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1-3 ホテルイプシロン

 ホテルイプシロンはもう二十二時近いのに煌々と明るくて、それだけでなんだかホッとした。


「いらっしまいませ」


 にこやかなフロントのお姉さんの微笑みに、ささくれた心が和らいでいく。


「あの、こんな時間にすみませんが、一部屋空きはありませんか?」

「はい、ございますよ」


 ああ、よかった。野宿は免れた。あとは料金だけど、休前日だから少し高いかもしれない。


 お姉さんは重そうな料金表をカウンターに乗せる。料金表は革製で高そうだしボールペンなどの小物類まできっちりしたいい品だ。さっきのビジネスホテルとは大違いだ。その分は料金に反映されているはず。


「広さとかは気にしないので、一番安いお部屋でお願いします」


 私は恥も外聞もなくそう言った。


 いくらかかるだろうか。そればかりを気にしてソワソワしていた私に声がかかった。


「──あの、突然すみません。もしかして櫻井様ではありませんか?」

「え?」


 フロントのお姉さんではなく、その近くにいた人から突然横合いから話しかけられ、私はきょとんとした。


 話しかけてきたのはビジネスマンらしい若い男の人。しかし見覚えはない。


 彼は、私のことををじいっと穴が開きそうなくらい見つめてくる。


 鞄をもっているし、おそらくこのホテルのお客さんだろう。パリッとした仕立てのいいスーツにも負けていないほど顔立ちが整った若い男性──歳の頃は私と同年代の二十五、六くらいに見える。

 若いけれど堂々としていて高級なホテルにいても全く見劣りしない。特売品スーツを着倒してヨレヨレの私とは比べ物にならない佇まいだ。私の知り合いにこんな人いただろうか。


 眉を寄せた私に、彼は爽やかな笑みを浮かべて言った。


「先程お電話いたしました東生リゾートの若宮です。お声が櫻井様のようでしたので咄嗟に声をかけてしまいました。お人違いでしたら申し訳ありません」

「あ、もしかして、さっきの電話の……?」

「やはり櫻井様でしたか」

「は、はい……」


 若宮という名前はさっきの電話で覚えがある。確かにこんな声だった。


「す、すみません。詐欺かなにかだと思って……」

「いえ、こちらこそ先程は誤解させてしまったようで大変申し訳ございませんでした。急なご連絡で驚かれたことでしょう。今夜はこちらにお泊まりですか? もしよろしければ、料金は当社に持たせてください。ご迷惑をおかけしたお詫びです」

「えっ!」


 私は顔を料金表に向ける。出せないほど高くはないが、ビジネスホテルよりは断然高い。


「いや、そんなわけにはいきませんよ!」


 私はブンブンと首を横に振る。

 しかし彼はニッコリと微笑む。


「いえ、このホテルイプシロンは東生リゾートの系列ですので。この度のご迷惑のお詫びとして是非。──こちらの櫻井様にプランSでお願いします」


 後半は私ではなくフロントのお姉さんに向かって言った。


「かしこまりました」


 フロントのお姉さんも恭しく頷く。


「ええと、でも、その……そこまでしていただくほどではありませんし」


 ホテル代を出してもらえるのは、正直なところものすごくありがたい。名前を名乗るだけでフロントのお姉さんも弁えたように返事をしているなら本物の東生リゾート関係者の可能性が高い。しかし、だとしてもなんだか後が怖い。ラッキーと単純に喜べないのがこの長い不運生活で培った小心な性格だ。


「ですが櫻井様。お住まいの場所からして、駅向こうの火事に巻き込まれたのではありませんか?」


 若宮さんは心配そうな声でそう言った。

 どうやら私の住所まで知っていたらしい。旅行のモニター応募に覚えはないけれど、もし私が応募したのなら住所も書いたということなのかもしれない。


「見たところお怪我はなさそうですが、あまり顔色がよろしくありません。そんなタイミングで詐欺と勘違いするような電話をしてしまい、きっと恐ろしい思いをされたことでしょう。どうかお詫びとして受け取ってはいただけませんか?」


 顔色が悪いのは連日の仕事での疲労のせいだろう。しかし、疲れてる時に優しくされるのはなんだかぐっとくるものがある。しかも若宮さんは結構なイケメンだ。こんなに熱心に言われると、なんだかトレンディドラマのワンシーンみたいでドギマギする。


 フロントのお姉さんも「料金は全て当ホテルで持たせていただきます」と優しく微笑んでいる。


「でも……」


 言い淀む私には若宮さんは提案をしてきた。


「それでしたら、明日にでもお時間がございましたら東生リゾートのモニターの件をご説明させていただくというのはどうでしょうか。話を聞いた結果、モニターを断っても構いませんし、その際にも今夜のホテル料金を請求することもいたしませんから」


 若宮さんにそこまで言われ、それくらいなら、と私はとうとう頷いた。もう疲れ果てていて、断りの言葉も出なかったのだ。




 どこからともなくやってきたマネージャーというバッジをつけたおじさんが私の大きくもないビジネスバッグを恭しく持って廊下を先導してくれる。


 マネージャーということは多分このホテルの偉い人のはず。そんな人に案内してもらうなんてこと滅多になさそうだ。


 このホテルイプシロンは東生リゾートの系列なのだそうだが、若宮さんの一存だけでこんなにペコペコしてもらえるということは、あの若宮さん、一体何者なのだ。かなり若く見えるけれど、これだけの権限があるということは東生リゾートのかなり偉い人な気がする。


「お部屋はこちらでございます」


 マネージャーのおじさんは腰を低くして扉を開けた。


「うわあ……」


 そう思わず声が漏れてしまうのは、部屋がびっくりするほど広くて豪華だったから。


「こちらはデラックスルームでございます。すぐにご用意出来る中で一番広い部屋なのですが、こちらでよろしいですか?」

「よ、よろしいというか、むしろ私がこんなにいい部屋に泊めてもらえるなんて、こちらこそよろしいんですか?」


 混乱して言葉がめちゃくちゃになってしまうほどだ。


「もちろんでございます。料金を請求することもございませんから、ごゆっくりお寛ぎください。また、ルームサービスも全て無料で提供いたします。大変申し訳ありませんが、お時間が二十二時を過ぎておりますので、ご用意出来るお食事は軽食のみとなっております」

「は、はあ……」

「それから、櫻井様、ランドリーサービスも行っておりますので、もしよろしければこのランドリー用の袋に入れて扉の前に置いていただければ、ただちに回収し、明朝までに洗濯してお返しいたしますので遠慮なくご利用くださいませ」


 まさに至れり尽くせりだ。

 火事で着替えはなく、着の身着のままだったのでありがたい。


「ありがとうございます」

「いえ、とんでもございません。必要なものはフロントまでご連絡いただければ出来る限りご用意いたします。どうぞごゆっくりお休みください」


 マネージャーさんは下がっていった。


 改めてデラックスルームとやらの室内を見る。


「ひっろ……」


 広々とした部屋に、どでかいキングベッド。足置きまである。さらに高級そうなソファにテーブル、それとは別にデスクとチェア。部屋が広いから家具が大きくてもゆったりした空間に見える。火事で燃えてしまった1Kの部屋のゆうに二倍はある。


 しかもトイレとバスルームが分かれていた。バスルームは大理石で、ビジネスホテルでよく見るシャワーカーテンがあるお風呂とはまるで別物。足を伸ばしてゆっくり入れそうだ。


「え、アメニティもブランドじゃん!」


 タオルもふかふか。バスローブがあるホテル、初めてだ。


 それとは別にパジャマがある。


「うそ、パンツまで?」


 さらに使い捨てらしいトラベル用のブラジャーとショーツが用意されていた。明日のパンツすらなかった私には涙が出そうなほどありがたかった。




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