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1-7 クラシックショコラ

「他にもホテル内で全て完結出来るように、様々な施設をご用意しています。また、コンセプトの違う建物が三つあり、連泊のお客様でも飽きない仕組みです。基本的に東生リゾートの会員とそのお連れ様しか泊まれないホテルとなります」


 軽く話を聞いただけで素敵なリゾートホテルなのが伝わってくる。そして、高級リゾートであることも理解出来た。

 しかし私は眉を寄せた。


「でも……それならモニターはもっと詳しい人とかふさわしい人がいるんじゃないですか。私、旅行経験もそんなにあるわけじゃないし。それにこういうのって会費がかかるから、お金のある人向けですよね。お金持ちが満足出来るかなんて私にはわからないですけど」

「ええ、ですが広く意見を聞きたいと思いまして。それにプレオープン時には会員の方をお呼びして、そのご意見も参考にします。……櫻井様は、こういった島開発型のリゾート地での問題点はわかりますか?」

「ええと、災害とかですかね……台風とか。船が出ないと困るし」


 日本で離島といえば真っ先に浮かぶのが台風だった。離島ではないが、旅行先に台風が直撃し、観光どころじゃない上に特急が止まって帰ることも出来ず、肝が冷えたなんて経験はかつてしたことがある。


「そうですね。年に何度かは大型の台風もきますのでホテルでは災害に備えて備蓄なども徹底しています。それよりも一番の問題は雇用なんですよ。東京から二時間とはいえ、通勤はさすがに出来ませんから、基本的に住み込みとなるわけですが……」


 私はなるほどと手を打った。


「ああ、人手不足ってことですか」


 学校もない不便な離島では、家庭持ちなら単身赴任になるしかないし、島にはリゾートホテルしかないなら買い物すら簡単には出来ない。雇いたくても応募が少ないのかもしれない。


「はい。ですので、この綾糸温泉郷は従業員が全て……特殊なんです」


 従業員が特殊。不思議な響きに首を傾げた。

 外国人労働者を多く雇用したり、障害者雇用を手厚くしているとかなのだろうか。


「ですので、多少常識がずれているといいますか……まずはごく一般の方をモニターにして従業員がどうだったかを客観的に確認したいというわけなのです」

「ははあ、なるほど」

「特に、リゾート会員のお客様相手には完璧な接客のプロでないといけないわけですから」

「まあ、そうでしょうね」


 私がそう言えば若宮さんは頷いた。


「昨晩のフロント担当のミキの仕事はいかがでしたか? 櫻井様に着替えや女性が必要そうなものを用意するよう頼んだのですが」

「ああ、ミキさん。用意してもらったこのワンピースもぴったりでしたし、化粧品なんかもばっちりで。それに態度もいいですよね。ニコニコしていて接客も気持ちいいというか」

「それはよかったです。ミキは、元々綾糸温泉郷の従業員として教育をしておりまして……その中で一番覚えがよく、気が利く従業員だったのですが……」


 若宮さんはそう言葉を濁す。


「なにか問題が?」

「出来がよすぎて、他の従業員がミキ頼りになってしまったのです。確かにミキが指示した通りにすれば楽ですが、そうするとミキの負担だけが大きくなってしまいますし、本格的にホテルが稼働してからは従業員は自分だけで判断をすることも必要となりますから」

「ああ、そうですねえ……」


 仕事なんて一人だけで支えられるわけはない。ミキさんだって365日仕事出来るわけじゃない。まあ、私はそれに近いことをしてにっちもさっちも行かなくなっていたけれど。


「それで今はこのホテルで研修をしております。他の従業員がミキと同じくらい成長すれば、いずれはミキも綾糸に戻したいと考えています」


 それからも若宮さんの説明は続く。


「──それで、モニターの期間なのですが、約一ヶ月間を想定しています」


 若宮さんの言葉に私は目を剥いた。


「一ヶ月! そんなに長いんですか!」

「ええ、ご説明した通り、館内の施設を色々巡ったりレジャー観光体験もしていただきたいので、長ければ長いほど、と考えております。長期滞在中に不満に感じることも出てくるかと思いますので。やはりお仕事に不都合がございますか?」


 さすがに一ヶ月は長すぎる。仕事は解雇されたとはいえ、私には遊んで暮らせるような貯金はない。平行して就職活動をするにも離島では難しい。確かに都心から片道二時間はかなり近いと感じる。かと言って船と飛行機を乗り継ぐ以上、ちょくちょくハローワークに行けるほどは近くないのだから。


「あの……ご存知の通り、住まいが焼けてしまってるんですよ。それと、恥ずかしながら仕事を解雇されたばかりでして……これから色々と手続きもありますし、正直なところ一ヶ月もリゾートモニターは難しいです」


 せめて二泊三日くらいならよかったのだが。素敵なリゾート地に行く機会は今後もなさそうなのを考えれば、目の前で美味しそうなものをちらつかされてから取り上げられた気分になる。


 しかし、私には生活がある。遊んでいられる余裕はない。

 運が悪かったと、いつも通り諦めるしか──


「いえ、櫻井様。手続きでしたらこちらで代行いたします。綾糸温泉郷に向かうまでに出来る限り済ませて、残りの必要書類の用意などはこちらでいたしますから」


 断りを入れたのに、なおも食い下がる若宮さんに私は困惑するしかない。

 顔を上げればじっと見つめていた若宮さんと目が合った。

 なんでこの人、そんなにもじっと見つめてくるのだろう。勘違いをしてしまいそうだ。

 私は首を横にブンブンと振って、変な考えを追い出してからから口を開いた。


「いやいや、そんなわけには。色々していただいてもモニター終わった後、私は住む場所もないわけですし……」

「そちらもなんとかします。東生グループには不動産部門もありますから、火事での補償についての交渉と新居の用意はお任せください!」

「はいぃ!?」


 思わず声が裏返る。


「モニター終了までに、これまでお住まいだったマンションと同程度の物件を探しておきます。入居までは東生リゾート系列のホテルにご宿泊ください。敷金礼金も必要ありません。全てこちらで負担します。数件探しますのでその中で一番気に入った物件を選んでいただいて構いませんし、気に入らなければ出ていただいて結構です。その際の負担金も必要ありません。いえ、向こう半年は家賃負担もなしということで」

「いや、えっと、でもですね……」

「あとは何が必要でしょう。言っていただければなんでもご用意しましょう」


 困惑を通り越して混乱だ。目がぐるぐると回る。


「ええと……何故、そんなにも用意してくれるんですか。私なんかじゃなくて他の人にすればこんな余計なお金もかからないでしょう」

「……それは……」


 若宮さんの爽やかな風貌に一瞬だけ、影が落ちた。


「櫻井様は、登山ってお好きですか?」


 突然のそんな質問に私は目をパチクリさせた。


「え? 登山ですか。山に登るの登山ですよね? ……子供の頃、両親と何度かはありましたけど」


 脈絡のない若宮さんの質問に答える。若宮さんはまだじっと私を見つめている。


「……私も子供の頃に両親と登山をしたことがありました。……忘れられない思い出です。それから色々ありまして、東生リゾートの開発部門を任されたのです。私はこのリゾート開発を絶対に成功させたい。それは、本当の気持ちです。お世話になった方への恩返しにもなるはずで、その成功の鍵が……櫻井様なのだと私は感じています」

「それがよくわかりません……私、完全な一般人で、それなら他の人でもいいはずです」


 モニター応募の葉書。あれを出した人なら誰だっていいはずなのだ。まさか私一人ということもあるまい。


「櫻井様は……運が悪いのに、恨みがましくもなく卑屈になることもなく、受け入れているから……でしょうか。それから私のピスタチオムースにスプーンではなくフォークを添えられた時、すぐに気づくほど視野が広く、観察眼があると感じました。また失敗をしたスタッフにも穏やかに、むしろ彼が落ち着けるような態度で接してしましたよね。そういう冷静なところもモニターに向いているのではないかと思いまして」


 あれ、運が悪いと若宮さんに伝えたことがあっただろうか。私は首を傾げた。


 しかし、観察眼があると言われたが、若宮さんの方がよっぽど私を観察しているようにじっと見てくるではないか。とはいえ、褒められているのは確かなのでそう悪い気はしない。


 どうせ住む場所もないのだし、一ヶ月は長いけれどこの申し出、受けようかな。


「それと、すみません。言い忘れておりましたが、このリゾートモニター費用として百万円が──」

「あっ、結構です!」


 私は反射的にそう言って腰を浮かせた。前言撤回、やっぱり詐欺じゃないか!


「モニターは断ります! そんなお金、どこにもありません!」


 色々用意するとかなんとか美味しいことを言って、実際は高額な旅行代金を取り立てるつもりに違いない。危うく信じてしまうところだった。

 そう思った時、慌てた若宮さんに遮られた。


「ま、待ってください。誤解です! こちらからお渡しするんですからね! 櫻井様へのモニター報酬として百万円をご用意しているんですよ!」

「はいぃ!?」


 百万円、だと。


 私はひっくり返った声を上げて若宮さんを見つめた。


「当然です。一ヶ月も時間をいただくのに無償というわけにはいきません。アンケート調査や治験でお金をもらうことだってありますよね? それと同様の報酬です。短期のアルバイトと考えていただいても結構です」


 さらにテーブルに分厚い封筒を置いた。銀行の薄っぺらな封筒に中身の分厚い札束が透けていた。帯が付いているから、おそらく百万円。


「モニター報酬は終了時にお渡しします。こちらはそれとは別の前報酬というか……櫻井様は着替えや旅行用のキャリーなどご入用なものが多いでしょう。必要な支払いはこちらからどうぞ。こちらは返還不要です」


 ということは、実質の報酬は二百万円ということになる。ごくりと思わず唾を飲み込んだ。ブラックな前職の給料半年分よりずっと多い。


「どうぞ、座ってください。もちろんモニターに一切の費用はかかりません。交通費、モニター中の食事代、全てこちらで負担します。それらについての正式な契約書も作成します」


 私は腰を浮かせたままだった。それに気がつき、腰を下ろした。


「コーヒー、冷めてしまいましたね。新しいのをもらいましょう。それから少しお疲れではありませんか。どうぞ、ケーキを召し上がってください」


 私は目の前のクラシックショコラに手をつけることさえ忘れていた。


「は、はい……いただきます」


 わずかに震える手でフォークを掴み、クラシックショコラを一口、口に含む。コクのある甘さとビターなチョコレートの風味が口いっぱいに広がった。


 多分、夢ではない。こんなに味のする夢は今まで見たことがないから。



 その甘さに、頭がくらりとした。

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