とあるエルフの追憶〈その4〉
それから程なくして、リンネはエルフの里に引き取られた。
引き取り手の夫婦は本当の家族のように、優しく迎え入れてくれた。
半島の気候は温暖で食料も豊富。
食料には困らないし、里のみんなも本当によくしてくれた。
きっと幸せな生活だったのだろう。
リンネが、狂っていなかったのならば。
穏やかな生活というものは、彼女にとって耐え難いほどの苦痛でしかなかった。
「憧れは捨てろ」毎日自分に言い聞かせても心に潜む怪物が囁くのだ。
「救え。あの日見たほうき星になれないのであれば、お前に生きる意味などないだろう?」と。
少し霧の深い朝のことだった。
リンネが洗濯のため川に向かっていると、助けを求める声が微かに、されど確かに聞こえてきた。
――助けないと
その想いに捕らわれた彼女は持っていた衣類を放り出すと、一目散、声の聞こえた方角に向かって走り出した。
リンネを誘うように揺れる木々の間を抜けると、川でエルフの少年が溺れていた。
「今行くから、耐えて!」
叫んで、リンネは一切の躊躇なく川に飛び込んだ。
突き刺すように水の冷たさも、昨夜の雨で激しさを増した川の流れも、リンネはまったくもって気にならなかった。
「届いた!」
リンネの手が、もがく少年の腕を掴む。
そのまま手繰り寄せて、抱きしめる。
少年の身体はとても冷たくなっていた。
「意識はある!?」
訊ねると、少年は必死に首を縦に振る。
今すぐ命に関わるという話ではなさそうだ。
リンネは一安心して岸に戻ろうとするも、少年を抱えたままだとこれがなかなか難しい。
シンピのように転移魔法が使えれば楽なのだが。
しかしリンネは魔法を使えない。
必死に足を動かす以外に、この少年を救う方法などは持ち合わせていなかった。
リンネは足が重たい棒のように感じた。
だけど、関係ない。
彼女には関係ないのだ。
リンネがようやく岸に辿り着く。
「大丈夫だった?」
リンネが尋ねると、どうしてか少年が不思議そうな顔をする。
「うん……ねえ、どうして笑ってるの?」
「え?」
少年の問いに、リンネは恐る恐る己の顔に触れる。
「あれ? 私……どうして……?」
リンネは大慌てで這いつくばり、近くに見えた水たまりを覗き込む。
するとそこに映っていたのは、心底嬉しそうな笑顔を浮かべている自分の姿だった。
「私……」
リンネは静かに立ち上がり、少年に背を向け歩き出す。
「……どこに行くの?」
問う少年に、リンネは振り返らないまま静かに答えた。
「行かなくちゃいけない場所があるの。そうだ、一つだけ頼み事、お願いしてもいい?」
「……うん」
「ありがとう……里のみんなにさ、伝えておいてほしいの。リンネがごめんなさいって……あと、ありがとうって言ってたって」
「わかった……帰ってこないの?」
「うん。たぶんもう……だから、お願いね」
そう告げて、リンネは空を見上げる。
いつの間にか霧は晴れていて、視線の先には蒼い空が広がっていた。
――ごめん、シンピさん
「私、普通になれなかった」
空と同じ蒼の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。




