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白い迷路に迷い込んだメロディー  作者: リンゴガ白ク見エル私
第一章 理想
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第一章 『理想』1 

 この世界はたまらなく美しい。


 ユーは本心からそう思った。両肘を屋上の柵につけたまま、いつもと変わらない朝の光景を眺めている。ボブカットにしている茶色の髪を緩やかな風になびかせながら、茶色のつぶらな瞳をキラキラと輝かせ、一つの飾り物のような無邪気な笑みを顔に浮かべている。

 東に向かっているのにもかかわらず、自分の方に照らされている弱い日差しに負けずに前をまっすぐ見つめているその姿勢は、まるで、太陽系の中心的な存在であるその恒星に飛び込もうとしているようだ。


 様々な光景が無邪気な瞳に映っている。長い月日を経た赤煉瓦造りの校舎、木から落ちたばかりの茶色い葉っぱ、枯れ草が所々見られるといってもいつも手入れされている天然芝グラウンド、学生の話し声で活気あふれる灰色の渡り廊下、校門の辺りに立って自分の役目を一生懸命果たしている風紀委員たち、学校の外を数多く行き来しているバスや車、学校の向かい側に置いてあるゴミ箱を希望に満ちた様子で探っている野良犬、スプリンクラーが水を吹き出しすぎたせいでできた水たまり、日差しに照らされてキラキラと輝いたしぶき、そして、急ぎすぎたせいかそこらへんの水たまりで転んでしまった一人の男子高校生。

 どれもこれもありふれた日常のワンシーン、だが、全く同じものは何一つも存在していない。だからこそ、どれだけ長く眺めても飽きることがなかった。


 ユーにとって、何もかも美しい。何もかも心をほっこりと温かくさせてくれる。


 たとえすべての人間が醜いと口を揃えて断言したものでも、ユーはそれがたまらなく美しいと信じている。


 だって、人々が『神』と崇めている存在がそういう風に世界を創り上げたのだから。


 神が創ってくださったものには醜いものがなく、価値のないものもない。世界のすべてのものが他の存在のために生まれ、周囲の支えによってその存在を維持できるのだ。だから、誰も一人では決して生きてはいられない。それと同時に、誰も一人だけ置いてけぼりにされることもあるべきでない。


 もし苦しんでいる誰かを見かけたら、自分が持っている限りの力を絞り出してその誰かを苦しみから救ってあげる。もしなぜそんなに必死になるのかと聞かれたら、ユーは顔をくしゃくしゃにするほど笑って、そして、はっきりとした声でこう答えるのだろう。


 「だって、人間はみんな、幸せになるために生まれてきたんだから」


―――


 少年は急ぎ足で教室に入ってきた。引き戸のすぐ近くに立ったまま、脱力した様子で自分の膝に手を付けて何度も何度も深呼吸を繰り返した。それから、疲れが取れた後、後ろのドアから二番目の列にある、一番後ろの自分の席に向かった。真っ黒い革製の学校かばんを机の上に置き、そのまま力なく席に座り込んで顔を机に伏せた。


 バン!


 誰かの小さな手で背中のど真ん中に叩かれ、少年は急にびくんとした。


 「あっ!ごめんごめん」


 大げさなほど痛そうな顔をしている相手を見つめながら、ユーは急いで手を引っ込んだ。彼女は首を傾げ、相手の痛みで歪んだ顔と自分の手を相互に見つめる。


 「もしかして、ユー、そんなに強く叩いちゃった?」


 「い…いや、そうじゃないけど」少年は苦笑いしながら答えた。「ただ、なんていうか、ちょっとびっくりしたっていうか」


 「ん?」ユーは小首を傾げ何か疑っているような声をあげたが、次の瞬間にはまたいつものような笑顔に戻った。子供のように無邪気な瞳は相手を上から下まで眺める。


 少年の漆黒の髪には相変わらず起きたばかりのように寝癖がついている。髪の毛と同じ色の瞳は無邪気さ覗かせ、明るくて前向けでおおかかな印象を与える。幼げな顔をますます幼くさせる小さな八重歯。青白いといえるほど真っ白い肌のせいか、首に浮かんでいる蚯蚓腫れのような赤い線が一層はっきりと見えてしまう。それは何の傷なのかは誰も聞いたことがなく、また、本人は隠す様子はないが、自分から明かすこともしない。

 ユーの視線に気づいた少年は眠気を覚ますために首を振って自分の格好を確認した。そうすると、今朝適当に結んだ緑灰色のネクタイが完全に曲がっているのが見え、急いで不器用に結び直した。その後また立ち上がり、少しシワがついている白の半袖シャツを黒い長ズボンに入れた。


 「今朝よく風紀委員の人たちから逃れたわね」

 「ちょうどあの風紀委員長がいなかったから」


 少年は答えながら机の上に置いてある革製かばんを机の横にあるフックにかける。そのかばんは非常に薄くて、教科書が一冊も入っていないことが誰が見ても分かってしまう。


 「ていうか君、毎日ぎりぎりで学校に着いたよね」ユーは話題を変えた。「もっと早く来る気ないの?」

 「まあ、ね」少年はまた苦笑いをした。「自分で起きたらたぶん昼ごろに着いたかも」


 驚くような顔をしたユーだが、ただ気軽に笑って他に何も聞いてこなかった。


 「とにかく、何かあったらいつでも相談とかしに来てね」


 ユーは満面の笑顔で、


 「だって、クラスのみんなを幸せにするのは、この委員長の役目なんだから」


 そう告げた。その自信満々の立ち姿は生き生きとしたエネルギーに満ち溢れている。最後に少年に向かって愛想よく笑いかけてから、他のクラスメートに話しかけ続ける。


 委員長の役目、か。


 こんなにやる気満々のクラス委員長は見たことないのに、その満ち溢れすぎたほどのエネルギーは大げさなものだとは思わない。不思議なことに、他のクラスメートも同じことを思っているようだ。

 とにかく確かなのは、ユーと話す度になんだか心が癒されることだ。


 この1年415B組は他のクラスと違った一つ目の理由は、このユーという存在だ。


 一カ月前に、つまり、学期が始まって一週間立った頃に、ユーは委員長の役割を担い始めた。その前に415B組の委員長に選ばれた一人の少年がいたはずなのだが、一週間立たないうちに急に転校してしまった、というのがみんなの共通認識だ。それで、クラスメート全員とある程度仲良くできるほど人当たりのいいユーは次の委員長を決める選挙で全員賛成という形で選ばれた。

 ユーが委員長になって間もないうちに、クラスの雰囲気は変わり始めた。問題解決能力、妥協性、そして周囲の人を癒してくれるような明るさ、その全てが揃っているためか、この一カ月間、415B組には喧嘩や争い事がまったくなく、苦しむ学生もいなく、いじめも全然なく、また、劣等感や自分が他のクラスメートと違うという孤独感を抱いている学生も一人もいない。


 少なくても全体的には。


 比喩をするならば、ユーは真っ暗な夜の中に一匹しかない蛍の光のようであり、乾いた砂漠の真っ最中に見つけた冷たい水の源のようであり、また、戦場に転がっている何百何千人の兵士たちの死体の間に咲いている花のようである。

 しかしその故に、蛍のように掴み難く、餓えた旅人が作った幻であるかもしれない水源のように曖昧で、そして、いつでも踏みつぶされそうな花のように儚い。


 少年はあくびをし、あちこち歩き回って他の人と話しかけていく委員長を目で追った。男女を問わず、殆どの学生たちは魅了されたかのようにユーを見つめているが、誰一人も彼女を恋愛対象として見ている人はいない。


 しばらくしたら少年は肘をついて机の右上角に飾ってある水色の花瓶をぼんやりと眺める。彼が見えたのは、自分が名前を知らない黄色い花がその花瓶に刺さっているという光景だ。自分の目に映った光景と漂っていると錯覚した(・・・・)香で、身体も心も幸せの味で満たされ、眠気も残りなく吹っ飛ばされた。


 この1年415B組は他のクラスと違った二つ目の理由は、これだ。


 クラス全員の机、そして教室の前にある教師用の机の上に、平等にセラミックの花瓶が飾ってある。花瓶の水色は果てしなく広い空と、地平線にまで続いていく広い海を思い浮かばせた。その中に、全員が一様に見えたのは、誰もがその名を知らない花、ただ、見るだけで不思議と癒してくれる。その上、その花の薄い香りらしいものも教室中に漂っており、リラックスさせるだけでなく、ここに入ってきた誰もかもが自分が新しい世界へと踏み込んでくるかのような気分にさせる。


 また、もう一つ不思議なことは、みんな毎日いつも新鮮さを保った花が見えるが、誰が花を新しく変えたのかを知っている人がいなく、花が新しく変えられたところをみたことある人もいない。


 「今日、ようやく最初の小テストの結果が返ってくるんだよね」


 ワインドが自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


 少年は自分の右手に座っている少女の方に振り向いた。それはつまり、一番後ろのドアに近い席だ。


 「今日だったの!?」少年はつい叫びだした。目を大きくして少女に向かって確認を求めようとする。

 「嘘ついて何になるの?」ワインドは呆れた様子で答え、肘をついたままドアについている小さな窓ガラスを通してぼんやりと外を眺める。「今、うちらの担任はテストの結果を取りに行ってるかも」


 ワインドという少女は前髪を少し眉より長くし、サイドは耳が隠れるぐらいの長さで梳き、後ろには肩にかかるぐらいの長さにしてそのまま伸ばしている。その髪の毛は赤に近い茶色で、日差しが当たると時々炎のような赤に変わることもある。整った顔には特に何の表情を浮かべていなく、普段もこんな感じで周りの状況や人々に対して割と素っ気ない態度を見せる彼女だが、話しかけられるといつも微笑んで気楽に会話をしてくれる。その賢そうな瞳には一見見れば感情のないように見えるが、よく見れば一種の悲しみが潜んでいる。


 しかし、今の(・・)教室にいる間に、その悲しみは表に出たことが一度もない。


 この学校の女性の制服は白の半袖シャツで、右胸の辺りに学校のバッジがついている。緑灰色のネクタイに濃い灰色のスカート、そして、学校のエムブレムがついているベルトの留め金。

 少年は観察力がいい方ではないが、知り合って一カ月強立った今、彼が見てきたかぎり、ワインドはいつも学校側に指定された通りに規則正しく制服を着ている。ある日ベルト、ある日ネクタイ、ある日学校のバッジ、ある日かばんまで忘れてしまったことのある自分とは大違いなのだ。それでも、勉強することを目的に学校に来ているわけでもない彼にとって、それはさほど大したことではない。


 …もっとも、『彼女』に知られたら、どんなに小さなことでも大変なことになってしまうこともあるが。


 そして、今の彼は悟っている。『小テストの結果』のような小さなことでも、自分のほんの数時間後の未来を左右してしまうかもしれないということを。


 「心配?」彼の方に少しも見ていないまま、ワインドは相手の思考を見抜いたかのように問いかけた。「普段はこんな小さなことにいちいち気にしないじゃない?」

 「まあな。気にしてるよ、少しは」

 「だったらもっと頑張れば?」

 「できるわけないよ」

 「そんな風に考えてるから」

 「そう言われても…」

 「何かあったの?」


 突然明るい声に遮られ、少年はびくっとした。ワインドは教室の外の廊下から視線をそらし、唐突に再び現れてきたボブカットの少女の方に振り向いた。


 「喧嘩はよくないよ」二人を相互に見ながら、ユーは明るい声で言う。

 「いえ、小テストの結果について話してるだけだよ」ワインドは愛想よく答える。


 委員長はつぶらな目をぱちぱちと瞬かせ、少年の方に振り向いた。腕を組んだまま片手の指で頬をついてしばらく考え込んだふりをした後、片手を拳にしてもう片手の掌にのせて何か思いついたかのように大きく声をあげた。

 「さてと、テストあまりできなかったでしょ」

 「それは…」少年は頭を掻いてへらへら笑った。「まあ、そんな感じかな」

 「テストの結果の心配なら、大丈夫だよ」ユーは明るく笑いながら言った。「どうせ、うちのクラスはみんな一心同体なんだから。小テストの結果ぐらい、同じぐらいの点数出せないわけないでしょ?」


 どういうこと?


 さっきの発言を聞いた二人は、意識の最奥にそんな質問を浮かべた。だが、誰か口にする前に、その質問は得体のしれない何かに消されて頭から消えてしまった。


 「うちらは415Bでいるかぎり、誰も何の心配をする必要ないよ」


 また肘をついたワインドはその手の指で自分な茶色の髪をいじりながら、特に興味を示さなかった目で委員長と隣のクラスメートとのやり取りを眺めていた。


 「そう願いたいね」少年はため息混じりに言う。

 「また何か心配事あったらいつでもユーに声かけてね。24時間年中無休待機してます!」


 ユーは軍人を真似て敬礼のポーズをし、またあちこち歩き回って他のクラスメートと話しかけ続ける。


 委員長が立ち去ったのを見届けた後、ワインドはまた教室の外にぼんやりと視線を向ける。委員長とクラスメートたちの話し声が耳に入ったが、その会話に興味を示す素振りがない。


 「うちのクラス、いつも全員来てるよね。なんで今日欠席した人いるの?」

 「そういえば、三つ編みの子いないね」

 「確かにユーの隣に座ってる子だよね」

 「おかしいな」

 「うーん、ちょっと電話かけてみるよ」


 少年は真っ黒いゲーム機を薄い学校かばんから取り出し、唇を少し舐めながら電源ボタンを押した。


 「あの子、たぶん電源切ってるかも。全然繋がんない」


 その言葉が耳に入った後、少年はイヤホンをつけて小さな世界に意識を潜ませた。


―――


 この学校のクラス分けは、一見見ればごちゃごちゃでもあり、同時に組織的でもある。クラス番号を示すそれぞれの数字の意味が分かれば、そのシステムを大体理解できる。


 クラス番号を示す数字は3桁数で表示されている。場合によってはアルファベットもついているクラスもある。

 最初の数字、つまり百桁の数字は4から6、高校1年生(M.4)から高校3年生(M.6)を表している。この学校は中学校と高校を区別せずに同じ学校で行われるこの国の殆どの学校とは違い、高校生だけ受け入れている。また、学部も学科も多様な大学に附属しているため、附属大学や他の大学などで専門的な知識を活かせるためにクラスを様々な分野に分けられている。それは後の数字の意味するところだ。

 その次の数字、つまり十桁の数字は大きな分野を表している。1は理学と数学を中心とする理数系、2は数学と英語を中心とする文数系、3は第2外国語も含める語学や文学を中心とする文系、そして4は社会学を中心とする社会系。ここまではまだこの国の他の学校とはほぼ変わらない。

 問題は最後の数字、つまり一桁の数字だ。他の学校なら文系の方は特別科目である第2外国語によってクラス分けが行われるのが一般的なのだが、この学校では文系以外のクラスにも様々な専門分野によってクラス分けが行われる。その細かい専攻分野、つまりそれぞれのクラスの選択科目や特別科目を表しているのがこの一桁の数字だ。例えば、理数系の場合は工学や医学、文数系の場合は純粋数学や経営学、文系の場合は他の学校と同じく様々な第2外国語、そして、社会系は政治学や法学などが選択できる。


 一つの細かい分野には2つ以上のクラスがある場合、アルファベットで分けられ、これは点数、能力、イニシャル順で分類されるのではなく、全くランダム制である。


 それぞれの年の新入生のクラスには一桁の数字は違っているため、現在の3つの学年だけでもどの数字がどの専門分野に当たるのかを覚えている人が非常に少ない。しかも、それぞれの年にそれぞれの分野を希望する学生の数によってクラス数もまた異なり、学生数が少なすぎてクラスが成り立たない場合、その年にはその専門分野がなくなり、それを選んだ学生は代わりに近い分野を選ばなけらばならない。

 このような、経営のややこしさや予算などの問題を呼び起こしていしまう可能性が十分想像できる制度でも、この学校にはクラス分け制度による問題がまだ起こったことがない。


 数多く専門分野の中で、最も中立的な分野は恐らく一般理数系だといえよう。選択科目や特別科目がなく一般的な科目が全て網羅されているからだ。

 そのような一般理数系を選んだ学生は、自分が将来何がしたいかを把握できず、自分の好きなことややりたいことも見つからないような連中だと思われがちである。だが、自分の好みを良く知っている学生の中にも、何らかの理由で敢えて一般理数系を選んだ学生もいる。それに、毎回のテストで学年最高位と最低位の人がこの分野のクラスから出ることもまた珍しくない。


 今年の1年生のクラスでは、一般理数系は415組に当たる。


 そして、ある時、この宇宙の理を狂わせたきっかけは、この415組のたった一人の学生の手によって作り出されたのだ。

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