第1話
暗闇の中から、ジリリリリンと耳に刺さる音が飛び込んでくる。
「…さっむ」
パジャマは長袖なのにも関わらず、冷気は完全に遮断されていなかったようだ。
「うっわ…またかよ」
ベッドの下で瓦礫のように積もった毛布を引き上げ、のんびりと畳む。
見ると、目覚まし時計の針は10時を指していた。
「遅刻か」
少年は至極冷静な様子でリビングに向かった。
ぼさぼさの髪を掻き分けながら母に挨拶をした。
「おはよう」
テーブルには、寂しそうに置かれた食パンが1枚。
「あら亮、起きてたのね」
母は既に食後の紅茶を嗜んでいる。
「うん。また遅刻だけど」
「急いで行くのよ」
「わかった」
この家庭の平日の朝は大抵こんな感じである。
母は絶対に亮を責めない。
それは亮に対する優しさなのか、呆れなのかは誰も分からない。
とにかく亮は学校に行くことにした。
食パンをよく噛んで食べてから牛乳を静かに飲み干し、学ランに着替える。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
結局、学校に着いた頃には正午などとうに過ぎていた。
昼休みだったらしく、校舎中が騒音に包まれていた。
亮は朝島高校の1年生である。この高校はいわゆる進学校という類いのもので、卒業後も学問の道に進む生徒が多い。
「1年2組」という教室の扉を静かに開け、自分の席に向かった。
「おー!庭崎じゃねーか!」
「相変わらずの社長出勤だな~!」
飛びかかる野次はさほど気にせず、
「ちょっと来るのが遅かっただけさ」
と呟いてすぐさま教室から出ていった。
亮は階段の踊り場から、真昼の街中の景色を、いかにも黄昏ているかのように眺めている。
何もやる気が起きない。
亮は非常に人間関係が閉塞的であるため、刺激し合う仲間もいないのだ。
「りょーくん!」
そんな中、可愛らしい声色の呼び声が亮を呼んだ。
振り返るとそこには、陽だまりのように暖かい雰囲気を放つ少女が立っていた。
「あ、五十嵐さん」
彼女は亮の横にそっと近付きながら返した。
「やだなぁ、彩夏で良いのに…だったら私も庭崎くんって呼ばないと、何だか私が勝手に圧迫してるみたいじゃん」
彩夏は頬を膨らませ、彼女なりの反抗の態度を示している。
「い…いや、五十嵐さんみたいなクラスの人気者に、僕みたいなのが馴れ馴れしくするなんて無理だから」
亮は、彩夏が至近距離にいながらも必死に目をそらそうとするが、彩夏の前では一切の効力を持たない。
「そんな事言わないでよ、私、ただ亮くんと仲良くなりたいだけなのに」
彩夏の顔に悲壮感が溢れるのを見るのが耐えられなくなって、とうとう、
「その態度が辛いんだよ…!」
「えっ」
捨て台詞を吐いて逃げだしてしまった。
そのあと、亮にとって突飛した事は特になかった。
授業の内容は相変わらず分からず仕舞いで、帰るときも一人だった。写真部もサボった。
放課後は夜になるまで街をひたすら練り歩く。
18時を回った頃、歩き疲れたのでファストフード店に立ち寄った。
ポテトを注文し、食べながら無心に外の景色を眺める。
溢れんばかりの人、人、人。
亮には、これほどの人間が街を出歩く理由がいささか分からなかった。
まあ、自分も気づいたら歩いているのだが。
そのあとの事は特に覚えていない。
家に着いたのは20時頃だった。
「ただいま」
「おかえりなさい、お疲れ様」
扉を開けた瞬間、亮の嗅覚が刺激された。
「今日、カレー?」
「よくわかったわね」
「やっぱり」
「早く手を洗ってきなさい」
「うん」
手を洗い、自分の部屋に戻って部屋着に着替えてからリビングに戻る。
テーブルには既にカレーが置かれていた。
「じゃ、食べましょ。いただきます」
「いただきます」
カレーは文句なしの辛さとうまさなのだが、それでも退屈で亮はテレビをつけた。
ゴールデンタイムでバラエティーがあっているのかと思っていたのは間違いで、画面では臨時ニュースが慌ただしく報じられていた。
“16歳少年 四肢を取られ死亡”
物騒にも程がある見出しである。
「…何だよコレ」
「食欲失せちゃうわこんなの」
アナウンサーが何かを訴えかけるような声が途切れ、ミュージシャンの楽しげな歌声がその後をついだ。
その夜の亮の睡眠は最悪だった。
スマホのバイブが彩夏の重いまぶたを開けた。
寝ていたのはベッドの上ではなく、勉強机の上。
スマホが示す時刻は朝の6時。
「…嘘、朝来るの早すぎ…」
眠気と戦いながら無理矢理体を動かす。
ドライヤーで寝癖を直し、ゴムを使ってそれらをまとめ、パジャマからセーラー服に着替えて、急いで台所に向かう。
「今日の朝ごはんどうしよ…もう軽くでいっか」
卵を割ってフライパンに落とし、焼けたらそのまま皿に移して平らげる。
「はぁ…懲りないなー…、私。」
皿を一瞬のうちに洗い終えたあと、バッグを軽々しく持ち上げて勢いよく玄関から飛び出した。
彩夏のクラス、朝島高校1年2組にはとんでもない遅刻魔がいる。
名前は庭崎亮。
毎朝そうだ。昼休みにのこのこと学校にやってきては、授業も適当に受けて、部活にも行かず帰っていく。彩夏にはそんなマイペースな彼の生活が羨ましくてたまらない。
よっぽど朝の用意の手際が悪いのだろうか?
そうだ、それを話題にして今日は話しかけてみよう。
「五十嵐、聞いているのか?」
「え、あ、はい!」
そういえばホームルームの途中だった。
昼休みと共に亮は登校してきた。
来るやいなや、いつものごとく野次を飛ばされている。
「全く懲りねぇよな、お前」
「改善する気あるのかよ」
亮はいかなる場合も冷たい反応を示す。
「お前らこそその態度を改善しなよ」
こうなると逆に誰も近寄れなくなる。
彼はいつも踊り場にいる。
外の景色を眺めている時の彼は、楽しんでいるのか退屈に感じているのか分からない。
「りょーくん!」
いつものように優しい感じのつもりで声をかけてみる。
「五十嵐さん」
本当に誰に対しても冷たいのは変わらない。
「…ねぇ、亮くんってどうしていつも遅刻するの?」
「え」
失敗した。あまりにも直球過ぎる。戸惑うのも当然だ。
「あ、あのね、特に深い意味とかないよ。ただ…その…興味本位っていうか…」
亮は不審な目をしつつ答えた。
「それが分かれば苦労しないさ。いっつも起きるのが10時ぐらいになるんだよ、昨日は特に眠れなかったし…」
「どうして?」
「それは言えない」
「気になるなぁ」
「五十嵐さんが知ってどうするんだよ」
「ただの興味本位だってば」
「興味本位だからって何でも聞いていいとは限らないだろ!」
亮はすぐさま自分の口を押さえたが、彩夏の目は丸くなって戻らない。
「…ごめんなさい」
彩夏は静かにその場を離れていった。
「…ハァ」
亮は自分に呆れていた。
帰りのホームルームが終わり、亮は淡々と荷物を整理して教室から出ていこうとした。
「まって!」
彩夏の声だ。
「…何?」
彩夏は終始落ち着かない様子だった。体がほとんど静止していない。
「あ、えっと…さっきは本当にごめんなさい」
これは亮にとってもチャンスだった。
「…気にしてねーよ」
彩夏の目が根底から澄み渡っていくのを感じた。
「本当に?ありがとう!あとさ、今日、よかったら一緒に帰らない?」
「一緒に?」
「うん、道順なら亮くんに合わせるよ」
「ついてきても退屈だと思うぜ」
「亮くんが隣にいてくれさえすれば良いの!…ほら、昨日、殺人事件あったし、一人じゃ不安だな…って」
亮は嫌味を言われた気分になった。
「…五十嵐さん、本当に反省してる?」
「勿論してるってば!」
亮には、彩夏が突然勢いよく返してくる訳が分からなかった。
「…そう、まあ、いいよ」
「やった!」
彩夏はガッツポーズをして飛び上がった。
彼女の声量の影響か、このやりとりはクラス中の視線を集めていた。
閲覧ありがとうございました、木の枝です
今のところは大した衝撃もなく退屈だとは思いますが、必ず完結させてみせるので宜しくお願いします。