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 時は元禄、将軍綱吉が「生類憐みの令」を発布し、柳沢吉保が御側用人登用され、世の中の雰囲気が大きく変わろうとする波が立ち始めていた。

 その波は、大海原に小石を投げいれた時のような波紋にすぎぬほど小さく、人々は何も気づくことなく日々の営みを送っていたが、ゆっくりとその広がりを広げていった。


 細かく肌にぬめりつくような雨が降る日暮れの川沿いの道を、まるで何かに追われているかのように、何度も振り返りながら一人の男が走っていた。

 商人らしき身なりの男は、編み傘をかぶり、薬屋のような木箱を大事そうに背負い、首からかけた手拭いで、顔に絡みつく滴をぬぐって走っている。

まだ、正月を過ぎて半月だというのに、空気は妙に生温かく、梅雨を思わせる感が漂っていた。


(俺の素性が知れてしまったのか、いや、そんなはずは無い・・・)


 男は先ほどから背後に押し寄せる、ただならぬ気配に対し、己に問いかけながら先を急いだ。

 しばらく進むと、川沿いにある宿屋の明かりがぼんやりと見えた。やっと人気のある場所に辿り着けたと、男の中に安堵の気が溢れ出していた。

と同時に、背後からの邪気も消え、気のし過ぎだったかと、男は歩をゆるめながら宿屋の灯へ向かっていった。

 もうすっかり日も暮れ落ちたというのに、旅籠には人の往来が絶えず、賑わいはまるで品川のそれを思わせるようなものであった。


(このような場所に、こんなに華やいだ宿場があったとは・・・)


 あまりの華やかさに少し気を回す男ではあったが、先程までの抑圧から解放された事もあり、一夜の宿を何処にするかと辺りを見回していた。


「いらっしゃいませ。お泊まりはこちらへ」


 旅籠の真ん中あたりから、ひと際甲高い女の声が響き渡っている。男はその声のほうを探した。

 そこには目を引くほどの美人という感ではないが、なんとも男好きのする色っぽい体が、提灯の薄明かりに浮かび上がっていた。


「旦那、どうぞうちにお泊まりを・・どうぞ、どうぞ、おひとりさまご案内」


 少しうるみに満ちた瞳に誘われるがまま、男はその娘の宿屋へ泊ることに決めた。

 草鞋を脱ぎ、足を洗い、先立つ女の跡を、宿の奥の方へ入っていく。


「どうぞ、こちらの部屋へ・・・すぐに食事になさいますか?・・・はい、すぐお持ちします」


 そう言って、女は来た道を戻って行った。

 部屋へ案内され一息ついた男は、はじめてこの部屋がおかしいことに気がついた。何かと言われると言い難いが、とにかくおかしいのである。


(まさか・・・・罠をしかけられたか・・)


 懐に隠し持った匕首の柄に手をかけ、気配を伺っていた男のもとに、先程の娘が膳を持って入ってきた。


「おまたせしました・・・そんな怖い顔して、何かありましたか?」


 男の思いを打ち消すように、明るい声で女はおひつから茶碗にご飯をよそっている。


「旦那はどこまで行かれるのかい?こんな空模様じゃ、どこへ行くにも気味悪くて近頃お客も減っているんですよ」


 酒の盆も用意しながら、障子の間から見える空を、恨めしげに見上げた。

 娘の話が本当であるならば、この旅籠の賑わいはどういうことかと、部屋のおかしさといい、男は腑に落ちない顔をしている。


「雨が続いていますので、いい物が入ってこなくて・・大した物はございませんが、ゆっくりしていってくださいな。まずはおひとつ」


 疑心を払えない男ではあったが、女が妖艶な肢体が近づけながら、小ぶりの徳利を傾けられると受けざるを得ず、一杯二杯と続けざまに杯を重ねていった。


「ひとつ聞くが・・・雨の音の他に水の流れる音が聞こえるのだが、いくら川が近いとはいえ音が大きすぎるのではないか。なにか仕掛けがあるのか?」


「あまり長く雨が降り続けられるのも困りますが、私ども一族は水がないと生きていけぬのです。ですので常に宿の中を水を通しているのでございます。」


「・・・一族とは・・」


「まあ、そんなことは気にせず、どうぞ」


 女は一瞬口元に笑みを浮かべて、男に酒を勧めた。

 酒にはめっぽう強いはずの男ではあったが、徳利を三本空けたところで天井が回るほどの酩酊状態になってしまっていた。


「ここにおって、ほかの客はよいのか?俺ならば、もうひとりでよいぞ、先程のように呼び込みもせねば」


 その様子を悟られぬよう、早く独りになり正気を取り戻さずばと女に声をかける。


「他にお客なっていませんよ。それにこの雨じゃ、もうお客なんて来やしませんよ」


 先程のように空を見上げながら呟く女の目には、先程とは違う淫猥な光が浮かんでいた。

 柔らかそうな丸みのある腰が動き、行灯の灯りを消すと、布団の敷いてある奥の部屋へと歩みを進めていった。


「何をする」


「旦那もわかっているくせに」


 暗闇の中、帯を解く音とともに、誘うようななまめかしい声が聞こえた。


「よせ、俺はそのようなつもりはない。明日も早い。悪いが下がってくれ」


 うつろな頭の中、このままではマズいと悟る男は、それでも威厳のある声を出した。


「女がここまでしているんですよ。旦那もさあ」


 男の言葉など、全く聞かぬ素振りの女が、一糸まとわぬ白き柔肌を浮き上がらせながら、こちらを振り向いた。


「待て」


「いえ、待てませぬ・・・この雨でいい獲物を口にしていないと申し上げたはずですよ」


 笑みを含んだ低くなった声のする方に男が見たものは、口が大きく裂け、鮫のような鋭い歯が並び、肌は鎧をまとったようにごつごつした隆起に覆われた生き物であった。


「謀られたか・・・体が・・薬を盛りおったか!」


 慌てて印を組もうとする男を激流が飲み込む。

 旅籠の景色はすべて術によって、大河の中に作られた幻影であった。

 次々にまるで生き物のように押し寄せる激流の中、常に傍らに置いておいた木箱を掴み、抱え込むことがやっとの様子だった。

 流れの中でもがく男は、己の愚かさを悔いたが、今は何をなすべきかと腹をくくった。


「私は裏十二支がひとり、あざみ・・・きさまがどんな術者であっても、この中では勝ち目はないよ。さっさとその箱を・・石板をお渡しよ・・・そうすれば、少しは苦しまないように食いつくしてやるよ、ククク!」


 川底の中に不気味に光る二つの眼が、そう言いながら男の周りを渦を作るがごとくぐるぐると回り始め、その動きを速めていった。


(わしとて、雷の伊蔵と呼ばれし男、ただでは死なぬ、ただでは・・・)


 男は抱えていた箱を流れに放り投げると、懐の匕首を鞘から引き抜くと、異形の魔物へ挑みかかった。


「馬鹿なお人だよ」


 薄笑みを浮かべる魔物は、風に吹かれる木の葉のような動きと速さで男に近づくと、まるで子猫が玩具をいたぶるかの様に、鋭い牙と爪を振り回し、男を八つ裂きにしていった。

 身体中より血筋を垂れ流し、川底へ落ちていく男は、最後に何かをささやいたと思ったら、そのまま息絶えた。

 落ちていく男の姿を光る眼が捉えたと思った刹那、異形の魔物は大口をあけ、男のわき腹に噛みつくと、一気に川底まで引きずり込んだ。

 血筋は川面に浮かび上がったが、すぐにそれも消え去り、穏やかになった川が何もなかったかのように静かに流れていた。


「歯ごたえのない男だね・・・」


 あざみは血肉を口元から垂れ流してはいたが、人の形に戻っていた。

 男の放り投げた木箱はを探すと、川中の小さな岩に引っ掛かっており、得意の薄笑みを浮かべ、木箱を掴みに行った。


「これで、我らが思いにまたひとつ近づいた」


 高らかと声を上げ、箱の手かけを掴んだ刹那、異変は起こった。

箱はすさまじい閃光を放ち、あざみの頭上に打ち上がると、真下に向かって稲妻を走らせた。


「ぎゃううういぃぃぃぃ~」


 箱に向かって延びたあざみの腕めがけ落ちた稲妻は、全身を伝い走り、まるで火龍放つがごとく火柱をあげ、あざみを炎で包み込んだ。

 悲鳴を上げ体を焼かれた魔物は、体中からどす黒い血筋を垂れ流しながら、川底の暗闇に逃れるほかすべはなかった。


「未熟者め」


 屍となり川底に朽ち果てていた男の顔が、不敵な笑みを見せたように見えた。


 男は、魔物ではなく箱に術をかけていたのであった。

 主を亡くした箱は、宙から川面へまた落ちると、そのまま下流の方に流されていった。


 月は傾き、凍えた川原に朝日を迎えようとしていた。

川面に見える水草も、川魚をついばみにきた水鳥たちも、いつもの朝をむかえていた。

 ただ、何かのしるしのような入れ墨の入った食いちぎられた足が、水草の中に絡まっていることは、まだ誰も知らずにいた。










 



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