2ー1
前の嫁さんと別れてゆみちと出会うまで、朝は一人で迎えることが日常だった。
付き合い始めてからはお互いの家に泊まるようになって、朝を二人で迎えることが幸せだと悟った。
完全に色を見失っていたこの世界で、再び色を感じることができるようになった。
最初は彼女が出演しているアニメのDVDを一人で鑑賞しているだけだった。
彼女が演じる役は元気が良くて、その台詞の多くは傷付いた俺の心を癒してくれた。
「いい声やなぁ」
漠然とだが、そんな事をいつも思っていた。
俺は『野間口 裕美香』という女性声優の大ファンだ。
アニメは全般的に好きだが、声優さんという職業の人の中では一番好きだ。
なので、彼女が出演する作品は必ず観ていたし、ラジオ番組も必ずチェックしていた。
そんな彼女がアーティストとして歌手デビューすることになった時には、他人事ながら自分の事のように大喜びした。
ソロデビューシングルの予約受付開始日に予約特典がある全ての店舗で予約した。その中の一つに
『限定トレカお渡し会参加抽選券』があったので、それも抽選申し込み開始日当日に申し込んだ。
そして運良く当選したが、その当日は日勤。当然ながら残業は辞退して定時に分駐所を飛び出した。
そのイベントで初めて『リアルゆみっち』を見たが、その可愛さに驚愕してしまい話したかったことが全て飛んでしまって頭の中が真っ白になった。
プライベートでは俺が「ゆみち」と呼ぶ『野間口 裕美香』が今、俺の腕の中で寝息を立てている。
遠距離恋愛なので以前は月に三、四日を一緒に過ごせた程度だったが、この半年程はほぼ毎週二日は我が家で過ごし、俺も休暇が取れたら東京のゆみちの実家に泊めてもらうので、共に過ごす時間はかなり増えた。
付き合い始めて三年目。この光景にも慣れはしたが、嬉しいと思う気持ちは変わっていない。
人からはなかなか理解してもらえない事だが、俺は恋人である『野間口 裕美香』と声優『野間口 裕美香』を別人格だと思っている。だからこそ『ゆみっち』という声優としての愛称とはちがう「ゆみち」という俺だけの愛称で呼ぶようにしている。
彼女の寝顔は俺以外の誰も知らないし、裸で乱れる姿も俺しか知らない。
冬はパジャマで寝るけれど、夏はタンクトップとパンツだけで寝てるという事実も、そのセクシーな姿も俺しか知らない。
そういう俺しか知らない姿を見せてくれているからこそ、プライベートの彼女は声優として仕事をしている時の彼女とは別人格と捉えている。
これもあまり知られていない事だが、彼女は着痩せして見える。実は隠れ巨乳だったりするのだ。
前の嫁さんは完全なつるぺただったので、俺自身はつるぺたの美学を生涯理解することは出来ないだろうが、だからと言って女性に求める最重要項目が『巨乳であること』と述べる男の気持ちも理解できない。
しかしながら、腕の中で眠る恋人の谷間につい目が行く。
大事なことなのでもう一度言うが、俺は巨乳が好きなわけではない。たまたま好きになった女性が巨乳だっただけのことだ。
俺の乏しいボキャブラリーでは「何度見ても美しい」としか比喩できないのが情けないのだが、その美しい曲線を眺めていたら、彼女が寝返りを打ち仰向けになる。
彼女のバストは重力に引っ張られ左右に流れるが、それでも尚、美しい曲線を形成するツンと上を向いた形や大きさは失われる事がない。
正直、この破壊力は半端無い。そのセクシーな寝姿も俺を挑発しているとしか思えない。
三十半ばを過ぎても俺だって健康的な男子なわけで、警察官とはいえ人の子だ。
こんな魅力的な光景を目の前にして冷静でいられるはずもない。
時刻は午前六時を過ぎたところだ。目覚ましが鳴るにはあと二時間ほどある。
気付けば彼女のピンクのタンクトップをずり上げ、目の前の綺麗なピンク色の先端にむしゃぶりついていた。
「んぁんっ!ど、どうしたの??」
「ん〜。我慢できん」
「え〜?昨夜もいっぱい愛してくれたのに?」
「昨夜は昨夜。今朝は今朝」
「もう…。仕方ないんやからぁ…」
彼女は甘い吐息混じりにそう言って俺の首に両腕を回し、情熱的なキスをしてくれた。
時間はたっぷりある。時間を掛けてお互いに心行くまで何度も求め合った。
「お義母さんのお迎えって、お昼前で大丈夫なん?」
「そうやな。十一時過ぎに先生と話すことになってるし、俺と親父が先生と話してる間に着替えやら荷物を纏めたりとか手伝ってやってくれるかな?」
「それだけでいいの?」
「それだけでお袋は十分に喜ぶと思うけど?」
彼女はだいぶ俺の関西弁が伝染したようで、たびたび関西弁まじりになる。ラジオでも無意識に関西弁が出てきているので、その都度注意するようにしている。
それはそうと、十日ほど前から入院していた俺の母が退院する。
普段はそれまでと変わりなく実家で父と暮らしているが、俺と彼女が付き合い始めた年の暮れに病に蝕まれている事が判明した。
病名は「癌」だ。
卵巣を原発とした癌で、摘出手術を受けた時には腹膜などにも転移していたために
「ステージⅣで余命は永くて二年と言ったところでしょう」
と、執刀した医者から言われた。
信じられなかった。
母の母、つまり俺の祖母は九十七歳まで生きた。その娘である母も当然長寿であると信じていたからだ。
母本人も
「私はあんたよりも長生きする気がするわ」
よくそう言って笑っていた。
その母が癌で余命宣告をされることになるなんて、今でも受け入れる事が出来ない。
手術後の抗がん剤治療はあまり上手く行かなかったので、早々に病院と治療方法を変えた。
抗がん剤の副作用で髪が抜け落ち、痩せ衰えて行く母を見ている事が出来なかった。
最初の主治医に相談しても
「苦しまずに旅立たせてあげる事を考えましょう」
と、効かない抗がん剤で散々母を苦しめた挙句に、効果が無かった時点で投げやりな態度に豹変したそのヤブ医者に不信感を抱いたのもある。
なので警察病院の知り合いのドクターに紹介してもらい、今の病院に変えた。
勧められた治療方法は「免疫療法」だった。
この治療法と薬は卵巣癌には健康保険適用外だったために、治療費はかなりの高額になった。
しかし、母が苦しむほどの副作用も無く、肺やリンパに転移していた癌細胞を小さくすることに成功した。
そのおかげで、母は宣告された余命を過ぎても生きてくれている。
俺のボーナスも貯金の大半も注ぎ込んだが、後悔は無い。
「お義母さんの命に関わることなんだよ!?結婚資金なんか二の次でしょう!!??」
彼女のその言葉にも背中を押された。
とは言え、正式に婚約した直後に免疫療法を決めたので、彼女やそのご両親には迷惑を掛けたと思う。
母と彼女を病室に残し、俺と父は会計を済ませて主治医と話しに行った。
母の現状を聞くためだが、いつもこの瞬間は覚悟を強いられるので俺も父も無口になる。
診察室で主治医を待つ間、どちらも口を開くことは無かった。
「お待たせしました」
パーテーションのカーテンを開けながら主治医が入ってくる。
「いえ、色々とお世話になっております」
父と二人頭を下げながら挨拶し、促されるままに席に着く。
「最近、ご自宅ではどんなご様子ですか?」
「そうですね。食が細くはなりましたが、それでも三食きちんと食べてくれています」
父が母の実家での暮らしぶりを説明する。俺は近所で生活しているものの、深夜に仕事場からの呼び出しなんかにも対応することもあるので迷惑になると判断して、一緒に暮らしてはいない。父は母が病に蝕まれていることが判明した直後に会社を完全に引退したから、ずっと母に寄り添って生活している。なので俺なんかよりも父の方が母の暮らしぶりについては詳しいので、そのあたりの説明は父に一任している。
俺も仕事が日勤だった日や当番明けには実家に寄って母と過ごすように心掛けている。
母は母で、そうやって俺が実家に立ち寄る事を楽しみにしてくれているらしく、到着する時にはいつも俺の好物をアツアツの状態で食卓に並べて待ってくれている。
俺が出された料理をガツガツと食べるのを食卓の向かいの席に座ってニコニコと眺めながら、仕事や彼女のことについてアレコレと質問して来る。高校生の頃なら「うるせーな」などと不愛想に答えていただろうが、大人になった今では、鬱陶しいとは思わない。寧ろ気遣ってくれることに感謝している。
俺は、いつも何事があろうと俺の味方でいてくれた63歳の母のことが、大好きなのだ。
俺は母が作ってくれるグラタンやオムライスが大好きだ。
彼女の手料理も美味いが、まだまだ母の領域に達してはいない。
しかし、彼女は彼女で俺の「おふくろの味」をマスターするために母に料理を習いに行っている。最近では俺が当番勤務の日でさえも、自分の仕事が早く終われば大阪に来て俺の実家に泊まり込んで母から料理を習っていることも多い。そのおかげで最近ではかなり母の味に近付いた。そういう彼女の努力は素直に嬉しい。
仕事が終わって実家に戻ると母と並んで台所に立つ彼女の姿を見る事も多い。
「さて、ひできち。今日の夕食はどっちが作ったか当てられるかな?」
と、クイズを出題されることも増えた。
以前は並べられた料理の数々を一口食べただけで、どっちが作ったか正解できたが、最近は外してしまうことの方が多い。
俺が外すと、二人はハイタッチして喜ぶ。二人は本当にとても仲が良い。
「裕美香さんのウエディングドレス、楽しみやわぁ」
ゆみちに手を引かれながら歩く母は嬉しそうにそう言っていた。
俺は前の嫁と結婚する時、親戚を集めた披露宴だけは行ったが結婚式を挙げていない。姉は式も披露宴もやっていないので、母は俺とゆみちの結婚式を何よりも楽しみにしている。
俺とゆみちは三ヶ月後に結婚式を執り行う。正式に夫婦になるのだ。
声優としてもアーティストとしても売れに売れている上に、彼女自身もまだ若い。
そんな彼女の結婚に最初は事務所側が難色を示していたが、彼女自身が
「結婚も自由に出来ないなら、声優辞めます」
とハッキリ言ったために折れたらしい。
「お義母さん。本当に一緒に来てもらってもいいの?疲れてるでしょ?」
ゆみちが母を抱きかかえるように歩きながら、母に問う。
「ぜ〜んぜん。大丈夫よ!あたし、この日のために頑張って治療したんだから!逆に連れて行ってくれないと、恨むわよ〜」
母が幽霊のように両腕を前に垂らしてゆみちに迫る。
「わかったから!お義母さんと約束してたもんね!ウエディングドレス一緒に選んでもらうって」
ゆみちは楽しそうに笑っていた。
母の入院先と式場は割と近い。車で10分程度だ。
婚約が決まった当初は東京で式を挙げる予定でいたが、ゆみちがご両親に「お義母さんのことを考えると、あたしは大阪で式と披露宴を挙げたいと思うの」と伝えたところ、野間口家の皆さん、それこそ親戚一同が「それは絶対にそうすべきだ!」と言ってくれたので、そのお言葉に素直に甘えさせていただいた。
実際のところ、俺たちの挙式披露宴会場は、父と母が38年前に結婚したホテルだ。
リニューアルされているが面影は残っており、チャペルも披露宴会場も設備は最新式だが見た目は変わっていない。
車寄せに父のエスティマを寄せる。父はセカンドシートに座る母に寄り添っているから運転は俺だ。
ゆみちがが助手席から降り、スライドドアから降りる母の手を取る。そこへ父が車椅子を出してくる。
「ちょっと、病人扱いせんといてくれる?」
「病人やないかい」
この夫婦の会話はいつもこんな感じだが、険悪ではない。夫婦漫才のノリだ。
「ほな、俺駐車場に行ってくるよって、ゆみち、そこの老夫婦を頼むわな」
「任された!」とゆみちが俺に敬礼すると
「だれが老夫婦じゃい!」
老夫婦は同時に俺にツッコミを入れる。
それを見て笑うゆみち。本当に楽しそうだ。笑いながら
「ひできち、先に試着室行ってるね!」
「うん。頼むわ」
出迎えに来た支配人と3人の姿をミラーで確認し、地下駐車場に向かう。
車椅子の母がいるので、身障者用に駐車させてもらう。
俺は一人になった運転席で堪えていた涙を暴発させた。
「がん細胞は小さくなっていますが、新たな転移が見つかりました」
俺は主治医の言葉に絶句した。
「先生、妻はどれくらい生きられますか」
父は振り絞るような声で主治医に尋ねる。
「息子さん、結婚式は三ヶ月後…でしたよね」
「はい。その通りです」
「失礼ですが、奥様は、妊娠は?」
「していません。おめでた婚は母が嫌がるので」
主治医は俺と父の顔を交互に見て
「今の治療を継続すれば、結婚式は問題ないでしょう。しかし。もう一度奇跡が起きなければ、お孫さんを見せてあげるのは、難しいと言えます。あとはご本人のモチベーションです。臨床試験を終わってないですが、新薬を投与することも有効かもしれません。ただし、結果的にご本人を苦しめる結果になる可能性も捨てきれません。それを避けるためにも緩和ケアを選択するのも一つの手段です。どちらを選ばれるか、非常にデリケートなことですし、どちらを選んでもそれは見捨てたことにはなりません。ですので、結果がどうであろうとご自分がたを責めるようなことはしないでください。そして、可能であればご本人の意思を尊重してあげてください」
俺はこの言葉を何度も思い出し、その場で泣き叫んだ。
俺のことを本気で殴り飛ばし、本気で叱りつけてくれるたった一人の人物。
俺がこの世で一番怖い、そして大好きな母ちゃん。
失いたくない。
この世に本当に神や仏が存在するのなら、俺の体のどこでも食らっていい。
頼むから、母ちゃんを生かしてくれ!
俺はそう言って泣き叫んだ。
腕時計のタイマーが鳴った。
三分間。
目頭が腫れるとバレるので、泣き叫ぶのは三分間と決めていた。
ポケットのハンカチで涙を拭い、トイレで鼻をかみ、顔を洗う。
そのままエレベーターに乗り、ブライダルサロンのフロアへ向かう。
受付で「保寺です。妻と両親が試着室にいるかと」と尋ね、部屋を教えてもらう。
結婚式は三ヶ月後だが、入籍は済ませたので、戸籍上、ゆみちはもう妻だ。
部屋に入ると母はソファに父と腰掛けていた。
「具合でも悪いんか?」と声を掛けたら
「昔の結婚式の思い出に浸ってんのよ」
「そうや。ジャマすんな。シッシ!」
別に俺と父の関係は悪くないが、だいたいいつもこういう扱いだ。
「ゆみちは?」
「今、あっちで試着してる。もうすぐあのドアから来るわ」
母はすごく楽しそうだ。
数分後、母が言っていた扉が開く。
純白のウエディングドレスに身を包んだゆみちが俺の目の前に立つ。
「えへへ。どうかな?似合うと思う?」
テレながら、上目遣いで俺を見上げる。
「うん。すごく…。綺麗すぎて眩しいくらい」
正直な言葉だ。
「お義母さん、どうかな?ご期待通りかな?」
母はもう泣いてしまっている。
「期待してた以上に決まってるやない…」
母のその嬉しそうな涙まじりの言葉を、俺は忘れることが出来ない。
母と話している彼女の姿を見て、気付いたことがあった。
「なぁ…。そのウエディングドレスって、母ちゃんのか?」
両親の結婚写真は子供の頃に何度も見た。
朧げな記憶の中だし、細かい違いはあるが確かに母のウエディングドレスに似ている。
「あんた、ようわかったね」
「そうなんよ。お義母さんのドレス、譲ってもらってん」
「今風にアレンジしてもらったけどね」
嬉しそうに話す二人の姿は、本当に幸せの縮図のようだった。
「ん?でも…。今日、ドレスを選ぶんちゃうかったん?」
という、俺の質問に
「サプライズ大成功!!」
と顔を寄せてピースする妻と母。そしてその後ろでこっそりピースする父。
知らなかったのは俺だけらしい。
でも、緊迫する現場で働く俺にはこういうサプライズも悪くない。
彼女と母は微笑み仲良く話している。
「裕美香さん、よく似合ってるわ。いつにも増して、すごく美人やわ」
「お義母さん、ありがとう。ステキな思い出のドレス、大切に着させいただきます」
手を取り合い、本当の親娘のようだ。
姉が結婚式も披露宴しなかった話はさっき触れたと思う。
しかし、母の夢はいつか自分の子供にそのドレスを着てもらいたい。そう願っていたため、レンタルドレスが主流になりつつある時代に買取を選んだのだが、姉のワガママで叶えられなかった。
そんな母のささやかな夢を、我妻が叶えてくれた。
『女の前で泣くのは、親が死んだ時のみ許す』
厳しかった祖父にそう言いつけられていたが、もう堪えられなかった。
それでもゆみちは、そんな情けない俺を黙って抱きしめてくれた。
「せっかくのドレス、鼻水で汚さないでね」
優しい声でそう言いながらも、胸に俺を抱きしめて髪をゆっくりと撫でてくれた。
試着と同時に、結婚写真の撮影も行った。
本来はゆみちと俺の二人だけの写真を撮るだけだったのだが、衣装係から事情を聞いたカメラマンが
「新婦さんとお母様、お二人だけの写真も撮りましょう」
と提案してくれた。
俺自身は結婚式では警察の礼装を貸与して着るので、結婚写真もそれで撮ってもらった。
(和装は流石に紋付にしたが)
ここでもカメラマンが
「ご両親と新郎さん、そのお姿でのお写真は残ってますか?」
と聞いてくれた。
実際、警察学校の卒業式での写真があるが、何故か母と写っている写真が無い。
「良い機会ですし、サービスで構いませんので撮っておきましょう」
と、撮影してくれた。
この写真は、母との最期の記念撮影になってしまった。
「今日はほんまにええ一日中やったわ〜」
帰りの車中、母はその言葉を繰り返した。
本当に心底喜んでくれた言葉なんだと思う。
親不孝は数えられないほど重ねたが、親孝行らしいことは、何一つできなかった。
悔やまれて仕方ない。
でも、最高の伴侶と巡り合い、再婚して最高に幸せな俺の暮らしを見せることが出来たのは、唯一心の救いだ。