はい」そばえは小さく頷いた。
「本当にご迷惑をおかけしました」帰り道、使い猫の萌零陽が言った。「つぎ兄さんに会ったらあたいからちゃんと言っておきます」
「まぁ、こういうのも経験よね」暈陰雲は仕方ないと首を振った。「私たちで役に立てたかしら?」
「えぇ。もちろん!」萌零陽は尾を伸ばす。「ありがとうございました!照さまも!」
「いいえ。今回はういさまが解決したようなものです。私ではそばえさんにあそこまで言えませんから」照は大叔母を褒めた。
「そんなことないわよ」暈陰雲は遠慮がちに微笑む。
「あたい、暈陰雲さまと樋成さまの使い猫として働けて本当に幸せです。こんなあたいの悩みまで聞いてくださって、いつも良くしてくださって…。こんな幸運ありません!他の使い猫仲間からも羨ましがられてるんですよ」
「何も特別なことはしてないわ。私も樋成さんもただ普通にあなたと接しているだけ」主は否定した。
「それができない方が多いのですよ!」使い猫はとんでもないという顔をした。
「あたいの友達は我美さまの使い猫をしているのですが、それはそれはもう酷く…。あ、ごめんなさい。こんなこと言っちゃいけませんよね」と口に手を当てる。
「なんとなく想像はできますね」照はうんうんと頷く。
暈陰雲は困ったように微笑んだ。「さぁ。帰って命にも話しましょう。きっと彼ソワソワしているだろうから」
「そうですね」照は長い尾を揺らした。
その日の晩、照と命は長い散歩を終え、高目通りの飲み屋を訪れていた。
「もし」照は飲んだくれているオス猫に話しかける。
「んあ?……あっ!お前!昨日の!」オス猫は驚いて椅子から落ちそうになった。
「こんばんは。茂闇さん」照は挨拶した。
「なんだよ!なんかまだ用があんのか!」萌零陽の兄、茂闇は吠えた。「またイカサマしようってか!?」また掴まれるのではと命をチラチラ見る。
「いいえ。ただ少し聞いて欲しいことがあって」照は優しく言った。
「…なんだよ」探偵の様子に茂闇は戸惑った。
「実は今日のお昼、ある方とお話をしてきました」照は長いヒゲを撫でた。「あなたが働いていた草物屋の店主です」
「え?」思わぬ言葉に茂闇はポカンと口を開けた。
「草物屋の店主はあなたのことを褒めていましたよ。夢を追いかける清々しい若者だったと。草物屋での仕事は真面目でキッチリやっていたから本当に助かった。役者の仕事も是非に頑張って欲しいと言っていました」
茂闇はフイとどこかを向いた。「だ、だからなんだってんだ」声が少し震える。
「なんでも草物屋の店主、あなたの舞台を観に行ったことがあるそうじゃないですか」
「…あぁ。そうだったな」
「座長もそのことを覚えていましたよ」
「……え?」茂闇は驚いて照を見た。「座長?」
「えぇ。草物屋の店主と一緒に、あなたが属していた劇団の座長に会いに行ったんです。店主はとても親切な方で、あなたがどれほど働き者なのか座長に力説してくれました。失礼ながら私も、今のあなたの状況を座長にお話ししました」
茂闇は言葉が出ずに立ち上がった。
「座長からの言付けを預かっています。『お前さんにまだやる気があって、メス遊びじゃなく実力で客を付ける気があるなら、端役から使ってやる』と」
「そ、そんなこと…」予想外の展開に茂闇は戸惑いながらうつむいた。「今さら言われても…」
「あなた次第です」照は静かに告げた。「あなたの夢が叶うことを願っています。では、私たちはこれで」
探偵と助手は飲み屋をあとにした。飲み屋の喧騒の中、探偵の耳に雫が一滴ポトリと床に落ちる音が届いた。




