紗耶姉との密会
「ちなみに、もう一人の先生っていうのは?」
俺がそう尋ねると、沙耶姉は少し懐かしそうに目を細めた。その表情は、どこか懐かしい記憶をそっと撫でるようで、少し大人びて見える。
「その先生はね。私が進路に悩んでたとき、相談に乗ってくれた人なんだ」
少し照れたように笑いながら、続ける。沙耶姉にもそういった頼れる先生がいたんだなと思うと、胸の奥がほんのり温かくなる。
「私って容量悪くてさ。そんな私が人に教えられるのかなって、ずっと悩んでた時期があったの」
そう話す沙耶姉の表情には、わずかに悔しさと不甲斐なさが入り混じっていた。それでも、俺から目を逸らさず、まっすぐに言葉を紡ぐ。やっぱり強いな、沙耶姉は。俺も気を引き締めて聞く。
「でもね、その先生が背中を押してくれたの。それだけ誰かを想える君なら大丈夫だって。だから、同じ教える仕事なら、昔の私みたいに悩んでる生徒の背中を押してあげられる人になりたいって思ったんだ」
優しくて、どこか切ないその笑顔に、彼女がその先生を心から尊敬しているのが分かった。――その眼差しは、憧れにも似ていて。でも、どこか恋する女性の様にも見えてしまった。
「……その先生って、男の人だったりする?」
「うん、そうだよ」
「なるほどね」
俺は頷きながらも、胸の奥にざわつきを覚える。いやいや、他意はないでしょ。憧れの先生的な位置であって、恋愛ではないよね。
「もしかして、俺も会ってたりして」
なんて軽く告げてごまかそうとしたのに、返ってきた言葉はむしろ追い打ちの言葉だった。
「確かに会っているかもね、佐山先生は3年担当だけど、今でも色んな生徒の話を聞いているし」
「……ああ、佐山先生ね。確か四十代後半くらいの」
「そうそう。頼りになるし、女子からの人気も高いんだよ。信頼できるって」
「へぇ、なるほど。それなら納得だな」
そう言いながら、俺はどこか複雑な気持ちを押し隠す。別にショックではないよ、いや本当に、ね!沙耶姉は俺の変化を感じ取ったのかどこか、心配そうにこちらを見つめていた。
「どうかした?」
「いや、なんでもない。……いい話だった。すごく参考になった」
「それならよかった」
彼女が柔らかく笑う姿を見て、俺は小さく息をつく。――頼りになるって部分では、負けたくないな。気づけば、心の中にひとつの明確な目標ができていた。他の人について相談をしにきたのに、今は自分のことで相談をしたくなってくる。当人相手には言えるわけないのだけれど、ね。
「ちなみに、沙耶姉は佐山先生と付き合いたいと思ったり?」
その問いに、沙耶姉は目をぱちりと瞬かせたあと、ふっと柔らかく笑った。
「そういった気持ちは全然ないよ。どちらかというと第二のお父さん的な?あ、本人には言っちゃダメだよ」
人差し指を唇に添えて「内緒ね」と仕草で示す。その様が凄く似合っていて、思わず見惚れてしまう。その姿が眩しくて――もし、これを他の生徒にやったら、絶対に好きになってしまうだろう。そんな危機感のようなものに頭を悩ませる。
沙耶姉は、自分の魅力にまるで自覚がない。桜花麗清の“6大美女”に名前が入るほどなのに、本人はどこか抜けている。もっと自分が魅力的な女性だって気付いた方がいい。
そんな俺の内心など知るよしもなく、的外れなことを聞いてくる。
「もしかして、連君が私にそういった話題を振るのって、桜ちゃんか望未ちゃんのことが好きだから?」
「いや、二人に恋愛感情はないよ」
「そうなんだ……てっきり、そういった話だと思ったんだけどな。連君はそういった人いないの?」
「いないよ……それに沙耶姉だって分かっているでしょ。俺にそんな余裕がないって」
言った瞬間、沙耶姉の表情がかすかに揺れた。長く一緒にいるから分かる、小さな変化。悲しい時、表面上は笑っているけれど、口元を一瞬だけ引き締めてしまう。彼女の癖のようなものが見える。その表情を見ていられなくて、俺は慌てて続ける。
「ほら、それに俺と桜や望未では釣り合わないでしょ?二人とも可愛くて努力家で、輝いているから」
自嘲気味に言うと、沙耶姉は首を傾げつつ答える。
「そうかな?少なくとも私は君なら安心できるよ」
「……それは沙耶姉としても?」
「え、うん。そうだけど……」
その素直な返答に、思わず頬がゆるむ。分かってる。これは恋人的な意味ではないって。沙耶姉の“信頼できる後輩”への言葉だってことも、ちゃんと分かっている。
それでも、認められるのは、やっぱり嬉しい。胸の奥で小さな灯がともるような感覚に、気付いたら笑みが零れていた。
「嬉しそうだね」
「うん。沙耶姉に認めてもらえるのは安心する」
「どうして?」
「沙耶姉の言葉っていつも誠実でさ。嘘がないっていうか……ちゃんと人を見てくれてるから。だから、沙耶姉にそう言ってもらえると、ほんとに救われる」
沙耶姉の頬が、ほんのわずか赤くなったように見える。ただ、それを誤魔化すように微笑む姿は、やっぱり可愛らしい。
「沙耶姉も困ったことがあったら絶対に言ってね」
「うん。分かった」
沙耶姉の笑う姿に釣られながら、今日の相談を終える。
「天城先生もありがとうございました」
そう告げると、「はいはい」と言うように手をひらひら振って返される。俺はふたりに深く一礼し、保健室を後にするのだった。
***
「あの子、紗耶香のこと好きなんじゃない?」
「そんなことないと思うけど」
紗耶香は、いつもの調子で軽く返す。でもその横顔は、他の生徒の時に見せるような反応ではなくて、少しだけ嬉しさが滲んでいた。きっと、本人は気づいていないだろうけれど……
「だって、連くんの周りにはいつも素敵な女性がいるんだよ」
「そうかな」
「うん。そう」
そう頷く彼女は、年の離れた弟を見守るような優し気な眼差しをしていた。けれど、その優しさの奥に、とても小さな諦めのような影が落ちているのを私は見逃さなかった。
「私から見ていると、少なからずあの子はあなたに恋――もしくはそれに近い感情を抱いてる気がするけど」
そう言うと、紗耶香はふふっと微笑んだ。まるで「そんなはずない」と言い聞かせるような、どこか苦い笑みを浮かべる。
「それはないよ。だって、彼と私の間には8歳差あるんだから」
「彼が4月で紗耶香が3月だから、正確には7歳差くらいでしょ?今の時代じゃ普通だと思うけどね」
「それもあるけど……桜ちゃんや望未ちゃんがいるんだよ。私じゃ敵わない」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。彼女自身は気づいていないだろう。敵わないと口にするということは――ほんの少しでも、自分が恋の土俵にいる可能性を考えているってことに。
紗耶香が彼に伝えたように、その気持ちに向き合って欲しくて、私が思っている気持ちを伝える。彼女の目を見て真剣に。
「私は、彼女たちと張り合うくらい……いいえ、紗耶香の魅力は彼女たち以上だと思ってる」
真正面からそう言うと、紗耶香は困ったように眉を寄せた。
「身贔屓が過ぎると思うな…それに、あの子もいるんだよ」
「あの子?」
問い返すと、紗耶香は一度目を伏せ、言葉を選ぶように視線を泳がせた。迷い、答えを探し、胸元でそっと腕を組む。その動きにつられて大きな胸がふわりと揺れ、思わず視線を奪われてしまう。
――あの子、よくこれで一回も視線がいかなかったなと感心する。同性の私でさえ目線がいってしまう。それに、他の男子生徒はもれなく見ている。もしかして、本当に姉として慕っているだけなのだろうか?いや、こんな魅力的な女性を前にして、本当にありえるの?などど考えていると……
「プライバシーにも関わるし、教えられないかな」
柔らかく微笑みながら、教師としての節度を保った一言を返される。個人情報には厳しい。そういうところが、いかにも“先生らしい”と思う。でも同時に、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないか、とも思ってしまう。だって彼女は、周りがどう見ているか、まだ分かっていないから。
多分、紗耶香自身。自分が思っているよりずっと人気があることを理解していない。多くの生徒が本気で紗耶香に好意を寄せているってことを。
特に初年度の頃は、不器用にアタフタする姿がかえって人気を集めていた。彼女は知らないだろう――SNS上では“親衛隊”なるグループがひっそり作られていることを。まあ、バレないように動いてるあたり、男子生徒たちも抜け目ない。
そんなことを考えながら、ついそのトーク画面を開いてしまう。――もしこの子たちが、今の紗耶香の表情を見たらどう思うだろう。ちょっとした悪戯心が胸をくすぐるが、それはやめておいた。さすがに、好奇心よりも親友の気持ちを優先すべきだから。
(にしても、連くん……か)
その名前を口にした瞬間、胸の奥に小さな警戒心が芽生える。桜さんに続き、望未さんとも仲がいいという。そして、密かに人気がある千夏さんとまで親友と呼べるほどに親しい。多くの女生徒の心を静かに惹きつけながらも、本人はまるで何でもないように振る舞っている。それが、かえって恐ろしい。
表面上は興味がないふりをして、裏では遊んでいるなんて生徒を何人も知っている。だからこそ、私はSNSを監視しているのだが――彼からは今のところ、ボロが出ていない。
「ねえ、紗耶香に聞きたいんだけど。あの子って、今まで誰かと付き合ったことないの?さすがにあれだけモテるんだし、一人や二人くらいいるでしょ?」
「うーん……どうだろう。少なくとも私は見たことないかな。話も聞かないかな。でも、いる可能性は否定できないかな。告白されたって話は聞いたことあるから」
「二人きりでいるところを見たとか?」
「いや、それはないけど」
――けれど、ないとは言い切れないって感じか。
「沙羅ちゃんも連君のことが気になる?」
「あれだけ注目を集めていればね」
「確かに、そうだね」
そう告げる彼女の表情はどこか遠くを見ていて。嬉しそうに微笑んでいた。私はその様子を見て、彼女が傷つかないように動こうと、より一層気を引き締めるのだった。




