トートゥス・ムンドゥス・アギト・ヒストリオーネム
林「間違えてません!癒しの、救いの女神と思うばかりです。あるいはこうも云わせてください。‘ああ、不思議なこと!ここにはなんて素敵な人がいるんでしょう。人間はなんて美しいんでしょう。素晴らしい新世界。こんな人が住んでいるなんて!’と」
荒木田「シェークスピアの劇‘あらし’の中のミランダのセリフですね。教養がおありなのね」
林「いや、ありません。しかし今のセリフは私に於いては次のセリフの後に出たものなのです。‘人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな’の後に。あなたこそは愚昧な世の光です!邂逅した新生のしるしで…」
診察室のドアの開く音。錐最戸医師(Drスイサイド)が現れる。
錐最戸「ウオッホン(空咳)……」
荒木田「あら、先生……」
錐最戸「今のはリア王のセリフかね、林さん。大熱演中に失礼だが」
荒木田「すみません、先生。いま問診表をお渡ししようと……これです」
錐最戸「いや、いい。必要ない。この男の症状はよおくわかっている。名前は林満、年令は厄年の44、住まいは車の中……車上生活の方、でしたな?私が直接お呼びしたクランケだ」
林「お、お呼びしたって……車上生活って……な、なんでそんなことを……」
錐最戸「まあまあまあまあ、そんなことはどうでも。それより林さん、‘トートゥス・ムンドゥス・アギト・ヒストリオーネム、世界は、つまり全人類は、これすべて役者として生きている’というリア王のセリフを、あんたはどう思うのかね?シェークスピア文学に詳しいようじゃから聞いたのだが……」
林「役者として生きている?……その言葉は知ってましたが、しかし、我が身に当てはめたことはなかった。俺は……い、いや、私は、その……世界に、つまり世間に、虐げられるばかりで……身の廻りこれすべてがシビアで、強迫そのものなんです、私にとっては。とても演じるなどとは……」