最後のお客様
昨夜丁寧にペンで書いた退職届を、僕は朝いちばんに直属の上司である課長に提出した。
「あ、そう」
満を持してデスクの前に立った僕を見もしないで、白い封筒の表書きに目を落とし、課長は一言だけそう言った。
そして、おもむろにデスクの一番上の引き出しにをシャッと音を立てて開き、封筒をぽんとその中に入れてしまうと、何もなかったかのように机上のパソコンのキーボードをたたき始めた。
引き止められようとは思わなかったし、うわべだけでも労いの言葉をあの人から引き出せるとも期待していなかったが、あまりに無関心な対応に、少なからず僕は傷ついた。
その日一日、課長が周囲に言いふらしたはずもないのに、僕はまるで敗残者がお情けでその場に席を設けさせてもらっているような後ろめたさを胸に、上の空で仕事をこなした。
この状態が、あと一か月続くのか。
そう思うと、苦いものが何度も胸の奥からにじみ出て、それを生唾と一緒に飲み込むので僕はすっかり体力を消耗してしまっていた。
五時ぴったりにタイムカードを押すと、逃げるようにオフィスを後にした。
駅前のバスターミナルを通りかかったとき、ドアが開いているバスが目に入った。
そして僕は何故か何も考えずにふらふらと、そのバスに乗り込んでいた。
行く当てなどなかった。バスがどこに向かうのか確認もしていなかった。
それで、そのバスが山の上のどんづまりの、遊園地の入り口で録音のアナウンスが
「終点、裏野ドリームランド前。お忘れ物のないよう、お手荷物のご確認をお願いいたします」
と告げた時、僕は、自分はなんでこんなところにいるんだろうと途方に暮れていた。
でも、とりあえず降りるしかなかった。
入り口に目をやると、閉園まであと30分ほどしかなかった。
「お客様、まもなく閉園ですが、よろしいですか?」
少し怪訝そうな顔で、チケット売り場のおばちゃんが僕を見上げた。
「はい、大丈夫です」
もう何年も足を踏み入れていない遊園地で、子供時代を思い出しながらぶらぶらするのも、こういう気分の時にはいいかと思い、僕はうなづいた。
ゲートをくぐると、人気もまばらな広場の噴水が、ピンクやブルーの安っぽい造花に彩られていた。
「まだ30分あるじゃない」
すれ違ったカップルの女の子が少し不服そうに彼氏につぶやくのが聞こえた。
「ダメダメ、最後のお客さんになっちゃうよ」
「そっか、それもどんくさいね」
どんくさい、か。僕は肩をすくめてため息をついた。
目的のアトラクションなどないまま、園内をぶらぶらする。
夕暮れの柔らかな光が少しずつ辺りをうすぼんやりとさせ、一日の終息に向かってカウントダウンを始めている。
「ほらほら、最後のお客さんになる前に帰るわよ」
今度は親子連れが、まだ乗りたい、と駄々をこねる幼稚園児ぐらいの男の子の手を引っ張って出口に向かっていた。
最後のお客さんって、そんなに嫌なものかな。
改めてそんな疑問が沸き起こる。
確かに、がらがらの遊園地は寂しいものだし、並んだ末にようやくお目当ての乗り物に乗るのも遊園地の醍醐味の一つだ。
この遊園地に来るのは初めてだったが、どことなくさびれた感じがするのは、閉園時間間近だからだろうか。
華やかな夢の世界が終わっていくのを目撃するのは、確かに興ざめだ。
こういうところは、賑やかなうちに去るに限る。
気が付くと、観覧車の前に僕は立っていた。
入り口のボックスの中には、やせて眼鏡をかけた、薄くなった白髪頭のおじいさんが座って、裸電球をともした下で新聞を広げていた。
「あのう・・・」
僕は遠慮がちに声をかけた。
「はい、乗るの?」
「え、は、はい」
ちょうど若い女の子が三人、きゃいきゃい言いながら降りてきたところだった。
「あんた、最後のお客さんだけどいい?」
おじいさんは手元の時計に目をやって、ちょっと眉をひそめてそう言った。
「あ、いいです」
入り口で三回分のチケット付きの入場券を買っていたが、時間も時間だし、一枚しか使えなくても仕方がない。
入場券を渡すとおじいさんはチケットをもぎって、残りを僕に返した。
ふと気が付くと、さっき下りた女の子たちが立ち止って僕を見ていた。
女子大生ぐらいだろうか、まだ化粧もろくにしていない、ついこの間まで制服を着ていたような感じの子たちだった。
好奇心のこもったまなざしに、いくぶん哀れみが混ざっていたような気がするのは、僕のひがみだろうか。
僕は彼女たちを無視して、さっさと観覧車に乗り込んだ。
おじいさんがドアを閉めると、観覧車はゆっくり上昇していった。
そうだよな。こんな時間に、中年の男が一人で観覧車に乗るなんて、うわって感じだよな。
僕は心の中で彼女らに毒づいた。
中年か。自分で思っておいてなんだけど、僕はまだ27歳だ。大学を卒業して5年しかたっていない。
それなのに、就職難を乗り越えて入社した中堅のIT関連会社で、思うような業績を上げられず、気付くと同期が隣の部署の係長になっていた。
僕の辞表をめんどくさそうに机の引き出しに放り込んだあの課長だって、僕と二歳しか違いやしない。
観覧車が上昇するにしたがって、僕の視界はぐんぐん高くなっていく。歩いている人たちが、小さく、黒い頭しか見えない。
夕焼けに染まった赤い空が、遠くの山々のシルエットを黒くくっきりと浮かび上がらせていた。
あと一か月、長いな。
鉛の球のように重たい気分が、再び沸き起こってきた。
明日から、退職までの一か月、僕はあそこで負け犬のレッテルを貼られて過ごすんだ。
同期はもちろん、後輩の女の子達にまで気遣われ、理由や今後のことを詮索され、直接聞いてくる奴もいれば、あることないこと噂する奴もいるんだろう。
そしてみんな、かすかな優越感を抱きながら僕を見てこう思うんだ。
「こうなるのは目に見えてたよな」「俺はこいつみたいにはならない」「私はまだがんばれるもんね」「ここまで持っただけ、偉い、偉い」・・・・
気づけば、僕は観覧車の頂上にいた。見上げると、透き通ったゴンドラの天井から、一番星が瞬いていた。辺りはすっかり日没の闇に包まれていた。
ああ、いいな。てっぺんで一番星。
子供のように純粋な気持ちがわいてきた。
僕は、何を卑屈になっていたんだろう。
あと一か月たったら、僕は自由を手に入れるんだ。
就職してから、プレッシャーと失望と、自分へのわざとらしい鼓舞激励にまみれた日々を送る中、ずっと心に思い描いていた、自由な時間。
これから、やろうと思えばなんだってできる。
いったんレールから外れてしまえば、もう怖いものなんて何もないはずだ。
これまでの五年間から解放されるなら、どんな仕事だってがんばれるさ。
僕はすっかりいい気分になって、観覧車は下に降りてきた。
おじいさんがボックスの中で居眠りをしているのが見える。
おいおい、ちゃんと降ろしてくれよ。そう思いながら僕は腰を浮かした。
だが、おじいさんは居眠りをしたまま。よく見たら顎を上に向けてぽかんと口まで開けている。
僕はあきれて、自力で下りようとした。
だが、観覧車のドアは開かなかった。
ロックなんて、していないはずだ。内側からだって開けられるはずなのに。
「ちょっと!開けてくださいよ!」
僕はドアをたたいたが、観覧車は再び上昇を始めた。
ちぇっ、しょうがないなあ。まあいいか。もう一度あのてっぺん気分を味わえるんだ。
そうそう、チケットもまだ二枚残ってるんだし。
僕はそう思うことにして、再び席にゆったりと座った。
会社から電車で二駅のワンルームマンションに住み始めて、もうすぐ三年がたつ。
この町に来たのは、大学を卒業して二年目の秋。自宅から二時間近くかけて通勤するのは大変だったし、いい加減、親から独立したかったからだ。
こんな遊園地があるなんて、今日初めて知った。
そういえば、通勤途中、川を渡るときに、山の上に小さく観覧車が見えたっけ。それがここなんだろう。
会社と家との往復だけの日々。初めのうちこそ休みの日には友達と会って遊びに出かけたりしていたが、いつの間にか億劫になって、家でゴロゴロして過ごすようになった。
そうすると、会社であった嫌なことや心配なことが休みの日にまとめて思い出され、リフレッシュどころかますます思い悩み、暗い気分が募っていった。
これじゃいけない、と自己啓発セミナーやプラスアルファの資格を取るビデオ教材などにチャレンジしてみたが、一向に成果は上がらなかった。
観覧車は再び頂上に向かっていった。
そうだ、頂上だ。なに、人それぞれ頂上は違うのさ。僕は僕の頂上を目指せばいい。
見上げると、星はさらにいくつも増えていた。
さて、気分がリフレッシュしたところで、今度こそ降りるぞ。僕は身構えた。
おじいさんのボックスが目に入ると、ドアをたたいて叫んだ。
「ちょっと!開けてくださいよ!もう二周しちゃいましたよ!そっちの責任ですからね!」
ゴンドラがコンクリートすれすれまで来た。今下りないと、また上昇してしまう。
「おい、開けてくれよ!何やってんだよ!」
僕は何度もドアをたたき、開けようと努力し、ついには体当たりまでしたが、ドアはびくともしない。こんな観覧車ってあるか。
ついに、三周目に突入した。
僕はいい加減いらついていた。あのおじいさん、職務怠慢もいいとこだ。
きっと、とっくに定年退職して、小遣い稼ぎのためにシルバー人材センターとかから来ているに違いない。
仕事に対する責任感とか、お客さんを快適にもてなそうなんていう使命感とか、そんなもの全く持ち合わせていないんだ。
僕の乗ったゴンドラが半分ぐらい上がった時、遊園地のあちこちから蛍の光のオルゴール音が流れてきた。それと同時に、アナウンスが流れてきた。
「皆様、閉園時間となりました。本日を持ちまして、この裏野ドリームランドは閉園させていただきます。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました」
なんだよ、今日で終わりだって?
だからおじいさん、すっかり気を抜いちゃってるんだな。
僕はほんの一瞬、気分が和らぎ、おじいさんに親しみと共感を感じた。
きっと、一か月後の僕も、最後の日はデスクで居眠りしているかもな。
アナウンスの声は、野太い男の声だった。どうやら、この遊園地のオーナーか支配人らしい。
「この裏野ドリームランドは、開園より三十五年間、皆様とともにこの町で成長を続けてまいりました。
このような形で閉園に至ることは、わたくし共にとりまして誠に遺憾であり、断腸の思いであります」
なんだか、あいさつも愚痴交じりになってきたぞ。
どういう理由で閉園になるのかは知らないけれど、まあ、三十五年も続けてきたのだから、多少恨み節が交るのも仕方がないかもしれない。
アナウンスはさらに続いた。
「園内に残られました、最後のお客様方に申し上げます。
皆様におかれましては、その人生をわたくしどもの園に寄贈していただくという、
大変ありがたい選択をされたことに深く感謝いたします。
遊園地は、お客様あってこその存在です。お客様なしに、遊園地の存続はあり得ません。
皆様とともに、この裏野ドリームランドは永遠に生き続けます。
どうぞ、この裏野ドリームランドで永遠の休日をお楽しみください・・・」
何?なんだって?
僕はアナウンスの言っていることがよく理解できなかった。
人生を寄贈する?遊園地に?
観覧車は回り続ける。僕だけを乗せて。
下を見れば、あちこちに動き続けるアトラクションが見えた。
でも、客は?人は乗っているのだろうか。
そう、たぶん、どのアトラクションにも、一人だけ。
いけにえの客が。
吸血鬼が、生き血なしに生きられないように、
悪魔が、人の魂を食らわなければ存在できないように、
遊園地はお客様なしには存在できません・・・・。
「今すぐ、出せ!観覧車を止めろ!」
僕は必死にドアをたたき続けた。
「そんな選択、した覚えないぞ。たまたまだ、知らなかったんだ、何かの手違いだ!」
頭上に輝く星は、もう数えきれないほどだった。
照明が落ちた山の上の遊園地は、邪魔な光がない分、普段見えないほどのたくさんの星が生き返って、光を放っていた。
下を見て、暗がりの中目を凝らすと、ボックスから両手を高く上げて伸びをしたおじいさんが出てくるところだった。
長い退屈な務めから解放されて、明日からゆっくり過ごそう、と決めているような、幸福そうなリラックスした背中、軽々とした足取り。
「おい!おろせ!開けろ、じじい!!俺は最後の客なんかじゃない!!」
もう少しで、あのおじいさんみたいに解放される日が来るはずだった。
「お、お願いです。開けてください、下ろしてください・・・!」
一か月、針のむしろを我慢すればいいだけだった。
「誰か、開けて・・・!」
数年後。
「知ってる?裏野ドリームランドって」
「ああ、何年も前に廃園になったのに、全然解体されてないんだってな」
「夜中に、アトラクションが動いてるらしいよ」
「まさかぁ」
「お客さんがいるからだろ」
「お客さんって・・・誰が?」