2-1 綾糸温泉郷へ
──冷たいアイスクリーム。
ひんやり甘くて口の中でとろける美味しさ。しかも両手に二つも。ああ、なんて幸せなんだろう。
いつもは喧嘩ばかりのお父さんもお母さんも、今日はすごく楽しそうにしている。
よかったね、と頭を撫でてくれるお父さん。零さないのよ、と優しく口を拭いてくれるお母さん。二人ともニコニコ笑っていて、私も嬉しい。
『おやおや、お嬢ちゃん。とてもいいものを持っているんだね』
ふと、知らない誰かの声がした。
『そのいいものを半分、わけてくれないかな?』
私はコックリと頷いた。二つは少し多かったから。
なのに、気がついたらアイスクリームは二つとも地面に落ちて溶けていた。溶けて出来たミルク色の小さな水溜りに蟻が溺れている。
お父さんとお母さんは落ちたアイスに気がつきもせず怒鳴り合っている。今日だけは喧嘩しないって言っていたのに。
私は俯いて溺れる蟻をずっと見ていた──
ピピピピピ、と電子音がして目が覚めた。
頭がぼんやりとしてあたりを見回す。
「……あ、そうか。ホテルだった」
なんだか昔の夢を見ていたらしい。朝からやけに疲れている。
ベッドのヘッドボードのパネルで目覚ましを止めて置き上がる。
今日は月曜日。綾糸温泉郷に向かう日なのだった。
土曜日、若宮さんからモニターに関しての説明を聞いて、私は行くことを決心した。
正直なところ報酬は喉から手が出るほど欲しい。ちゃんと行政書士の事務所まで行って正式な契約書を作ってもらったから、ひとまずは安心だと思いたい。
その後は土曜日にも空いている銀行窓口まで行って通帳の再発行、郵便の転送手続きなど、やることが多く、ドタバタして大変だった。日曜は若宮さんから前報酬でもらったお金で買い物三昧。モニターとはいえほぼ一ヶ月の旅行のようなものだから荷物も多い。大きなトランクにパンパンに詰まっている。
ロビーに降りると若宮さんは今日も先にいて私を待っていた。
「おはようございます。忘れ物はありませんか?」
「大丈夫です!」
ほんの数日だけれど、ホテル暮らしで美味しいものを食べ、たっぷり睡眠を取っただけで元気も満タンになっている。英気を養うのって大事だ。
これから羽田空港まで行く。タクシーに運転手さんがトランクを積み込んでいるのをぼんやりと見ているとミキさんの声がした。
「櫻井様!」
ミキがこちらに小走りにやってくる。おそらく夜勤明けなのだろうが、今朝もイキイキとして素敵な笑顔を浮かべていた。
「あの、綾糸温泉郷に行かれるんですよね。お気をつけて、いってらっしゃいませ!」
「ええ。ミキさんにはお世話になりました」
「どういたしまして。櫻井様、どうか楽しんでいらしてください! 到着まで二時間くらいですけど、たまに船が遅れたりするので、もし小腹が空いたら途中で摘んでください」
ミキさんは小さな箱を渡してくれる。中身は個包装された焼き菓子のようだ。シンプルな黒い箱に銀の箔押しされた店名は雑誌でもよく取り上げられている有名店のものだ。
「わあ、ありがとう! これ食べてみたかったんだ」
「それから……これも」
恥ずかしそうに手渡されたのは手紙だった。
「あの……あっちに姉がいるって、前にも言いましたよね。もしよければ、これを渡していただけませんか? 出来れば、姉がやらかして落ち込んでいる時なんかに」
「いいですけど……」
「手間をおかけしてすみません」
「でも、やらかした時でいいんですか?」
「はい。……絶対すぐやらかしますから。できれば三回くらいやらかしてからで。って、すみません。お客様にこんなにお願いしてしまって。……負担でしたら断ってください」
「ううん、それくらい構わないよ。じゃあ預かっておきますね」
私はミキにそう言ってハンドバッグに手紙を忍ばせた。
ミキはニッコリ笑ってから深々とお辞儀をした。
「ミキさん、お姉さんが好きなんですね」
「……はい。大好きです。姉に負けないように私もこのホテルイプシロンでしっかり勉強させてもらってます。姉に会った時、私もちゃんと頑張ってたって言いたいですから!」
私はミキさんに見送られ、若宮さんと羽田空港に向かった。
若宮さんが搭乗の手続きも全てしてくれた。私はついて回るだけ。気楽にも程がある。
「櫻井様は八丈島に行ったことはありますか?」
「いえ、ないんですよ。あのー、若宮さん。様をつけるのやめません? なんか気恥ずかしいというか……。モニターとはいえ、契約して報酬をもらう以上、私はお客様じゃないですし。むしろ、若宮さんの部下みたいなものでは?」
若宮さんは困り顔をする。
「部下というわけでは……ですが、そうですね、さん付けにさせてもらいます。じゃあ、櫻井さん。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いしますね」
私は若宮さんに頭を下げる。
こんなによくしてくれる理由は結局よくわからないままだが、せめて温泉郷のモニターとしてしっかり働こうと思う。