雪は全てを白く染めゆく
「おい竜司よう……お前、本気で言ってるのか? 俺も長く刑事をやってるが、こんなバカな話は聞いたことがねえぞ。本当に、これは事故なのか?」
同じ質問を繰り返す刑事の高山に、竜司は面倒くさそうに頷いて見せた。
「だから、何度も言ってるじゃないですか。これは事故ですよ。俺が福田の家で包丁をいじってたら、間違えて自分の腹を刺しちまった。で、慌てて病院に行こうとして外に飛び出てら、雪のせいでスッ転んで倒れちまったんです。ただ、それだけの話ですよ。だから、誰も悪くないんです。俺が下手打っただけ……あなたの手を、煩わせるほどのことじゃありません」
ベッドで寝たまま答える。面倒くさそうな口調だが、浮かぶ表情は柔らかい。ほんの僅かな時間に、憑き物が落ちたかのようであった。
このふたりは今、病室にいる。
道端で倒れて、意識を失っていた竜司。そのままならば、確実に命を落としていただろう。
だが、後を追いかけて来た福田信夫に発見され、そのまま救急車で病院に運ばれた。出血多量で一時は生死の境をさ迷ったが、どうにか一命は取り留めた。内臓が傷ついていなかったのが、生死を分けたのだという。
そして今は、古い馴染みの刑事である高山に病室で事情聴取をされている。
「ンなふざけた話、俺が信じると思うのか?」
高山はいったん言葉を止め、竜司をじっと睨みつける。だが、竜司は平然としていた。すました様子で、刑事の鋭い視線を受け止める。
少しの間を置き、高山は再び語り始めた。
「だったら、あの福田親子は何なんだよ? 父と娘が口を揃えて、自分が村山を刺したって言い張ってるんだぜ。あたしが刺しました、父さんは関係ありませんって娘は言ってやがる。かと思えば、親父の方はこうだ。俺が刺したんです、娘は何もしてません……だとよ。どっちも、逮捕されたくて仕方ねえって感じだ。罪のなすり付け合いなら見慣れた光景だがな、あの親子は罪のかぶり合いをしてやかる。うっとおしくて仕方ねえよ」
そう言うと、高山は呆れたようにかぶりを振った。それを聞いた竜司は、思わず苦笑する。
親子という奴は、なんとも面倒なものだ。
「竜司よう、警察も暇じゃねえんだ。困らせないで本当のこと言ってくれよ。お前を刺したのは、一体どっちなんだ? 父か? 娘か? お前さえ本当のことを言ってくれれば、俺がパクってやるからよ」
「だから、さっきから言ってるじゃないですか。あいつらは、どっちも嘘をついてるんです。俺は自分で自分を刺した、それだけです。たぶん、あの親子は血を見て気が動転しているんですよ。自分たちが刺した、そう思い込んでるんです。情けない奴らですよ」
吐き捨てるような口調で言うと、竜司は面倒くさそうに視線を逸らした。
ふと、窓を見る。ひょっとしたら、また雪が降るかもしれない……なぜか、そんな気がした。
そんな竜司の態度を見て、高山は首を捻る。
「ひょっとして、てめえの手でカタつけようと思ってんのか? あの親子を警察にパクらせずシャバに出しといて、傷が治ったらてめえの手でケジメとる……そんな腹なのか? 悪いがな、ンなことはさせねえよ」
言いながら、高山は立ち上がり顔を近づけてくる。だが、竜司は首を横に振った。
「何を言ってるんですか。あんなザコ以下の連中、殺したところで誰も得しませんよ。第一、俺はあんな奴らに刺されるほどヤワじゃないですから。俺は、誰にも刺されてません。誰のことも、訴えたりしません。誰のことも、傷つけようとは思っていません」
そう、これ以上誰も傷つけたくない──
竜司の言葉に、高山は目を細める。もう六十近いはずなのだが、未だに迫力ある風貌だ。刑事ひとすじ二十五年のキャリアは伊達ではない。
「そうかい。ま、お前が嘘をついてるってことは、こっちもわかっているよ。だがな、俺も忙しいんだ。お前が被害届を出さねえなら、警察もこれ以上はかかわる気はねえ。好きにしろ」
そう言って、高山は背中を向け病室を出ようとした。だが何かを思い出したのか、立ち止まり振り返る。
「たまには、お袋さんの面会に行ってやれよ。お前、一度も行ってないそうじゃねえか。これは、刑事としての言葉じゃねえ。おっさんからの忠告だ。親孝行が出来るのは、生きてる間だけだぞ」
高山が去った後、竜司は窓の方を向いた。だが、腹に痛みが走り顔をしかめる。医師の話では、命に別状はない……とのことだった。後遺症もないだろう、とも言っている。もっとも、しばらくの間は入院していないといけないらしい。
母さん、何で言ってくれなかったんだよ──
竜司は心の中で、母に問いかけた。
もっとも、その理由は聞くまでもない。母は、竜司を殺人犯にしたくなかったのだ。
目の前で、父を殺してしまった息子の姿を見てしまった。母はその時、想像もつかない絶望感を味わったのだ。さらに、これまでの生活を激しく後悔したことだろう。自分たちがさっさと別れていれば、こんなことは起きなかったはずなのに……。
だが、意識を取り戻した息子には、殺人の記憶がなかった。頭を打った衝撃か、あるいは無意識のうちに記憶を封じ込めていたのかは分からない。いずれにせよ、息子には殺人の記憶がなかった。
その事実を知った時、母は決意したのだ。息子の身代わりになることを。その罪を、自分が代わりに償うことを。
全ては、息子に殺人犯としての人生を歩ませないためだった。
だが、その息子の今の姿は?
あいつと、全く同じではないか。
自分と母の人生を目茶苦茶にした、あの男と……。
いつのまにか、外はまた雪が降り出していた。
空から落ちてくる雪が、竜司のドス黒く汚れた心を白く清らかなものへと変えてゆく。同時に、これまでの人生でしてきたことが、走馬灯のように脳内を駆けていく──
枕に顔を埋め、泣いた。
その泣いている姿を、窓からじっと見つめているものがいる。
一匹の黒猫だった。降りしきる雪にも構わず、二本の尻尾をゆっくりと揺らしながら、目を細めて竜司を見つめている。その顔には、どこか満足げな表情が浮かんでいた。
やがて、黒猫は消えた──




