何も始まらない物語 ver.2
タイトル通り。
何も始まらない物語。
導入部のみの習作その2。
九月某日ハレの日。俺は今日古くからのしきたりに従い生まれてから十八年余の年月を過ごしてきたこの島を離れる。恐らくはもう二度と戻ることはないだろう。
「達者でな」
親父がそう言ってゴツい手で俺の肩を叩く。
親父はたしか今年で五十になるんだったか……。漁師仕事で鍛えられた赤銅色の肉体にはこれでもかと力が漲っており凡そ年齢などというものを感じさせない。もしも今ガチンコで殴り合ったとしても伸されるのは間違いなく俺だ。
「親父もな」
暫し互いに視線を交わす。親父とこんな風に真っ直ぐ視線を合わせたのはいつぶりだろう。少しむず痒いがこれで最後かと思うと照れよりも感傷が勝る。
「長生きしろよ」
「はっはっはっ、俺はまだそんな年じゃねえよ」
「ってぇ!?」
柄にもないことを言ったら肩の辺りを結構な力で殴られた。まったく、漁師をやるような連中は手が早くて困る。でもまあ、たぶん親父なりの照れ隠しってヤツなんだろう。湿っぽくなるよりかはずっと良い。
「……ライカ」
「お袋……」
親父が脇に避けると次はお袋の番だった。
親父曰く「若い頃は島一番の美人だった」というお袋は、息子の俺が言うのもなんだが今でも十分若々しく美しい。知らない者になら俺の姉だといっても通じるかもしれない。
「向こうでもしっかりやるのよ」
お袋は俺の右手を両手で優しく包み込み、憂いを帯びた表情でじっとこちらを見つめてくる。俺の方が頭一つ分は背が高いので自然お袋が見上げる形になる。俺は別にマザコンではないがこういうのはなんだか落ち着かない。
「おう」
ぶっきらぼうに答え、やんわりと手をほどく。この場には家族以外にも大勢の見送りが居る。さすがにちょっとな……いや、これ以上は無理だって。あーもー、そんな捨てられた子犬みたいな顔はやめてくれ。
どうしたものかともて余しているうちに、
「ライカ───。いつでも帰って来て良いんだからね」
「ちょ!?」
俺は再びにじり寄ってきたお袋に抱きしめられてしまった。……ナンダコレ。
お袋からはやたらと懐かしい匂いがする。こんなことはガキの頃以来だ。そういえば昔は事あるごとにこんな風に抱きしめられていたっけ。まあ、あの頃は文字通り「抱きしめられて」いたんだが……今のこれはどちらかというと「抱きつかれている」とか「しがみつかれている」といった方が正しい。何せ今や俺の身長は頭一つ分以上お袋より高いのだ。
「…………」
「…………」
! ……いやいや待て待て待て何を感慨に浸ってるんだ。どんな羞恥プレイだ。うちの島は挨拶でハグをするとかそういう文化圏じゃねーから。普通に恥ずかしいわ。恥ずか死ねるわ。
正直、振りほどこうと思えば簡単だ。しかし、こういうこともこれが最後だと思えば忍びない。結局、湧き上がる羞恥心からは無理矢理目をそらして、お袋の気が済むまで好きなようにさせることにした。
いい年した息子にしがみつく、いい年した母親、そんなものは存在しない……しないったらしないのだ。俺は心に棚を作り、そのままの状態で他の連中と言葉を交わしていく。
「元気でな」
「ああ、兄貴も」
兄貴のタケルとは八つ年が離れている。兄弟仲はまずまず良好といって良いだろう。うちは田舎には珍しく兄弟二人きりだし年もこれだけ離れていると端から喧嘩にもならない。他所では年子の五人兄弟なんてのもざらなので幼馴染みの連中からは大層羨ましがられた。
「……なんだよ。ふん詰まりみたいな顔して」
俺と兄貴が話すのを物言いたげな顔でじっと見ている奴が居たのでこちらから話を振ってやることにした。
「! ……っ、~~~っ」
が、そいつは何かを言いかけて口をパクパクと動かしたっきり、結局は何も言わずに黙り込んで俯いてしまった。
こいつ──ウルハは程よく日に焼けた、見る者に活発な印象を与える少女だ。……実際、印象通り活発というか寧ろかなりのお転婆である。あと、ちょっとアホだ。
彼女は一つ年下の幼馴染みで、俺にとっては…………妹のような存在だ。昔からウルハはカルガモの雛のように何かと俺の後をついてきた。
初めは「変なヤツ」だと思っていたが、それもほんの最初だけ……本当にガキの頃だけの話だ。ウルハが俺に対して某か特別な感情を抱いていることには早々に気がついていたし、思春期に差し掛かる頃にはその「特別な感情」というものがどういったものであるかも大凡そ理解していた。……一応断って置くが、これは俺がそういった方面に特別敏いという自画自賛をしているのではなく、単にこいつが……ウルハが色々と分かりやすい性格をしているだけである。
これで万一勘違いだったりしたら俺はかなり痛いヤツだが……それはたぶんないだろう。何せ「蛇の道は蛇」ともいう。
贔屓目もあるがウルハの容姿は可愛らしいし性格もひねてない。何より俺にとっては母親を除けば最も身近な異性であり、年も近い。「異性の」「可愛い」「幼馴染み」とこれだけの要素が揃えば、ある意味当然の帰結と言うべきかいつしか俺の方も彼女に対してそういう「特別な感情」を抱くようになっていた。こいつはアホの子だから気づいていたかは知らないが、ぶっちゃけ俺の初恋はウルハだ。……だけどそれは許されない恋だった。俺達は決してそういう関係にはなれない。
──俺達の間には見えなくとも絶対に越えられない壁が存在する。
ウルハはアホの子だがちゃんとその辺りの分別はあるようで、普段の態度がどれだけあからさまでも、これまで一度として最後の一線を越えてくるようなことはなかった。だから今だってこうして何も言えないでいるんだろう。
田舎のしきたりってヤツは外から見れば実に下らなかったり馬鹿馬鹿しかったりするものが多いが、そこに暮らす者達にとっては存外に重い。
俺はウルハに対しどう言葉を掛けるべきか思案する。こういった場合、たぶん沈黙こそが金なのかも知れないが……まあ、そういうわけにもいかないだろう。
「あー、その、ウルハ……」
「……」
返事の代わりにウルハはこちらへと視線を向けた。そのまま「何?」と目で続きを促してくる。彼女から発せられるあからさまな秋波をひしひしと感じつつも、俺は自分でも「割と最低だな」と思う一言を選んだ。
「……あれだ、うん、幸せんなれよな」
……俺以外の誰かとな。
「ッ……」
この時見たウルハの表情を、俺は生涯忘れはしないだろう。
彼女は俺を強く睨みつけると、踵を返し猛然と走り去った。
──最悪の気分だ。
仕方がないとはいえ結構キツい。……いや、仕方がないは言い訳か。
場が居たたまれない空気に包まれ、周囲の視線が俺に注がれる。なんだよ。そんな風に見るなよ。……一体、他にどうしろってんだ。
「ライカ……」
お袋が痛ましげに眉を顰め俺を見上げる。……そういや抱きつかれたままだったっけ。なんつーか……酷く締まらねー絵面だな。
「兄貴……」
「うん、大丈夫だ」
「……すまん、任せた」
兄貴は皆まで言わずとも後の事を請け負ってくれた。
本人は隠しているつもりかも知れないが、兄貴がウルハに気を持っているのは明白だ。これまではウルハとの年の差や俺という存在に対して遠慮している節があったが、ウルハも来年には成人するし俺は今日で居なくなる。弟から見てもかなり奥手な兄貴だが、きっと今後は幾分か積極的に動くだろう。…………動くよな?
少し後ろめたいが後のことは兄貴に任せてしまうのが良い。俺はもうウルハに何かをしてやれる立場ではないのだから。
「んじゃ、そろそろ行くわ」
いつまでも俺にしがみついているお袋の両肩を掴み、そっと引き剥がす。親父にお袋、兄貴。それから見送りに来てくれた全員と一人一人視線を合わせる。
「十八年間────お世話になりました!」
大声でそう言って、俺は深々と頭を下げた。お袋が嗚咽を漏らす。釣られて込み上げてくる諸々を飲み下し俺は船へと乗り込んだ。
「もう良いのか?」
先に船で待っていたキヤンの伯父貴(俺は昔から伯父貴と呼んでいるが実際には親父の従兄らしい。親父に負けず劣らず立派な海の男だ)が片眉を上げて訊いてくる。俺はこれから彼の船で送ってもらい本島へと渡る。
「ええ、頼んます」
心残りはなくもないが、これ以上ジメジメしても仕方ない。出来るなら今日の天気のように、別れはカラリと済ませたい。
「おうよ」
キヤンの伯父貴は男臭く笑うとこなれた動きで船を出した。
動力のない伯父貴の船はあまり船足が出ない。帆掛け船はゆっくりと港を離れて行く。見送りの連中とは見えなくなるまで手を振りあった。
やがて船が港のある小さな入江の出口に差し掛かった時、俺は入江を形成する岬の先端に見覚えのある小さな人影を見つけた。
「ウルハ……か?」
「うん?」
俺が溢した呟きに釣られキヤンの伯父貴も岬の方を見る。
「はーん、ありゃたしかにウルハだな」
何が可笑しいのかキヤンの伯父はくつくつと笑う。
「ラ イ カ ー ー ー ッ !」
ウルハが大声で俺を呼ぶ。途端にざわつく己の心を無理繰り押さえつけ、俺は努めて普通に手を振って応えた。「おーい」ってな具合だ。
ウルハの様子はといえば、悔しげに両手を握り締め今にも地団駄でも踏みそな雰囲気だ。……何となく泣いている気がする。
「どうするよ? もしお前が拐ってくってんなら、船を寄せるが」
キヤンの伯父貴がニヤリと笑いながらそんなことを言う。ずいぶんと魅力的な提案だ。伯父貴なら俺が「うん」と言えば実際にそうしてくれるだろう。でもそれは駄目だ。別に法というわけではないし罰則だってありはしないが「しきたり」とは守るためにある。それを今感情的に破ってしまえば当然キヤンの伯父貴に迷惑が掛かるし、何よりうちの両親にもウルハの両親にも申し訳が立たない。……兄貴にも悪いしな。
「…………いや、そういうわけにはいかんでしょう」
俺が憮然として答えると、キヤンの伯父貴も「そうだな」とだけ言ってあっさり引き下がった。単に冗談のつもりで言っただけだったのかもしれない。
「バ ァ ー ー ー ッ カ ! ラ イ カ の ぶ ぁ ー ー ー っ か !!」
ウルハの幼稚な罵倒が岬に木霊する。……微妙に鼻声だ。やっぱり泣いているのか。しっかし何だよそれ……ひでー語彙だな。お前の方が余程馬鹿っぼいじゃねーか。相変わらずアホだなあ。
「何か言ってやらなくて良いのか」
船は間もなく入江を出て外海へと差し掛かる。キヤンの伯父貴は言外に「これが最後だぞ」と言っている。……たしかにそうだな。
俺は船尾に立ち、声を張り上げた。
「お ぉ ー ー ー い !」
「!!」
表情までは判らない。けど、何となく目が合ったような気がした。少なくとも声は届いている。俺はもう一度声を張り上げた。
「ウ ル ハ ー ー ー ッ !!」
「ラ イ カ ー ー ー ッ ! ラ イ カ ー ー ー ッ !!」
ウルハの名前を呼ぶと、彼女も小柄な体を目一杯に使って俺の名前を叫び返してくる。
「じ ゃ あ な あ あ あ っ ! 元 気 で な あ あ あ っ !!」
惜別を込め、俺は大きく手を振った。
「──── ざ っ け ん な あ あ あ っ !! バ ァ ー ー ー カ ! バ ァ ー ー ー ッ カ !! ぶ ぁ ー ー ー っ か !! 嫌 い よ っ ! あ ん た な ん か ぁ 、 大 っ 嫌 い ッ !!」
ウルハからは再び罵倒が返ってきた。ヒドイ……が、まあ仕方ない。非は概ね俺にある。けれど───彼女の言葉にはまだ続きがあった。
「────── や っ ぱ ウ ソ ………… っ 、 ほ ん と は ね ぇ っ 、 好 き な の ぉ っ ! や っ ぱ り ぃ 、 大 好 き な の ぉ お お お っ !! わ た し ね ぇ っ 、 待 っ て る ぅ っ ! 待 っ て る か ら あ あ あ っ !!」
………………おいこら、ばかやろう。
「お前…………それはナシだろうが」
「ー ー ー ッ ! ー ー ー ッ ! ───────」
船はとっくに入江を出た。ウルハは今も何かを叫び続けているようだが最早その内容までは判らない。分かりたくないもない。あれは……俺にだけ効く猛毒だ。
言いたいこと、伝えたいことは俺にもあった。けれども、俺はそれらを言葉にはせず……全てを胸の裡に仕舞い込んだ。伝えないことを選択した。だってのに……あのアホは……。
船縁に背中を凭れながらズルズルと踞るった。鼻の奥がツンと痛む。キヤンの伯父貴は何も言わない。……今はそれがありがたい。しょっぱいのはきっと潮風のせいだ。
◆
キヤンの伯父貴曰く「風は余り良くない」らしいが、それでも大過なく船は進み時刻は夕暮れ時を迎えていた。今夜は休まず船を走らせ翌朝には本島へと辿り着く見込みだ。俺には到底真似できないが、生粋の海人であるキヤンの伯父貴にとって一晩寝ずに航海を続けるくらい何てことはないらしい。一応、俺達の島と本島の間に船を停泊させるのに適した場所がないというやむを得ない事情もある。
「寝てても良いぞ」
キヤンの伯父貴はそう言ってくれるが、過去現在未来と色々なことがぐるぐると頭を巡り眠気はちっとも訪れない。
俺は船底に寝転がり、内心馬鹿馬鹿しいと思いつつも従わざるを得なかった島の“しきたり”に思いを馳せた。
話はそう複雑なことでもない。しきたりとは俺達の島が健全な血脈を継いで行くために設けられた“セーフティ”だ。
今から凡そ一万年前、地球人類は一度滅亡の危機に瀕した。その原因は地球温暖化や地殻変動による天変地異、某国の暴発によって訪れた核の冬など様々な推測が為されているが今のところ現代の衰退した科学の力では正確な答えは判らないらしい。
しかし事実として滅亡危機以前には六つ存在したという大陸は今は無く、今や四つの亜大陸と無数の島々が人類の生息圏だ。最盛期百億を超えていた世界人口は一時期十億を割り込んだという。しかし辛くも亜大陸や島々にて細々と命脈を継いだ人類はその後ある程度人口を持ち直すことに成功し、現在の世界人口は凡そ二十億~三十億と言われている。
情報がいまいち正確性を欠くのは、かつて当たり前に存在したという優れた通信技術や便利な移動手段などのインフラが一万年の間にほとんどロストテクノロジーと化してしまったからだ。今の人類にとって、地球という惑星は余りにも広い。
……思考が少々逸れた。
今はしきたりのことだ。しきたりとは身も蓋もない話をすればつまり近親交配を避ける為の措置である。著しく生存圏を減らした人類は血脈の収斂による遺伝子の劣化を忌避し、世界レベルで人流の活性化を推し進めた。要は「人々よ一処に留まるなかれ」「他民族とは積極的に交わるべし」ということである。これに当たって当時の国連は他国や他地域への渡航に関するルールを大幅に緩和する措置を行っている。
これがいわゆる『人類ドリフターズ宣言』だ。
結果としてそれは功を奏し、人類は国籍や肌の色をという壁を越えて混じり合い、世界は滅亡危機以前の合衆国のように人種のサラダボウルと化した。
俺達の島が所属する日系連邦リュウキュウ国を含む日系連邦はその名の通りかつて日本と呼ばれた単一民族国家が源流となっている。「日本人」は滅亡危機の際、人口比に於いて最も多くの生き残りを出した民族として知られているが、その血を継ぐ日系人ですら今や黒髪黒目の黄色人種がスタンダードとは言えなくなって久しい。
相も変わらず国家や宗教の柵による争いは絶えないし、差別にしたって完全になくすことなど不可能だ。それでも、かつてはそれらの最たる要因であった肌の色や人種といった括りがほとんど意味を為さなくなった今の時代は、滅亡危機以前の古代に比べればずいぶんと平和になったと言えるのではないだろうか。
……また思考が逸れたな。
うちの島のしきたりもつまりは『人類ドリフターズ宣言』にミクロな範囲で則ったものだ。
それは要約すれば至極簡単な決まりごとで、長男以外の男子は成人後に島を出る、女子は全員島に残る。基本となるのは以上の二点である。他にも姦通を厳に禁じていたりもするが、それはまあ当たり前といえば当たり前の話だし、みだりに近親者を増やさないための戒めでもある。
男は島を出て外に血を広げ、女は島に残り外から来る新しい血の受け皿になる。そうやって島民は連綿と血脈を繋いできた。
このようなしきたりやルールはうちのような離島ばかりではなく、これから行く本島は勿論、ほぼ世界中で似たようなものが採用されている。女は残り、男は旅をする。それが現代に於ける常識だ。因みに何処のコミュニティでも男ばかりが移動の対象なのは、インフラ技術が著しく衰退し、それに引き摺られるように文明や文化のレベルも後退してしまった現代では女が旅をするという行為が有り体に言ってハイリスクローリターンだからである。
当然ながら何事にも例外はあり、中には個人的な理由から望んでドリフターズ(かねての宣言がされて以降、生涯一処に留まらない人々は一般にドリフターズと呼ばれるようになった)になる物好きな女も居るし、島々では特に推奨される人流の活性化も亜大陸に存在する一部の国家に於いて現在ではそれほど重視されていなかったりもする。
他にもっと特殊な事例もあるが……それはまあ、いいか。
「……どうしたもんかね」
本島にはうちの島出身の者達が作ったコミュニティが存在し、住む場所も仕事も初めはそこで世話になることになっているがその先は特に決めていない。そのまま本島に生活の基盤を築くのが最も無難なのだろうが、正直、旅から旅へという如何にもドリフターズ的な生き様にも興味はある。
故郷に留まれるということが長男の持つ特権であるなら、好きなところで好きなように生きられるのは次男以下の特権である。言い換えれば長男は血によって土地に縛られ、次男以下には柵がないとも言える。
「まあ、うちの兄貴は長男じゃなくても旅って柄じゃねーな」
兄貴の朴訥な人柄が時に荒事にも個人で対応せざるを得ないドリフターズ暮らしに向くとは到底思えない。せいぜい、島を出たってリュウキュウ国の首都がある本島シュリまでだろう。
今朝別れたばかりの兄貴の顔を思い浮かべ口元を緩めていると、
「───ライカ」
キヤンの伯父貴が不意に俺を呼ぶ。伯父貴の声はどこか硬く、明らかにトラブルの予兆を孕んでいた。
「伯父貴……?」
言外に「どうした?」と尋ねつつ体を起こす。
「時化が来る」
言われて、俺も空を見上げてみるが、沈みかけの夕陽は水平線を鮮やかなグラデーションで彩り、濃紺の空には星が瞬き始めている。嵐の予兆など俺には微塵も感じ取れない。だが、だからといって俺にはキヤンの伯父貴の言葉を疑う理由などない。
キヤンの伯父貴はこの道三十年を数えるベテランの漁師、海人だ。そんな伯父貴を差し置いてまで口を挟むような見識を俺は持たない。
「……どうするんだ?」
下手の考え休むに似たり。分からないことは分かる者に聞けば良い。
「この辺りにゃ小島すらねぇんだ。このまま海上でやり過ごすしかねぇな。なぁに、船は小せぇが大船に乗ったつもりでいろよ」
キヤンの伯父貴は明るく振る舞ってはいるが彼の声からはありありと緊張が伝わってくる。……これは相当ヤバいらしい。
その後、伯父貴の指示に従いながら帆を畳むのを手伝ったり、救命胴衣を身に付けたり、いざというときに掴まる場所の確認をしたりしている内に海面が大きくうねり始めた。まともに立っておられずマストに巻かれたロープに掴まりしゃがみこむ。キヤンの伯父貴曰くこの辺りは水深が浅く、こういった場所ではうねりが大きくなるものらしい。
風上を見れば星空の一部がいつの間にか真っ黒に塗りつぶされている。あの黒い部分が恐らくは積乱雲なのだろう。ここに至っては素人の俺にだって時化の気配はびんびんに伝わってくる。俺はロープを握る手に力を入れた。
「ああ……こりゃ、死んだかな」
「馬鹿野郎、人がそんな簡単に死ぬもんかよ」
先ほどまで船上を忙しなく動き回っていたキヤンの伯父貴がマストを挟んで俺の反対側に屈みロープを握る。
「こういうこたぁこれまでにだって何度もあった。だがな、俺はこうして生きてる。大丈夫だ、俺を信じろ!」
そう言って太い笑みを浮かべるキヤンの伯父貴を見ていると、何だか本当に大丈夫そうに思えてくる。……そうだよな、まだこんな所で死ぬわけにはいかない。
「伯父貴。このロープだけど……体に巻いたりしなくて良いのか?」
これから益々激しくなるであろう揺れを想像すると握力だけで耐えられるとは思えない。腰にでも縛ってマストに体を固定した方が楽だし安全なんじゃないだろうか。
「ばーか、そんなことして万一船が転覆したらどうすんだよ」
「あ」
たしかに。それは一貫の終わりに違いない。やっぱり安易な素人考えはよろしくないな、うん。
「いいか、万一船が転覆したり海に投げ出されたりしたら後はもうこの救命胴衣だけが頼りだ。幸いにして、この辺りには岩礁がほとんどねぇ。無理に波に逆らわず、慌てず騒がず浮いてれば十中八九助かる。呼吸のタイミングにだけは気をつけろ。絶対に海水を飲むんじゃねぇぞ」
「お、おう」
その言いっぷりから察するに、キヤンの伯父貴の中では難破からの漂流はもやは既定路線となっているようだ。……なんてこった。
「───む。来たな」
キヤンの伯父貴がそう言った直後、飛沫とは明らかに異なる硬い雨粒が俺の頭を叩いた。続けざま大きな雨粒がバタバタと船底を打ちつける。緩やかにまろみを帯びていたうねりが尖った風浪に取って代わられると、あっという間もなく嵐は本番を迎えた。
「ブハッ!?」
船縁を超えてきた波を頭から被る。塩っ辛い!
「お、伯父貴ッ、これ、ほんっと、大丈夫か!?」
「わからんッ!!」
パンツの中までグショグショで、互いの姿はもうほとんど見えていない。見ている余裕もない。声だけが頼りだ。
「とにかく、どこでも良いから船にしがみつけ! さっき言ったことを忘れるなよ! 後は……そうだな、神様にでも祈っとけッ!!」
「わ、分かっ───」
神様って、何の神だよ! そう思った瞬間だった。船が大きく波に煽られ、血の気が失せるような浮遊感に見舞われた。
「───んなッ!?」
「うぉおおおッ!?」
ヤバい、浮いてる!? 真っ黒な海面が見えた。
「ライカぁーーーッ!! ロープだッ! 放すなよ!? 絶対にロープを放すんじゃねぇっぞぉッ!!」
「くッ、こんな……くっそぉッ!!」
キヤンの伯父貴が叫ぶ。言われるまま右手に絡めたロープを握り締め、空中で力一杯手繰り寄せる。
「ふぅんぐぅうううッ!! 死ぃんでッ、たっまるかぁあああッ!!」
手首のスナップと肘を曲げた分だけ、浮いた体が僅かに船へと引き寄せられる。あれ、これ、このままじゃ船体に叩きつけられるんじゃ……? それでも海に放り出されるよりは!!
「ッ、しゃらぁあああッ!!」
もう一踏ん張りだ、そう思った俺は左手でもロープを握ろうと腰を捻った。──しかし、結果的にはそれが良くなかった。
「あっ」
ずるり、と嫌な感触を伴ってロープが手のひらから滑り抜けていく。痛みはない───が、海水でふやけた手のひらの皮がべろりと持って行かれた、そんな確信があった。
「っち、ちっくしょおおおぉおおおぉッ────あがッ!?」
ズダンッ、とまるで畳にでも叩きつけられたような衝撃が全身を襲った。
痛ぇッ!!
「ぬぁああああああッ!!」
その後、上下左右四方八方から荒波の濁流に揉まれ、あっという間に訳が分からなくなる。
「んもがぁああああ゛あ゛あ゛ッ!? じぬ゛ぅう゛う゛う゛」
慌てず騒がず波に逆らうな? 呼吸のタイミング? 海水を飲むな? すまん、伯父貴──────どれか一つでも俺には無理だったわ……。
「ガボッ、ゴボボボボ…………」
こうして、俺は呆気なく意識を手放した。
お目汚し失礼しましたm(_ _)m