五月 その一
家系図事件の翌朝、暈陰雲の家にいた照に新たな事件が舞い込んできた。
「はぁ」大きなため息が照の耳に届く。
「あの、ういさま?」黒猫は大叔母に言った。
「なあに?」暈陰雲は又姪を見る。
「何度も聞こえるのです」耳をピクリとさせる。「とても深いため息が」
「ため息?誰のものかしら?」暈陰雲は部屋の中を見回す。
「樋成さんと命は朝練に行っていていないはずだけど」
「いえ、萌零陽さんのです。実は昨日の夜から聞こえていました」
萌零陽とはこの家の使い猫だ。
使い猫は主の世話や用事をする仕事で、大きな家屋なら使い猫用の部屋が家の中にある。暈陰雲家では家のすぐ隣に小さな使い猫用の建物があった。
「萌零陽ちゃんの?どうしたのかしら。聞いてみましょうか」
「はい」
二匹はため息の元へ向かった。萌零陽は家の庭で洗濯物を干していた。
「ねぇ、萌零陽ちゃん」暈陰雲が話しかける。
「なんでしょうか?」萌零陽は手を止めて主を見た。
彼女は濃い茶色の毛に黒の縞模様が入った柄をしており、照と同じくらいの齢の猫だった。新芽のような緑の目。無機質でボーっとしたような表情をしている。
「昨日の夜からずっとため息をついているって照が教えてくれたんだけど、何かあったの?」使い猫の主が聞く。
「いえ。そんなことは」萌零陽は遠慮して縮こまった。
「お困りなんでしょう?深い悲しみがため息に含まれていますから」探偵は寄り添うように言った。
「暈陰雲さま…。照さま…」使い猫は他二匹を交互に見る。
「話してみて。助けられるかもしれないわ」暈陰雲が最後のひと押し。
「はい…。あの、実は…」萌零陽は洗濯物を弄り回しながらため息をついた。
「あたいの兄さんのことなんです」
「お兄さん?」
萌零陽は頷く。「茂闇という名前で、近々結婚する予定だったんです」
「おめでたいことじゃない?」暈陰雲が言う。「でも’だった‘ってことは…?」
「はい…。破談になってしまって」萌零陽はだらりとその身が溶けて行きそうなほどの深いため息をついた。
「どうして?」
「兄さんは…。お恥ずかしいことに、そばえさんというとても綺麗で素敵な婚約者がいるにも関わらず浮気者なんです…」
「あらまぁ…」照と暈陰雲は目を合わせた。
「あたいはそのそばえさんが大好きなんです。本当にお優しい方で、あんな猫があたいの義姉さんになってくれるなんて夢のようだと思ってたんです。でも昨日、兄さんが突然そばえさんとの結婚はなしにするって言い出して…」
「ん?お兄さんのほうから言い出したのかい?」照は聞いた。
「はい。そばえさんは嫌がっていたのですが、兄さんが一方的に破談に」萌零陽は再び大きなため息をついた。
「どうしたらいいのでしょうか?親同士もすごく怒っていて…」
「ふーむ」照は腕を組む。「浮気されたそばえさんのほうが別れたくないと言っているんだよね?ちょっと不思議ではありませんか?」
「そうねぇ」暈陰雲は首を傾げる。
「こうした色恋事は複雑だから何とも言えないけど…。きっとそばえちゃんは茂闇くんのことをとても好いているじゃないかしら?」
「そうなんです」使い猫は言った。「そばえさんは兄さんのことが大好きで、いわゆる首ったけってやつです。あたいのことも可愛がってくれるんですよ」
「なるほど」探偵は肉球をペロッと舐めた。「お兄さんのこともっと詳しく教えてくれる?」
「はい」萌零陽は背を正した。
「兄さんは…。昔はとても優しい猫だったんです。家族思いであたいの面倒もよく見てくれて。
でも成猫になってからは変わりました。もともと思いやりのある性格で優面なのもあって、なんというか…。メス殺しというか、猫たらしというか…。
そういう部分があって、兄さんはそれを鼻にかけるようになってしまったんです。
段々と火遊びが増えて、お仕事も辞めちゃって。文もないのに賭け事をやったり…。口調もどんどん悪くなって、昔とは全く別猫になってしまいました」
「ほう…。そうなってしまった原因は分かる?」照は尋ねた。
「う~ん」萌零陽は悩んだ。「ハッキリとは分かりませんが、そばえさんと出会ってからでしょうか?彼女に原因があるとは思えないのですが…」
「そばえさんというのはどんな方なの?」小さな黒猫は質問を続ける。
「メスならみんな憧れるような美猫です。器用で繊細で、些細な事にもすぐに気が付いて助けてくれて。誰にでも平等で…。仕事にも熱心な方なんですよ。
そばえさんは三姉妹なのですが、二匹のお姉さんと一緒にお店をやっています。匂い袋や装飾品などを作って売っているんです」
「そうですか」照は低い声で唸った。
「正直に申し上げると私たちにはどうしようもないかと…。当事者同士の気持ちの問題といいますか…」とためらいがちに言う。
「確かにそうね」暈陰雲も同意した。「嫌がっているのに無理やり結婚させるのも違うと思うわ」
「やっぱりそうですよね」萌零陽は特大のため息をついた。
「分かってるんです。こうなってしまったらあたいも結婚しろとは言いません。でもどうして兄さんはそばえさんを嫌うのでしょうか?あの二匹、最初は仲が良かったのに…」
「秋風が吹いたのでしょう」照はしみじみ言った。
「色がさめてしまったのね」暈陰雲も言う。
「はぁ…。あたいはどうしたら…。いえ、どうしようもできないんですけど…。おっとうはカンカンに怒ってるし、おっかあも元気がないし…」萌零陽は嘆いた。
「薫さんと木子さんね。ご両親からしてみればそれは心配よね」暈陰雲は自分のことのように落ち込んだ。
「ねぇ、照?」と黒猫を見る。
「はい?」
「せめてそばえちゃんと茂闇くんから話を聞いてみない?なにか食い違いがあるかもしれないわ。少しでも助けてあげたいの」暈陰雲は頼んだ。
「う~む…」照は悩んだが他の二匹の表情を見て頷いた。
「分かりました。できるところまでやってみましょう」
「いいのですか!?」萌零陽は驚く。
「ありがとうございます!暈陰雲さま!照さま!」落ち込んでいた顔がパッと明るくなる。
「ありがとう照。さっそく二匹の話を聞きに行きましょうか。萌零陽ちゃん、案内してくれる?」と暈陰雲。
「はい!お願いします!」萌零陽は持っていた洗濯物を物干し竿にかけた。
「あ、でも兄さんはこの時間どこにいるか分からないんです。夜は飲み屋にいると思うんですけど…。そばえさんならお店にいるはずです」
「ならそばえさんの店から行きましょうか」照が言った。
「はい!」
そのときちょうど命が朝練から帰ってきた。
「ということで、私たちは今からそばえさんに会ってくるよ」照は相方に説明する。
「分かりました。では俺も一緒に、」
「あ、待って命」暈陰雲が止める。
「そばえちゃんは繊細な方だというし、こうした色恋話も繊細になると思うの。なるべく少ない匹数で行ったほうがいいと思うわ。それにメス同士のほうが話しやすいだろうし、今回は遠慮してくれる?」
「えっ。しかし…」命は小さな黒猫を見降ろす。その頬には薄くなった傷跡があった。
「大丈夫よ。話を聞いてくるだけ。こっちは三匹」暈陰雲は命の心配を汲み取り、他のメス二匹の肩に触れた。
「それにどうせ護衛と影猫が付いてくるわ」
可惜夜一族の者は城の外に出る際、必ず護衛である短刀隊の隊長に報告する決まりがあった。暈陰雲も例外ではない。
今回のお出かけは照もいるので、姿は見えなくとも数匹の影猫が付いてくるだろう。
「すぐ戻ってくる」照は助手に頷きかけた。「お兄さんの茂闇さんに会いに行くときは同行してくれ」
「……わかりました。お戻りお待ちしています」不平不満を滲ませた顔で三毛猫は了承した。




