第一章 『理想』2
昼休みを告げるチャームが鳴って間もないうちに、背の高いある少年が木製の引き戸を開けて415B組の教室に入ってきた。ここに潜めている何かに気づき、その人は無表情のまま眉間にしわをよせる。
先ほどの授業で使った教科書を引き出しに入れたワインドは顔をあげ、その少年とちょうど目が合った。眉毛をあげて彼に向かって少し笑いかけたワインド。一方、教室に入ったばかりの少年はここの雰囲気について何か気にかかっている様子だが、無感動かつ無表情の顔で何もないかのようにその疑いを上手く隠している。そして、ワインドに向かって歩き出してくる。
その少年は180センチかそれ以上の身長があり、上から下まで規則正しく制服を着こなしている。シャツの右襟についてある濃い緑色の生徒会役人バッジに、茶色レンズの四角い眼鏡、そして、整っている濃い茶色の髪。何もかもきちんとした印象を与える。その顔と瞳は何を考えているかを計り知れない無感動のままだ。
「珍しいね、ラルフ、あなたがここに来るのは」
ラルフの顔を見て話しかけたワインド。それから、チャームの音も何も気にせずゲームに夢中になっている隣席の少年の方にちらりと横見をする。
「今日、最初の小テストの結果返ってくる日なんだろう?」
「やっぱり、後輩の心配なんだね」隣席のクラスメートに視線を向け、ワインドは微笑みながら言う。「ラルフも結構いい先輩なんだね。どうしてあなたの後輩全然影響受けてないんだろう」
先輩がすぐ机のそばに立っていることすら気づかずゲームに夢中になっている少年に、ラルフは視線を向けた。その時、415B組の学生たちの視線が殆ど自分の方に集中していることに気づき、話題の本人にも聞こえるほど大きすぎた囁き声も耳に入ってくる。
「その人ってラルフ先輩じゃない?」
「そう。学校の超有名人だよ」
「去年、成績優秀者表彰を4つの科目分も貰ったんだって」
「今も確か、生徒会の学務委員長やってるらしいよ。高校生向けの学習雑誌のインタビューとかにもよく顔見かけるし」
「うわ、雑誌にも出られたのかよ」
「国際科学オリンピックの代表者にもなったらしいから」
「すごっ」
最後の言葉を発した少年はどうやら自分の声が大きすぎたことに気づき、慌てて手で口を塞いだ後、話題となった先輩にちらりと見る。相手もちょうど自分の方に視線を向けていると分かってびくっとした。
特に何の表情も顔に出さないまま、ラルフは後輩たちに向かって愛想笑いをし、それから、教室中を見渡した。この教室の学生たちの視線や話し声に特に興味がなかったのは、他に自分の興味を引くものがあるからだ。
「どうしたの?ラルフ」その態度を見てワインドは問いかけた。
「この教室、一カ月前と比べてだいぶ変わったな」
一カ月前にも彼はよくこの415B組の教室に来ていた。それは学期始まってからの最初の一週間だ。後輩であるこの少年を会いに来たというのが最も大きい理由なのだが、殆どの場合は自分の意志で来たわけではない。
「この花のおかげなんじゃない?」ワインドは推察してみる。
「花?」
「教室にこれらの花瓶持ち込んだのは誰なのかは知らないけど。とにかく、毎日よく花を新しく変えてくれてるの」説明を加えながら、ワインドは右手を伸ばし、落ちることない明るい黄色の花弁をそっと撫でる。「どうしてこの種類の花しか飾らないのかも分からないし」
それを聞いてラルフはまた眉間にしわを寄せた。今まで平然とした顔色に疑いの色が浮かんできたが、一瞬で元に戻った。普通なら気づかれずに済んだはずの変化なのだが、ワインドはその小さな変化に気づいている。
少し考え込んだ後、ワインドは他意のない口調でさらに情報を与えた。
「実は、本当に毎日花が変えられたかどうかすら誰も知らないよ。毎朝早く来てる私だって、花を変えてる人一回も見たことない。時々思うんだけど、これ、実は永遠に枯れることのない花なんじゃないかって」
ぼんやりとした様子で話しているワインドなのだが、すぐに自分の考えに対して呆れた様子で笑いをする。
「でも、そんなことあり得ないよね。枯れることのない花が実際にあったとしても、わざわざ全員の机の上に飾ってくれる人なんて、さすがにいないと思う」
少女の机の上にある花瓶を見つめ、ラルフは黙ったまま彼女の言うことを聞く。
「どちらにしても、この花新鮮だし、いい香りしてるし、おかげでなんだか心落ち着くよ、この教室にいる間にはね」
ラルフは何か言おうとしているが、そのまま黙り込んでしまう。一方、ワインドは何も聞かずにその態度を観察する。
ようやく話題を変えようとしたラルフは、ゲームの中のボース倒しに必死になっている後輩の机の前に歩いて行く。
「一カ月経って、何の変化もなし、か」ラルフは呆れ気味に冷静な声で言う。「授業中もこんな感じなのか?」
「まあな、ゲームやったり、漫画読んだり、寝たり、絵描いたり」正直に答えるワインド。「ごめんね。私もこんなんだから。何の力にもなれなくて」
「いや、観察してくれるだけで十分だ」
「で、どうする?ソウルさんに正直に話すとか?」
「それは…」
「げっ」
突然さっきまでボース倒しに必死になっていた少年がゲーム機を置いて大声を出して会話を遮った。
「どうした?」ラルフは無表情な声で聞く。
「せ、先輩は俺の姉さんに何言うんすか!?」
「私たちの話してること聞いてたの?」気になってなんとなく聞いたワインド。
「姉さんの名前が出たときに聞こえたばかりなんけど」
その正直な答えに二人とも不思議には思わない。それは、ワインドもラルフも知っているからだ。たとえ何をしていようとも、『ソウル』という名前を聞いた途端、この少年は人百倍以上感覚が鋭くなるのだと。
「もしかして先輩、俺の姉さんと仲いいんすか?」
「ただの知り合いだ」答えてから、ラルフは少し付け加えた。「といっても、何か注文されたり聞かれたりしたら、抵抗はできないな」
恐怖と驚愕が同時に混ざっている後輩の青白い顔を見ると、ラルフは薄ら笑いを浮かべて淡々と続けた。
「今回は見て見ないふりしてもいいが、今度またきっちりと勉強しないようなら、俺もソウルさんに正直に話さなきゃいけない」
最初の部分だけ聞いた後、少年は後についてきた注意を全然気にせず大げさに喜んだ態度を見せる。瞳をキラキラと輝かせ、立ち上がって机越しに先輩に飛び込もうとした。
「ありがとうございます!先輩は俺の命の恩人なんすよ」
「大げさなことするな」素っ気なく言いながら、ラルフは相手を冷たく突き放した。「でないと、俺も心変わるかも」
「えーと、分かりました」後輩は素直に了解して元通り座り込んだ。
「で、テストの結果はどうだんだ?」
ラルフの質問で、さっき生き生きとしていた少年は急に悪さをしたことがばれた小さな子供に変わってしまう。頭を掻き、へらへら笑い、そして相手から視線を逸らす。
彼の点数を既に分かっているワインドはその会話に参加したくないという、第三者的な態度を取って二人のやり取りをちらりと横見するだけ。スカートのポケットからスマホを取り出して白いイヤホンを耳につけ、それから、机の横にかけてある布の袋からサンドイッチを取り出した。今殆どのクラスメートが教室を出て食堂に向かっているところなので、教室の中には10人未満しか残っていない。さっきまでざわめいていた話し声も段々と聞こえなくなり、その分、ラルフと少年のやり取りは教室にいる他の人にも聞こえてしまっている。
「どうした」厳しく追及したラルフだが、口調は相変わらず冷静だ。
「怒らないって約束してくれますか?」
「それはできない」
「なら見せないっす」
何か隠しているような笑いを浮かべ、ラルフは独り言のように、しかしわざと相手にも聞こえるようにつぶやき始める。
「そういえば、先日、ソウルさんに言われたんだよな。弟の世話を任してくれないかって。せっかく偶然に先輩後輩関係になったんだから」
ラルフは『偶然』という言葉をわざと協調した。
…どうみても嘘。
さっき捏造したばかりの説明を淡々と語っていたラルフをちらりと横見したワインドは本人に視線でそう告げた。
「もう受け取ったわけじゃないけどね。もしその頼み受け取ってしまったら、お前のこと全部ソウルさんに報告しなきゃいけないから。でも、今はなんだか迷って…」
「勘弁してくださいよ」少年はようやく諦めた。「今でも俺の人生ボロボロなんすよ。先輩まで姉さんのスパイになっちまったら、俺死んじゃうんじゃないすか」
「改善すればいいだろ」
「無理っすよ。頑張ろうって思ったとたんに眠気が」
「で、小テストの点数はどうだった?」
…なんでこの話に戻ってんすか!
少年はただ心の中かで叫び、話題を変えようとした自分の失敗をまた心の中で嘆く。その後、半ばやけくそな気持ちで引き出しを開けて、その中から第一回目の小テストの結果が印刷されたはずの紙屑を取り出した。
「なんであれがそんな風に?」
ラルフは冷たい目で後輩の手の中にある、丸くて白い塊を見つめる。
「だって…」
「捨てようとしてるんだな」
相手に思考を見破られた少年は目を伏せてしまった。
「で、どうしてかばんじゃなくて引き出しにあるんだ?あれ」
「そ、それは」少年は必死になって言い訳を探す。「かばんに入れるの忘れっちゃって」
「ソウルさんに見られたくないんだな」
「ち、違うんすよ!」
後輩が慌てて抗議したが、その態度は誰が見ても図星だったことがバレバレだ。
「俺も人の家庭内のことにいちいち口出ししたくないが、一つ忠告しておこう」ラルフは冷たい目で相手を捉えながら言う。「お前のお姉さんに隠し事しない方がいい。どうせ隠し切れないから」
「それは、俺も分かってますよ」少年はつぶやいた。「でも、つい」
相手の意気消沈した態度に特に興味を示さず、ラルフは紙屑を受け取りその中に印刷されたものを確認する。すると、無表情のままだったはずなのに顔面の筋肉を少し痙攣させてしまっている。
「なるほど。道理で隠したがるわけだ」紙を返しながらラルフは言った。「お前一人の点数でクラス全体の平均点一気に下がったよ」
「そう、すか」
「何も思わないのか?」
「いやそれは…」
生徒会の学務委員長である相手の厳しい目線を浴びせられているため、少年は恐る恐るといった様子で小テスト成績報告書を折ってズボンのポケットに入れる。
「…でも、俺だって一生懸命頑張ったんすよ」
「頑張った?全科目、百点満点の10点ぐらいだぞ」
「ここの試験難しすぎますってば」
「クラスの平均点は60ぐらいだったけど」
「それは」少年はもっと脳みそを絞って言い訳を探す。「ほら、きっとまだ慣れてないんすよ。俺、結構人より環境の変化に弱いし」
言い終わった後に笑ってごまかした。
「慣れてない、だってな」
口の端をゆがめて笑うラルフ。
「じゃあ、今度のテスト結果出たらまた聞きにくるよ。その時はもう慣れてるはずだ」
「その時もまだ…」
「もし何も改善しなかったら、俺だって見逃すわけにはいかないよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ワインドのすぐ近くにある引き戸を開けてそのまま出て行ったラルフは、後輩の呼び声に全く気にする様子がなかった。
「なんでこうなったんだろう」
「久しぶりにラルフが怒った」サンドイッチを食べ終わったワインドは言い出した。「あなたってほんと才能あるのね」
「あれ、先輩怒ったの?」
「今度分かってあげてよ」ワインドはそれだけ言って、イヤホンで音楽を聴きながら引き戸の外に視線を彷徨わせる。
これからどうすべきか分からずしばらくじっとして座っている少年は、ようやくゲーム機をかばんに入れ、昼ご飯を買うために教室を出ていこうとする。
誰かの目線が先ほどのやり取りの始めからずっと、彼の方に向けていることも気づかずに。
―――
「ほんと、気に食わない」
「あたしも」
「俺らみんな全科目で67から70点ぐらい取ったのに、誰もそれ以上それ以下取らなかったのに。あいつ一人で平均点下がっちまった」
「許せない」
「私たちせっかく一番団結力強くて、一番完璧なクラスになれたのに」
「俺らより幸せな連中世の中にいないのに」
「そうだよ、どうせ415Bが一番すごいよ」
「あいつがいなければね」
「ねえ、一人だけそんなに違ってるのなら…」
「…理想のクラスの名が廃るぞ」