五
雪は亥の刻には上がったが、辺り一面真綿を敷きつけたように包み込まれ、すべてのものは眠りの時間を迎えていた。
月をも眠らせていた薄曇は切れ切れとなり、顔を出したものが真夜中とは思えぬほどの雪明りを作り出していた。
子犬の足跡ひとつついていない白い道を、二つの影が足早に歩みを進めていた。
「ところで旦那、その石版、何か判りやしたか?」
「うむ、絵なのか文字なのか、さっぱり判らんものが、表にも裏にも書かれているんだが、何を意味するか、さっぱり判らんが、女の持っていたクルスと同じものが、いくつか描かれていたのだ、それからな、上のほうに何かをはめ込むようにくり抜かれたとこが三つあって、そのひとつにクルスをはめ込んでみたら、ピタリとはまったのだ」
「そ、それで・・・いってえ、どうなりやした!」
子供のように目をまん丸にした善三、が同じような顔で話す野口の顔を覗き込んだ。
「・・・・それが、何も起こらなんだのだ」
足を止め、野口は本当に残念そうに答えた。
「しかし・・三つそろえれば、必ず何かが起ころうというもの・・・それなのにこれをお渡しせねばならぬとは・・・」
「そうですかい・・・そりゃ残念ですね・・あっしのほうも色々調べをしてみたんですが、さっぱりで、それに、殺された二人目の男も、見落としたことがねえかとも一度調べようとしましたら、えらく手際のいいことに、もう焼かれて灰にされちまったっていうんですよ」
「そうか、そんなに早く焼かれるとは・・どこのどいつが指図したかはわからんが困ったもんだな・・・いつもならば、つながりのある仏は、そんなに早く焼いたりしないのだが・・しかたない、まあ、これですべての糸口がなくなったわけじゃねえんだから、わしらの知っていることを一つ一つ調べていくしかねえな」
「そうですね、お調べをやめろと言われたわけではねんですから、とりあえずそいつをお渡しして、また明日からというか、今日からやりやしょう」
再び四つの足跡を真綿に残しながら、二つの影は歩き出した。相変わらずあたりは静まり返っている・・・静か過ぎるくらいに・・・
「この道を抜けると、お屋敷まですぐですぜ、しかしいつ来てもここいらは気味が悪いですぜ、昼でも薄暗いし、なんとなくじめっとしてて・・」
「なんだい、閻魔の善三にも、苦手なものがあったのかい」
「その呼び方はやめてくだせえよ・・・いや、恥ずかし話なんですが、生きてるもんなら何も恐れるものなどねえんですが・・・死んじまってるものとかは苦手で・・・」
「幽霊とか、化け物のたぐいのことか?」
「・・・・へい」
頭をかきながら、ばつが悪そうに善三は小声で答えた。
「そんなもの、いると思ってんのかい、善さんにそんな弱みがあったとは、あはははは」
「旦那~勘弁してくだせえよ」
薄気味悪い辺りの静けさを、吹き飛ばすように野口の笑い声が響いた。
しかし、その楽しげな二人のやり取りを、じわりじわり黒き闇が覆い始めていた。
「何か急に薄暗くなってきませんかい?それになんだか嫌な臭いもしてきたようで」
「怖いと思っているから、人はそう思ってしまうものだ・・・されど、これは、そうとは思えんようだな」
そう言いながら、歩みを止めた野口は、腰の刀に手をかけ、眼前に漂う姿のない気配を見据えた。
ただならぬ殺気は、善三をも包み込んだ。
まるで、金縛りにでもあったように動けずににいる二人ではあったが、この寒さの中、体中から汗を噴出していた。
目に見えぬものの恐ろしさが、二人の心に物凄き圧をかけているのである。
野口は、何かを感じ、おもむろに刀を抜き、誰に向かうともない刃を正眼に構えた。
その刹那、二人を覆っていた殺気は一瞬にして消えた。
消えたはずだった。
《ドグシュァ~~~~》
二人の目の前の地面が割れると、雪を吹き飛ばし、闇の中より闇よりも黒き者が姿をあらわした。
立ち上がった姿は、大きな鳥を思わせるものである。
黒き羽根で覆われた着物とくちばしを思わせるような被り物、足には鉤爪のようなものが付いた履物を履いている。
「うひゃ~~~~、旦那、出た、出ましたぜ」
「慌てるな・・善さんは、下がっててくれ」
「下がってろって言われても、う、後ろにも・・・」
目の前の者に気を残しながら、善三の後方へと視線を移すと、同じように地中から黒き者が現れようとしていた。
「ちいっ・・何とするか」
不覚にもただならぬ使い手に前後を取られてしまった二人は、じりじりと間合いを詰めてくる殺気に、身動きひとつできずにいた。
蛇ににらまれた蛙というのが、まさにそれであった。
「そのもの、置いていけ・・・さもなくば」
喉の奥より搾り出したような、くぐもったゆっくりと響き、黒き者は背中に刺していた刀のようなものを引き抜いた。
その刀は三日月のような形をし、その刃には見たこともない模様が刻まれており、一目でこの国のものではないと察しがついた。
刀の柄を握り直しながら、覚悟を決めたように一息ついた野口は、落ち着いた声を向ける。
「素直に渡したところで、われらを殺すのであろう・・・おぬしたち、何者だ」
「・・・闇鴉」
黒きくちばしの奥から光る目は、見たこともない舞を舞うように、円を描きながら野口に飛び掛ってきた。
《キン、キン・・・カキン》
耳に付く金属音を伴い、闇の中に火花が飛び散った。
「こっちに、こねえでくれ~」
真っ青な顔でしりもちをついて後ずさる善三も、十手を振り回しながら、もう一人の闇の者から、必死に石版を守っていた。
闇の者の不規則な動きに手を焼いていたが、武士は死んだと言われるこの時代において、新陰流の使い手である野口は、真の侍の気を身にまとっている。
《ドビシュッ、ズバッシュ》
手応えがあった。
肉を斬り、骨を断った感覚が、刀身から指先に伝わってきている。
いい気持ちだ。
一つが斬られるのに気づくと、もう一方が善三を置き去りにし、同じように飛び掛ってきた。
これも、返す刀で一太刀で討ち払った。
目の前の黒き者を倒すことより、野口は自身の腕が、少しも鈍っていないことに安堵していた。
雪の上に横たわる二体の屍を見下ろす若者は、少し自分に酔ってしまっていた。
「旦那、相変わらず凄えじゃないですか」
とりあえず自分が生きていることを確認するように、体中をさすりながら善三が立ち上がり、石版の入った包みを抱えながら安堵の笑みを顔いっぱいに浮かべ近づいてきた。
「善さん、大丈夫かい」
「へい、あっしは大丈夫です・・・それより、何なんですかね、こいつら・・・」
「む、魔物か人かは判らぬが、まあ、どこかの忍びの類のものであろう、とにかくこの石版には、かなり大事があるのであろう」
「・・・本当に物騒なもんを、拾っちまいましたね・・」
「それも、届けてしまえばそれも終わるだろう、さあ、少し遅れてるようだ、急ごう」
「へい」
そういって、足早にその場を離れようとした二人の背後に、二人とは別に雪を踏む音がした。
(そんな・・・馬鹿な!)
一度鞘に収めた刀の柄に、今一度手をかけ振り返った野口は、声にならない声で呟いた。
「少し、甘く見たようだな」
切り捨てたはずの者達が、立ち上がるのと同時に、野口が刀を抜くより早く、下段よりの一線が放たれた。
瞬時に身を翻した野口ではあったが、右の肩口を斬られてしまう。
「旦那~」
「大事無い、かすり傷だ・・・それよりも心してかかれよ、本気で殺しにくるようだ。善さんは隙を見つけて、お屋敷まで走れ」
「そ、そんなできやせんよ」
「何とかせねば、ここで殺されるだけだぞ!」
袖口より血の筋が流れ出した右腕で、刀を引き抜きながら、善三に檄を飛ばした。
「わしらに傷をつけるとは、もてなしを受けた礼は、たっぷりとおかえししてやらねば」
くぐもった声はそう告げると、真っ黒になっている空へ飛び上がる。
その姿を追うように頭上を見上げた野口は絶句した。
周りを暗く闇に落としていたのは気のせいなどではなく、闇鴉と名乗る先程の者どもが、何体も羽根を広げ空を覆っていたのだった。
「走れ!」
流れ落ちる血に指図されるように、絶望的な危機を感じた野口は、叫びながら善三の背を押した。
駆け出した二人ではあったが、黒き疾風が渦を作ると、瞬く間に闇に飲み込まれてしまった。
「・・・これまでか・・・」
地面に大の字にされ、鉤爪で四肢を押さえつけられ野口は黒き天空を仰いだ。
横で、同じように身動きをとれぬようにされた善三は、目もあけられない様子で、お経のような言葉を、何度も繰り返していた。
「よい腕をしているが、まだまだ甘いようだ・・・されど、貴様の腕は使えそうだ、よき同士になれるであろう・・・・お前は、いらんようだ・・ここで殺すとしよう・・・立たせろ」
善三の四肢をつかんでいた闇鴉の二人が、善三の両脇を持って引き上げる。
背の小さい善三は、地面に足が付かず、宙吊りになってしまっていた。
「まだ死にたくねえよ~、旦那~助けて下せえよ~」
いい歳をして半べそを掻きながら、駄々をこねるように手足をばたつかせながら叫んだ。
その拍子に、手にしていた十手が、右側の闇鴉の被り物に当たった。
「ほぎゃ~~~ぉ」
被り物隙間から見えた魔物の素顔を見た善三が、どこから出したのか判らない叫び声をあげた。
「そう、我らは死人。よって、普通の刀で斬られようと死にはせぬのだ」
そう言いながら、善三に刀を向けていた一人が被り物を取った。
そこには、どこまでも続く闇のような黒々とした穴が二つ開き、その奥に炎をたぎらしたように赤々と燃える目がのぞき、口元からは牙のように伸びた犬歯を光らせ、にやついた髑髏があった。
月明かりが覆っていた黒き者の間から漏れ出し、その姿をより怪しく浮き上がらせた。
信じられないといった表情で、言葉をなくした二人に、微笑みの髑髏は、
「何も案ずることはない・・こいつはそのまま死んでもらうが、きさまは一度死に、我らの同士として、蘇らせてにらえるのだ。だから安心して死ぬがよい」
善三に向いていた刃先が、押さえつけられている野口の心の臓へと狙いを定めた。
突きのような構えを取ると、その刃先が一線をひいた。
《ズブギュワ~ン》
「ぎょぇぇ~~~~~ん」
すさまじい音とともに斬られたのは、刀を構えたままの髑髏であった。
斬られたというよりも、脳天から真っ二つに裂かれた後、一瞬にして灰となった体は、
流れ込んだ北風に運ばれ、影も形もなくなっている。
自身が斬られると思い、閉じてしまった目をゆっくり開けた野口の前に、やはり黒き装束で身を包み、刃が青白く光り輝く刀を振り下ろしたままの姿で見得を決めている男が立っていた。
そしてその男の後ろに、同じ装束のものが二人が、控えるように跪いていた。
体系から、ひとりは若者、もう一人は女子のようであった。
「おのれ・・またも貴様らか・・・やってしまえ」
「ウギャ~オン」
獣のような咆哮を上げながら、闇鴉たちは光る刀へ一斉に飛び掛った。
「裁け!」
光の刃の男の指示に、ほかの二人も光る刀を抜いた。
三体が同時に上空に飛び上がり、男目掛けて飛び込んだ。
男は横一線に刀を振る、その刹那、刀身が鞭のように伸び、美しい弧を描くと、向かい来る上空の三体を、一瞬に切り裂いてしまい、あとには雪のごとき灰がゆっくりと舞い落ちてくる。
もう一人の若者は、刀身を二つに分け、眼前に並んだ四体を串刺しにし、闇を払ってっている。
そして、最後の一人の女子は、闇鴉のそれをも超える跳躍をみせると、はるか頭上より雹が降るかのごとく、手にした青白きクナイを投げ下ろし、残りの闇鴉の眉間に突き立てた。
全てが灰と化すのを見届けると、クナイに縛り付けてある糸を引き、ヨーヨーのように手元に戻すと同時に、地に足をつけた。
美しき光の線が暗闇を動き回り、化け物たちの叫び声だけを残し、全てを無とした。
「旦那、大丈夫ですか」
懐から手ぬぐいを出し、血の滲み出した野口の右肩を善三は縛った。
「おお、すまんな、善さんは怪我はなかったかい」
「へえ、あっしはこの通り、何でもねえです」
お互いを気遣う二人の前に、三つの影が跪いてた。
素性のわからぬ者たちではあったが、殺気は微塵もなく、むしろ一息つかせてくれる気配さえ感じさせてくれる。
「危ういところを、かたじけない」
傷口を押さえながら、先頭のものに向かって、野口は声をかけた。
「我らはただ、我らの頭の命に従いしだけのことにございます。その石版をあ奴らに渡してはなりませぬ、渡さばこの世が大変なことになりましょうぞ」
「それは、どう言うことだ」
「詳しきことは、今は何も申し上げられませぬ、我らが頭が戻りませば、必ずやお話申し上げます、それまで、どうかお待ちいただけませぬか」
「・・・・・そうか」
「されば、そちらの石版とクルスは、我らがお預かりいたします」
「それは、柳沢様へお届けせにゃならんの・・・・です
石版を今一度強く抱えた善三が慌てて答える。
「・・・・それも・・・頭とやらの命なのか?」
「さようにございます」
「よし判った、持っていくがいい・・・ところで、ぬしらは、どこの忍びの者だ?」
「我らは忍びではござりませぬ・・・黒衣集と・・呼ばれております」
その声が終わるか終わらないかという間に、旋風に巻かれる木の葉のごとく、三つの影は闇の中に消えてしまっていた。
「旦那、渡しちまった、よかったんですかい?」
「うむ、奴らが何者かは判らぬが、闇鴉とやらに比べたら、託してもよいと思えたのだ」
「思えたのだじゃありやせんぜ、柳沢様にはどう申し開きするおつもりですかい?」
「うん?そのままだ」
「え?」
「賊に襲われた、奪われてしまったと、傷まで負っているのだから、疑われずに済むだろう」
笑みをもらしながら人事のように話す野口を、呆れたように善三は見ていたが、恐怖から開放されたこともあって、しまいには一緒になって笑ってしまっていた。
子の刻を告げる鐘の音が、寒々とした冬の町に響き渡った。
闇の中へ消えていった三つの影の行方を追いかける、もうひとつ別の影も、野口たちが歩き出すとの同時に、響く鐘の音の中を動き始めた。