プロローグ2『美少女からの告白』
俺は、思い切って扉を前に押すと、ギーっと音を立てて扉が開く。長年手入れをしていないのか、耳に残る嫌な音だった。
外の空気は、とても澄んでいた。それを全身で感じ、自分が今までいた室内の雰囲気の悪さに、思わず身の毛立った。
俺は、屋上に足を踏み入れて、きょろきょろと回りを見渡す。
屋上のフロアは、長方形の形をしていた。その四角い形に合わせて、周りにはフェンスが取り付けられている。
特に俺の目を引いたのが、屋上のちょうど真ん中に立っている大きな時計台。その時計台だけが、俺に存在感をアピールしてくる。それ以外には目新しいものは何もなかった。
そんな空間を、生まれて初めて直接見る俺。
俺はガキのように興奮するでもなく、屋上って意外にも何もない場所なんだ、と感想を淡々と漏らしていた。
学校の屋上に一度は来てみたいと思っていたけど、中学校の屋上は鍵が厳重に閉められていて入ることができずに終わり。はたまた高校では、屋上に行こうとすら思わなかった。
きっと、今朝見つけた、屋上に来てくれという手紙がなければ、俺は中学・高校生活で屋上を知らずに大人になっていたことだろう。
だから、俺をこの屋上に連れてきてくれたどこかの誰かさん。彼だか彼女はまだわからないけど、そこは感謝をするべきかもしれないな、と一人で考える。
だけど納得がいかないことが一つあるとすればそれは。
「ってその俺を呼び出した人がどこにもいないんですけどー!」と俺は心の中で絶叫する。
もしかして、あの手紙は俺をおちょくるための罠? いやいやいやと俺は首をぶるぶると左右に振る。
手紙の差出人の文字の誠実さを目の当たりにしておきながら、罠とか失礼すぎたよごめん。もちろんたった一文から、そんなもの読み取れるわけがないことは棚に上げておいてだ。
うーん、と首をひねりながら俺は考える。
やはりこれは、相互の認識の不一致というやつではないだろうか。俺は、短すぎて、すでに暗記してしまった、手紙の内容を胸の内でそっと反復をする。
【放課後、学校の屋上に来て頂けますか】
【放課後、学校の屋上に来て頂けますか】
【放課後、学校の屋上に来て頂けますか】
心の中で呪文のように三回唱えてみても、この文に対する不信感はむしろ、みるみる増えるばかりだ。
その不可解な正体。それは多分、大ざっぱさ。
この一文から読みとれというものは、やっぱりとても難しいことだった。
「わかるわけないだろー!」と俺は再び心の中で絶叫する。
何時からをもって、放課後になるのか。
最後の授業後のクラス学活が終わってからで合っていたよな、と俺は自問自答。
俺は、今の時刻を確認しようと、時計台の正面に取り付けられている大きな時計を横目で見た。
時計の針は、1と11を指していた。
つまり現在の時刻、13時55分。
帰りの学活が終わったのが、確か12時くらいで。だから俺は、放課後に会おうとするとなると、このくらいの時刻がベストだなと感じたんだけど。
いかんせん俺のとらえ方であるわけで、どこかの誰かさんは全く時間を想定していたのかもしれない。
相手は、授業終わりすぐの12時くらいを指していたとか。そして、俺が来ないことにシビレを切らしてあきらめて帰ってしまったのかもしれない。
もし本当にそうであり、俺が相手に怒られるものなら、理不尽すぎるのだが。
うん。その可能性は排除だ。そんなことはありえないことを信じよう。
そもそも、放課後という何ともおおざっぱなくくりの中で、顔も名前も知らない二人が、会おうとする行為そのものに無理があるのだ。
でもこういうのものは、呼び出した側がずっと待つべきものと考えるのは俺だけだろうか。まだ授業が終わり、二時間足らずしか経っていないのだし。
いや待てよ、と俺は、別の解決の糸口を見つける。
差出人の中では、会おうとしていたのが今日じゃなくて、明日だったりするのかも。
なんせこの手紙、日時が不明だもの。
それは考えすぎだろうと、俺はその可能性も切り捨てる。
本当は、そんなこと考えたくなかっただけだけなんだが。
「ふぅー」
もう考えるだけ無駄な気がする。
この手紙は、誰かのいたずらだったと考えるのが、一番自然でしっくりくる。
きっとこれはその手のものなのだ。
だからといって、可能性が大きいことを見て出した推測でしかない。誰かが俺と会って話をしようとしている可能性だってまだまだ捨てたもんじゃない。
だが、誰かが俺を呼び出したことが本当であっても、ここに誰もいないことが真実。
俺は、放課後に屋上に来たしやる最低限のことはしたつもりだ。得体のしれない手紙だけを見て、放課後一人で教室に残り、この屋上まで足を運んだんだ。むしろ、充分すぎるほど良くやったよと、自分を褒めてあげたい。
でも、自画自賛なんてこれっぽっちも嬉しくなかった。
あくまで、他人からすごいねと評価されることが嬉しいことであって、ましてやこの状況での自賛などただただ虚しくなるだけだ。本当に。
そう考えていると、俺は何やってんだろうという気持ちになってくる。
お昼を食べずに、二時間くらい時間を潰して、結果誰もいなかったはさすがに、心に突き刺さるものがあった。
結果が全てを物語る。
誰もいなかったという結果を受け入れよう。
どこかの誰かさんに対する憤りや、呆れは不思議ななかったくらいにわいてこなかった。
そんな俺に生まれた感情を、一言で表そうとすれば、それは”安心”だろうか。
俺は事実を受け入れたことで、俺は肩の力が抜けていく気がしていた。
それが自分でもわかるくらいに、俺はガチガチに緊張をしていたらしかった。
だけど、こんなにも緊張していたこと。誰もいない屋上を目の当たりにして、どうしてかこんなにもホッとしていること。
その二つが、どうしてもわからなかった。わからないからこそ、俺の中でぐるぐると渦巻き続ける。
そんな俺のすぐ横を、強い風が吹き抜けていった。風が俺に、何も考えるなと言っているようで、妙に心地よかった。
それが、俺に当たり前のことを気づかせてくれる。
そうだと俺はやっと気がついた気になる。ここは屋上だったのだ。
俺は、屋上の端っこに移動する。もちろん景色を展望するためだ。
俺は、外枠のフェンスを手で掴み、街の風景を観ようとフェンスの間から顔を覗かせた。
その景色に、俺は思わず息を呑み、見惚れてしまう。
空はまるで青の絵の具をたっぷりの水に溶かしたように淡く済んでいた。
その青色に負けるもんかと、たくさんの桜色が川に沿って、視界のずーっと向こうまで色づいている。 時折風が吹こうものならば、これまたたくさんの桜の花びらが空高く吹き荒れ、雪のように世界を白く染めていく。
川にかかる橋も、住宅街の屋根も、道路を走るバイクに乗った人も。街にある全てが、この桜色の前では輝いていく。
それはまるで、絵に描いたような春のワンシーンだった。
美しさ。色彩。華やかさ。優美さ。壮大さ。素晴らしさ。光の輝き。世界の輝き。
そんな言葉がお似合いの、春だからこそ現れる最高のワンショット。
それは、この世界に生きていることへの幸せを感じられる場面。
だというのに、俺はどうしても素直に喜べない。
美しい世界を実感するからこそ、世界にはまだまだ綺麗なものがいっぱい詰まっていると認めるからこそ、俺は―――胸が張り裂けそうなほど、悲しくなる。
そう自分が感じるごとに、自分自身が情けなくなってさらに打ちのめされていく。
だから俺は―――
「素敵な景色だよね」
「っ!」
何の前触れもなく俺に、何者からか声をかけられる。瞬間、俺の脳味噌は働くことよりも前に、防衛本能を働かせた。
咄嗟の事態に、声にならない悲鳴をあげて、ビクビクと体を強張らせながら身構える俺。
多少警戒をしつつ、俺は声の生まれた方向に、顔を向けた。
そこにいたのは、お化け。ではなく、一人の女の子の姿だった。
少しでも情報を求めるように、目まぐるしく動いた眼球が、失礼にも彼女を眺めまわしていく。
真っ先に目を惹かれるのは、そのミルクベージュのロングヘアーだ。それが日差しを受けて、きらきらと輝いている。町はずれの美容院で雑に染めたような色ではなく、正真正銘の地毛を彷彿させる、艶やかで健康的な亜麻色髪。
顔立ちはとても整っており、パッチリと大きな目などの、各個のパーツからは不思議とあどけなさも感じられる。
そして、俺と同じ鈴鐘学園の制服と、二年生特定の、赤色のリボンを身に纏った姿。
まさに、これぞ美少女と呼ぶべき存在が、俺の前に立っていた。
確か彼女、さっき見かけた気がする。新しいクラス、「2年A組」で。
ああ、と俺は納得する。今日からの新しいクラスメイトじゃないか。
でも俺には、名前がわからなかった。
「……?」
思わず、身構えたまま彼女を眺め想像にふけっていると、彼女は小首を傾げて不思議そうに俺を見てきた。
すると彼女は、何やら納得したような表情をし、ワタワタと慌てながら、俺に謝罪を述べてきた。
「すいません。急に声を掛けてしまって。驚かれましたよね」
「あ、いや。大丈夫でした」
彼女が本当に申し訳なさそうに謝ってくるので、俺は反射的にそう答える。
なんか妙にこちらも申し訳なくなってきた。
でも、実際本当に驚いた。
ドアの開く音もしなかったし、屋上には誰も見当たらなかったはずなんだが。
だから俺は、素直にこの疑問を口にしてみる。
「えっと、屋上にいました?」
「あ……。そうですよね。私、この時計塔の上にいたんです」
彼女は、屋上にある時計を指さしながら、恥ずかしそうに言う。
「時計台!?」
「恥ずかしながら。ここの時計台、外側に取り付けられている梯子を使いまして、上へと上れますのよ」
「本当だ。一応あるにはあるな」
でも、梯子を手でつたって上ろうとする人間がどれほどいるだろうか。彼女、案外子供っぽいなと、俺は苦笑いをする。
「上からは、遠くまで街を見ることができて、ましてや今日なんて。上る価値はありです」
なんか嬉しそうに話す彼女。
「でも高いからすげー怖そうだよな」
「確かに高いですけど、それに見合う価値はありますよ。でも、さっき損しちゃった気分だったのですがね」
「?」
「えっと、あなたがドアを開けて屋上にやって来てくれたことは気がついたのですが。いざ時計台の上から下りようとしたら、怖くて足がすくんでしまいまして。あなたに助けてもらいたかったくらいだったのですが、そんな私の姿を見せるのはもっと嫌で」
「ははっ……」
「え?」
「ふははははは」
気がつくと俺は、すごく楽しそうに笑っていた。
真面目そうな彼女がそんななのが、あまりにも可笑しくて。面白くて。
流石に初対面の相手にに失礼だとは思ったけど、あまりにも彼女が魅力的過ぎた。
「もう。笑わないでよ。恥ずかしくなるし」
流石に自分のことをせせら笑われるのは嫌なのか、彼女はちっぽけな抗議をする。
俺の笑いによってリラックスしてくれたのか、彼女の言葉から丁寧さが抜けていた。こっちが普段使っている言葉づかいなのだろうか。
やがて、彼女も実に楽しそうに口を開く。
「ふふっ…………」
「ははは」
俺につられて笑ってくれたのか。それが嬉しくて、俺はもっと楽しそうに笑う。
澄んだ空気に二人の笑い声がこだましていた。
からしき笑いあった後、俺は、ブレザーから例の手紙を取り出し、彼女に見せる。
「あっ」
「この手紙は君が俺に?」
「その通りです」
こくこくと首肯する彼女。
「やっぱり君だったか」
「本当に来てもらえるとは、正直思っていませんでした」
俺もこんなにもアバウトな内容で、屋上に来たことが信じられないよ。でも今は、とりあえず喜ぶべきだろう。
誰もいないでもなく、怖い不良がいたでもなく、可愛い女の子が俺を待っていてくれたのだから。
でも、誰かわからないんだよな。
「えっと、名前。俺、君の名前知らないや」
そう口にした俺に対して、手を口に当てて驚いたように、「盲点でした」とつぶやく彼女。
本気で忘れていたみたいだった。
でもやっぱり、知らない相手とは自己紹介をするべきだろう。
「俺は、今日から二年A組になった、柊朱希です。ええっと、初めまして」
俺の簡単な自己紹介を聞き、笑顔で彼女も応じる。
「私は、鈴鐘学園二年A組の、矢桜小春と言います。よろしくね、朱希君」
「いきなり下の名前……」
俺の指摘に、あわあわとせわしなくなく手を動かす彼女。
「ごめんなさい。いきなり下の名前とか私って馬鹿よね。ええ。」
「いや、俺は構わないんだけど」
「いやいやいや、私が恥ずかしい。……よろしくね、柊君。」
「まあ、俺のことは好きに呼んでくれ。それにしても、俺たち、今日から同じクラスになったのか」
あ、だからよろしくねなんだ、と一人俺は納得する。
それにしてもこの状況。初対面の男子と女子が屋上で、二人っきり。
俺は彼女の顔を見ながら、この状況の異常さを改めて再確認する。
そう認識すると、俺も緊張していくようだった。
でも、彼女は明らかに俺よりも緊張をしているよな。
すーはーすーはー、胸に手を当てて小さく深呼吸する彼女。
すると彼女は、何かを決心したような顔を俺に見せてきて、俺の名前を呼ぶ。
「あ! 朱希君!!」
「は、はい!」
そんな彼女のただならぬ気迫に、反射的に返事をしてしまう。多分、俺をここに連れてきた本当の理由がわかるな、と俺は直感していた。
「私と。私、矢桜小春と、付き合って下さい!」
屋上の空間に彼女の声が凛と響き渡る。
俺と彼女の前を、桜の花びらが過ぎて去っていった。
俺はあまりの不意打ちに、ハッと息を詰まらす。
告白。
俺の前には、恋人になるために必ず通らなくてはいけない場面が、大きく立っていた。
この子からの要件は、告白なのかもしれないとぼんやりと考えて、俺はこの場面を想定していたとはいえ、とてもとても驚いていた。
その驚きが、自分の中で次第に気恥ずかしさに変っていく。
それでも、一番気まずいのは、告白をした相手からの返事を待つ相手だ。
誰かが、告白された側がみせられる誠意とは、返事がどうあれ、何かしらの言葉を相手に返すことだと言っていた気がする。
でも、俺は何の言葉も感動も生まれなかった。
何かしら女の子に返さなくてはと思えば思うほど、思考能力が低下していくようだ。
こんなとき、俺はどうすればいい。こんなとき、俺はどうするべきだ。
考えろ、考えろ、と俺は働かない脳を回転させる。
はい、と答えたら。俺はめでたくこの女の子と付き合うことになるだろう。
いいえ、と答えたら。女の子とは今後一切関わり合わなくなるだろうか。せめて、友達でいたいと願いたい。
もう少しだけ待ってほしいと、言葉を濁すか。これだけはやってはいけない気がする。
付き合う気もない人がそう口にして、一応考えますアピール。これだけは極悪だ。むしろ醜悪だ。
わからない。何を口にするべきかわからない。口の動かし方がわからない。わからないことがわからない。
ひたすら無を貫く俺。
そんな俺を目の前にして、どうしようもない気まずさにいたたまれなくなったのだろうか。
彼女はぽつぽつと、自分に言い聞かせる独り言みたいに、小さく語り始めた。
「初めて朱希君が気になり始めたのは、一年前の体育祭。私、一年の時は、朱希君とクラスが違くて、全然知らなかったんだけど。全員リレーで、風のように速く走っているのを近くで見て魅了されたの。なんてこの人は、かっこいいんだろうって。それからは、朱希君のことを目で追うようになったの。でも思っていたのとはかなり違くて。ギャップっていうのかな。クラスでの朱希君は、ひどく孤独で暗くて、クラスの輪を拒んで毎日を過ごしている感じがして」
俺は、彼女の言葉を拒むように、うつむいて話を聞いていた。
初めは真摯に聞くべきだと感じたから聞いていた。だが今は話が無理やり耳を通して頭に叩き込まれているという感覚だろうか。
彼女がはにかんだように笑っている。だけど俺はそれに、笑いかけることができなかった。
彼女を直視するのが怖い。
話に心を傾けて聞くのが怖い。
もう俺の話なんて、やめて欲しかった。
自分はもう大丈夫だと高を括っていたけど、やっぱり俺には告白なんてものは早かったのだ。
好きな想いは、こんなにも重たく俺に押しかかる。
そもそも告白されている俺は、告白して来てくれた女の子と真に向い合えていない。
だって、俺の脳裏に写っている女の子は、目の前の相手ではなくて、別の女の子であるのだから。
最低すぎるにも拍車がかかっている。
屋上の床の白いタイルを見つめ下を向く俺。
その俺を映している今の彼女の瞳は、何色なんだろうか。でもきっと、戸惑いや寂しさを浮かべ揺らしていることだろう。
実際のところどうなのか知ることはできないが、それでも彼女は淡々と話を紡ぎ続けた。
「この人は、何を思って生きているんだろうか。どうしてこんなにも自分という殻に閉じこもっているのか。それがわからないから、すごくもやもやして。それを知りたくて、朱希君をさらに目で追うようになっていって。気がつけば私は、君に」
―――やめろ! やめてくれ!
その先は言わないでほしかった。俺の心が、体が、これから告げられるだろう想いを、全力で拒否しようとする。
「朱希君、好きです」
「―――」
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
彼女の発する一語一句全てが不愉快だった。
本当だったら、美少女からの告白なんてされたら舞い上がるくらいに嬉しいはずなのに。俺はどうしても素直に喜べなかった。
逆に彼女の言葉にイライラしてきていた。
好きという単語が俺の中で、何重にも膨れ上がっていく。
《好きです》
「―――!」
ドックン、と俺の心臓が力強く波打った。
彼女から告げられた、この世界で一番美しい言葉。それが、俺の記憶の片隅にしまい込んだ思い出を連れてくる。
忘れたいと願っていたけど、特別で大切な思い出だからこそ、忘れられるわけがなかった思い出。
俺の脳裏には、一人の女の子が映っていた。
夕暮れに彩られながら、泣きながら笑う女の子。
無力さが、空虚さが、世界の理不尽さが、俺の体に重く圧し掛かっていた。
しかし、否定しようとすればするほど絡みついてきていたそれが、動かし難い事実であるのだと認めてしまいたくはない。そのぶんが上乗せされ、俺に強く纏わりついてくる。
苦しい。痛い。
心臓が熱を帯びたように熱く、燃えるような痛みと共に引き締められる。
好きという言葉。
他人に想いを伝える行為。
それは、こんなにも堪えるものだっただろうか。
異常に今、目の前の相手から出る言葉を恐れている俺は、狂っているのだろうか。
―――ああ そうか
やっとわかった。手紙を見てからずっと抱き続けていた心のつっかえの正体が。この屋上に行くための足が重かった理由が。
それは恐怖だった。
俺は、告白というものが怖くて怖くて仕方がなくて、自分でも知らぬ間に、誰かに好意を向けられる未来に身が竦んでいたのだ。
「好きなんです」
好きという言葉は、世界で最も優しくて残酷だ。
「……どうして」
きつく歯を食い縛る俺の口から、怨念じみた声が漏れた。
心の中の防波堤が、押し寄せる波に決壊する。
後は、堪え切れない鬱屈とした感情が炸裂し、それがそのまま舌に乗って吐き出されるだけだった。
「どうして、そんなこと言うんだよ。俺が好き? 笑わせるな! 人をそんなにも簡単に好きになれるわけないだろうが! よくもまあ、そんなに軽く”好き”と言えるよなぁ。全然違う。全然違うんだ。人を好きになるっていうのはそういうことじゃない! もっと、こう……」
冗談じゃない。彼女は俺のことが好き? 俺をずっと見ていた?
あっさりと、感情に従って好意を伝えることは、気持ちをため込まず両手を空にして走り出すのはさぞ気楽なことだろう。
そんな馬鹿な話が、あるものか。あっていいはずがないんだ。
「伝える側は気楽でいいよな。俺は苦痛で仕方がない」
俺は何を言っているのだろう。自分でも自分が信じられない。
剥がれ落ちていく、俺の顔が。崩れ落ちていく、俺の心が。
やっぱり俺の本性はねじれたように腐りきっている。
その醜悪が、薄っぺらな殻を破って溢れ出してくる。
これじゃあ、やつ当たりにもほどがある。考えうるべき最低の最悪の醜さ。
少なくとも初対面の相手に、ましてや俺を好きになって想いを告げて来てくれた人にかけるべき言葉ではなかった。
我ながらへどが出る人間性だ。
「―――!」
俺の言葉に、戸惑いを瞳に宿す彼女。
彼女は俺の変わりように驚いたように身を竦めている。
きっと彼女は何が何だかわからないだろう。はいでもいいえでも、ましてや考えさせて下さいでもなんでもない。彼女の想い踏みにじる言葉。5分前が天国だとしたら、ここは地獄だろう。
「どうしろっていうんだよ! 何をしろっていうんだよ! 俺は、この想いにどう向き合えばいいんだ!」
彼女に向い、怒声を張り上げる俺。
まったく彼女との向い方がわからなかった。
俺は誰も好きになれない。この街も、この世界も、俺自身も。
何もかもうまくいかない現状が嫌いになって、理不尽な世界を大嫌いになっていった。
いつから自分は世界を憎むようになったのだろう。それすらもわからない。いや、わかろうとしない。
なんの価値すらない俺。そんな俺の心の底にこびりついていた、薄汚い醜態をさらし、彼女には嫌われたと確信していた。相手の心を深くえぐりとり、気持ちを無下にした。傷つけた。
できることなら、強く俺を罵ってほしい。なんて最低だと。人間のクズだったんですねと。
それが、俺にとっての罰なのだ。だから、きつく俺を非難してくれ。
俺の醜悪ともいえる激情を、真っ向面からその身に受けた亜麻色髪の少女はとうとう唇を開く。
「…………どうして?」
決意を無碍にされ、覚悟を笑い飛ばされ、行いを悪辣に遮られた彼女。
心ない俺の言葉で、悲痛で表情をこわばらせる彼女。
だが、彼女の瞳は、曇ることを知らないみたいに綺麗に澄んでいた。
その怪しげな輝きに支配される世界に、俺が―――即ち、彼女を見つめる俺の姿が映し出されている。
「……どうして朱希君は、そんなに悲しそうに泣いているの?」
俺の逆上に怒るでも、泣くでもなく、そう俺に問うてくる彼女。
その彼女の瞳の中の俺は、ただただ悲しそうに泣いていた。