八
「旦那、大変ですぜ。起きてくだせえよ」
昨夜の声と同じ声が、土間の方より聞こえてきた。
善三の『大変ですぜ』は今に始まった事ではないので、野口は寝巻のまま土間に出てみると、善三が息も絶え絶えにひっくり返ってしまっていた。
「おう、大丈夫かい、取りあえず水だ、水を飲め」
「うい~生き返るってもんですぜ」
「で、そんな格好になるほど慌てて、どうかしたんかい?」
「どうしたもこうしたも無えんですよ。とにかく着替えて、早く行きましょう」
「行きましょうって、訳の分かるように話してくれ」
いつもの、大したことではないと、まだ眠そうに顔をこすりながら、野口は聞いた。
しかし、次の一言で瞬時に役人の顔になると、
「善さん、それを早く言わねえか。」
奇術師の早変わりのごくと着替えると、羽織の裾をたなびかせながら、善三の言う町はずれの小屋を目指し走り出した。
走りづめで来た善三は立ち上がるのがいっぱいで、
「旦那~傷の方はいいんですかい?無理しねえほうが・・・ちょ、待ってくだせえよ」
「善さんは、ゆっくり来ればいい・・・昨日の今日だ、無理すんな!」
そう言い残しながら、疾風の如く町を駆け抜けていった。
二里ほど走り続けると、ようやくその小屋が見えてきた。
さすがに息は上がり、肩口傷からは滲みだしていたが、少しも気にすることなく、野口は走り続ける。
ようやくたどり着くと、小屋には数人の野次馬が取り囲み、中には調べを始めた役人が、忙しそうに動いている。
「い、石川様遅くなりました」
中の様子を伺いながら、戸口近くにいた一人の役人に、野口は声をかけた。
「おう、野口か、早くに悪いな・・・どうも解らない事ばかりでな、不可思議な事件を、お前が調べているというもんで、善三に呼びに行ってもらったのだ」
「いえ、わざわざありがとうございます」
そういいながら小屋の中に横たわっている仏に目をやった。
そこには、善三の言っていた者達が、まるで木偶のように手足が変な方向に向いていた。
確かに、昨夜自分たちの窮地を、助けたくれた者達と同じ装束をまとっている。
(本当に、昨夜の者たちであろうか)
(あれほどの手誰の者が、こうもあっさりと・・・)
(しかし、この惨劇はどういうものか、無数の針で刺されたような傷跡が全身にあり、そこから血が噴き出してしまっている)
(しかも、若者の方は・・・精気を吸い取られでもしたかのように、干乾びて
いるではないか)
(・・・それから・・・・あのクナイ使いの娘は・・・あの傷痕は・・・仲間割れでもしてしまったのか・・石板は・・・)
二つの屍を前に、愕然と立ち尽くしてしまっている野口に、
「そうだ、これを見てくれ」
そう言いながら、石川は一枚の紙を差し出した。
そこには、あの石板に描かれていた文字絵と同じものが、擦りつけたように
写し込まれていた。
「これを、どこで・・・」
「こっちの男の手甲の奥に隠し持っていたのを見つけたのだ。ところで、やはり、顔見知りだったのか?」
石川は、何かを知るような、含みのある言い方で尋ねた。
「はあ、実は昨夜、賊に襲われてしまい、その危うき所を助けていただいた者達にございますが、深くは知らぬ者です」
石川の眼を澄んだ目で見つめ、はっきりとした返答をする野口を見て、石川は形で一息ついた。
「そうか・・やはりそうであったか。実はな・・・この仏のことを知らせてくださったのが、柳沢様の御家臣のかたであったな・・・」
「え?」
「詳しくは申されなんだが、ただおぬしと深い関わり合いがあるのではなどと申されるので・・・悪いとは思ったが、一応出方を見させてもらった」
「いえ、それは当り前のことと思います。私のことなどどのように思われてもかまいませんが、先程申し上げた通り、この者達には助けを借りただけのことでございます・・・ただ・・」
そう言いかけた野口ではあったが、思いとどまったように口を閉ざした。
(まだ解らぬことばかりだ、今までのことを、なんと申し上げても解ってはもらえぬであろう)
いぶかしげに見る石川に、気持ちを切り替えたように野口は願い出た。
「この紙を、私に預からせてはいただけませんでしょうか?今調べを行っているものに、何か関わりがあるように思われますので、ぜひにも」
あまりの勢いに圧されるようになった石川ではあったが、落ち着いた静かな声で答えた。
「いや、柳沢様より、何かあれば全ておぬしに任せるようにと言付かっているので構わないが・・・いったい何を調べておるのだ?それから、柳沢様とはどのような繋がりなのだ?」
問われた野口ではあったが、自身も納得できていないことばかりなので、言葉に詰まってしまった。
「・・・・それが・・・私にも解らぬことばかりで・・色々なことが起きておりまして、それが繋がりがあるようで、繋がらずにおります」
「なんとも締りのない返答よの・・・・まあ、何ぞ助けが必要であれば、いつでも言うてこい・・・それではこの場は任せたぞ」
そう言いながら薄暗い小屋を後にしようとする石川に、今一つと野口は尋ねた。
「あの、もう一人・・・女子の仏がおったはずですが・・・それから黒い石の板のようなものはございませんでしたか?」
「ん?仏ははじめから二人であったぞ・・・女子の仏もおるのか?・・それに板のようなものなど、どこにもなかったぞ」
「いえ、なんでもございません・・・では、こちらは私がお任せを」
野口の様子がおかしいと感じた石川ではあったが、次の調べもあった他の役人ともども、日がだいぶ昇ってきた空を仰ぎながら、町への道を戻って行った。