思い出の画集
ずらずらと様々な国の兵を引き連れた少女は、とある屋敷の門を潜り抜け伽藍とした人一人いないその家の中を真っ直ぐに進んでいった。そしてとある一室に辿り着くと彼らに外で待つように言い付けキョロキョロと室内を見渡す。
柔らかなレモンイエローの壁紙には小花が散りばめられ、窓には破れかけてはいるもレースのカーテンがかかる。何者かに荒らされたらしいドレスの数々や女性の好みそうな小物が散らかるその部屋に少女はよく馴染んでみえた。
それも当然だろう、彼女はこの部屋の元々の主なのだから。
暫くあちらこちらへと視線を向け何かを探し彷徨っていた彼女は、やがて目当てのものを見つけたらしくそちらへと歩みを進めると屈みこんで大事そうにとある一冊の本を手にしホッと息を吐き出すと安堵するかのような微笑みを浮かべた。
「ああ、よかった。……頁も欠けてませんわね?」
所々に汚れや破れが生じている本を捲り、確認してはそれ以上の破損を恐れながらそっと汚れを叩き落とす細い手はそれをギュッと胸元へと引き寄せる。とある画家の描いた絵を集めた画集だが彼女にとって唯一、故国に残してきた心残りでありずっと求め続けた宝だ。
幼い頃に彼女の母たる女性が譲ってくれたその画集は、ここにはない、空想の世界の数々が広がっていた。生まれた頃より王家へ嫁ぐ事が決められ淑女である事を求められ知識を詰め込まれ血反吐を吐いても病に倒れて高熱を出して寝込んでも救いを求めた手を払われ、情けないと父に叱られ挫けそうになった少女の心を支え救済し続けた。
彼女の母が助けてくれなかったわけではない。だが家での立場が弱かった。幼い彼女と引き離されて弱っていく彼女に涙を浮かべて己の夫に詰め寄っては丈夫な体へ産めなかったお前が悪いのだと逆に詰られ頬を張られ蹴りを食らわされ。気弱な母親はそうして娘を助けられない不甲斐なさと父親からのプレッシャーに負けたように娘が十歳になる前に儚く命を散らした。
その後公爵の家に来た後妻は公爵に媚び諂うのが上手く、母を亡くした少女へは冷たく辛く当たった。躾と称し表には見えない所に刺繍針を刺したり、侍女に箒を持って来させて殴りつけたり。棒で何度も同じ箇所を殴りつける等陰湿な真似もした。
だがそれでも少女にとっては未だ地獄はこれからであった。
成長するにつれ体は大人らしく成長していく。胸も少しずつ膨らみ、腰の括れが、張りのある娘らしい肌が、足の流線形の美しさが卑しい大人の男らの目に留まるようになる。
大きくは囁かれずともそのような話題が出始めては金にばかり関心を持つ公爵は娘に新たな仕事をさせようという気を起こした。
貴族の令嬢は貞淑であらねばならない。だがそれを処女さえ失わなければ何をしてもいいのだと、公爵は受け取った。
淑女教育の一環だと少女には言い込めた。公爵の知人や商売相手として何度か会っていた大人と突然二人きりにとさせられる動きを察して少女は戸惑った。だが、父が言うのであればそうなのだろうと疑わずにその相手に教えを請うた。未来の国母になるかもしれない少女故に、奪われる事はない。だが多くを少女は失っただろう。奪われずとも何度も危うい目に遭い、しかし孕まなかった。
それは奇跡に近く。
様々に経験を積んできた彼女が振り返りあの時を思ってはやはり父は馬鹿ではないのだろうかと言う公爵に対しての蔑みと呆れた。それなりに厳選した相手のみだったのかもしれないがそれにしても誰の目もない状況ではもしもという事があった時に取り返しもつかないというのに。
仮にそうなったとしても公爵は王家を諦めどこか別のもっと金を稼げるところへ娘をやるつもりだったのだろうかと考えるでもいいが、それにしてもお粗末ではないか。
婚約破棄を言いだした王太子が言うように、彼女と関係を持った者らが自慢げに仄暗い欲を満たす為に撒いた自慢のように、そして女らが彼女のそれでも落ちない狂うような気高い美しさに嫉妬し面白可笑しく広めた噂のように。
とっくの昔に彼女は穢れている。壊れている。否、それを彼女も理解してはいた。そして知っていた、自分の異常性を。だから婚約者が他の女と絡んでいるのを見ても動じなかった。遠巻きに笑われても謗られても公衆の面前で断じられてもそうなのかとしか思わなかった。
自由を得た時に、そして伸ばした手を握り返してくれる下賤な手を得た時くらいだ、喜びを露わにしたのは。ああ、これでやっと私はあの画集の大いなる光を抱くような天の御使いになれると。
遍く全てを抱き、愛し、慈しむような宗教画にも似た……。
「さぁ、これでもうここには未練はありません。私と、私の愛しい方々の国を、世界を作りましょう」
妖艶に微笑みその一室から退く彼女をもう誰にも止める事はできない。画集の取れかかった表紙から覗く緻密に描かれた聖女画が一瞬キラリと陽の光を照り返した。