連が憧れる人
望未への勉強を教える機会が、一段落ついた頃、俺は保健室を訪れていた。
「沙耶姉、今回はありがとね。それと……報告が遅くなって、ごめん」
「別に気にしてないよ。メールでは連絡してくれたでしょ?」
「まぁ、そうだけど、こういったことは直接話したいから」
そう告げると、沙耶姉は優しげな笑みを浮かべながらこちらを向き、俺の頭を撫でてくれた。手の温かさに自分でも安心するのが分かる。
「今回もよく頑張ったみたいだね。担任の先生から話は聞いてるよ。職員室で嬉しそうに話してたから」
担任がそんな表情をするのはあまり想像できなくて、思わず笑ってしまった。あの人も、そういった話をするんだな。
「嬉しそうだね」
「それは嬉しいよ。担任の先生に認めてもらえたのもそうだし――なにより、沙耶姉に褒めてもらえたことがね」
言いながら、自分でも少し照れを感じる。でもそれが本音だった。少し年上のお姉さん。もし自分に姉がいたらって思うと、真っ先に頭に浮かぶのは沙耶姉だった。優しく見守ってくれて、沈んだ時は静かに照らしてくれる。ダメな時には、さりげなく背中を支えてくれる存在。――家族とも友達とも少し違う、不思議な関係だなって思う。
少し感傷的になるのはきっと、みんなとの思い出をアルバム越しに見たからだろう。だから少しだけ、沙耶姉と出会った時のことを思い返して、妙に胸が温かくなった。
「ほんと、いつもありがとね、沙耶姉」
「どうしたの、急に」
沙耶姉は戸惑ったように目を瞬かせつつも、優しく笑ってくれた。
「友達を家に招いてさ。その時、アルバムを見たんだよ。それで少し、沙耶姉と出会った時のことを思い出してた。なんだか、不思議な縁があるなって。そう思って」
「確かに、幼稚園の先生の“その妹”って立場は、ちょっと独特だもんね」
くすくす笑う彼女の雰囲気が、いつもどおり柔らかくて……その空気に心が癒されていく。
「そういえば、転校してきた望未ちゃんって……幼稚園の時の?」
「うん。そうだよ。よく分かったね」
「姉さんが嬉しそうに話していたの。連君がその子をみんなと繋げたって。年の取った私じゃできないって、久々に興奮した姿を見たな」
そう、過去を懐かしむ様に沙耶姉も優し気な笑みを浮かべている。
「摩耶さんだったら何とかしそうだけどね」
「それは言えてるね」
そう言って二人して笑いあう。摩耶さんは、自分があった中でも、先を読んだり、場の雰囲気を良くするっていう点では群を抜いている気がする。時々、どこまで見えているんだろうと、不思議に思うほどに。
「望未ちゃんは元気だった?」
「うん。元気だった。まぁ、それどころか学校中から注目されてるんだけど」
「私の方まで伝わっているね。かなりの人に告白されているって」
「意外にも、先生の間でも噂が広がったりするんだね」
「もちろん。生徒間同士で問題が起こらないように気を張っているだよこれでも」
そう言って胸を張る沙耶姉は可愛いけれど、同時に少し心配にもなる。沙耶姉は、誰かのためにどこまでも無理するタイプだから。
「沙耶姉の方は激務だったりしない?」
「うん。大丈夫だよ」
そう笑顔で答えてくれる。いつも無茶をするからこそ、助けたいと思うんだけど……現状で俺ができることなんか少ない。この状況で相談するのは悪いと思いつつも、相談する。
「桜や望未含めてさ、もし上級生からの圧力が多くなった時は助けてもらってもいい?」
「うん。もちろんだよ。私にできることなら協力する」
その優しさに甘えてばかりで、申し訳なくなる。でも、ここで余計に心配させちゃ悪いから、俺はいつものように口を開く。
「沙耶姉も俺の手助けが必要だったら言ってね。義妹の次に優先するから」
「そこは涼花ちゃん優先なんだね」
「もちろん。そこだけはブレない」
堂々と胸を張る俺に対して、ふんわりとした柔らかい笑みを浮かべる。
「そこが連君らしさだもんね」
そういって俺のことを認めてくれる。沙耶姉が認めてくれるからきっと俺はここまでこれたんだと思う。涼花が信頼されるように頑張れたのも、途中で挫けても前を向けたのも、きっと沙耶姉が支えてくれたからだ。
「連君の方は、高校に入ってから目標とかできた?」
「えっと、進路含めてってこと」
「うん、そう」
沙耶姉は口元に笑みを浮かべながら聞いてくる。その表情は俺の悩みを真剣に聞いてくれている時そのもので、俺もしっかりと考える。
確かに沙耶姉は高校の時に自分の進路に迷いながらもしっかりと教師になるという道を選んで実現した。俺はどうしたいのだろうか?順当にいけば父さんの会社を継ぐという選択肢はある。一応は必要な経験は積んできた。
だけど、それをしたいかと言われると違う気がする。要は自分がどう在りたいのか、ということだろう。
「今のところ全然思い浮かばないかな。沙耶姉はどうして教師になりたいって思ったの?」
幼い頃から側にいてくれた彼女のことだからこそ、気になる。沙耶姉ならどんな職業でもやっていける――そう思っていたからこそ、気になった。なぜ数ある選択肢の中から“教師”を選んだのか。
沙耶姉はにっこりと柔らかい笑みを浮かべ、まっすぐ俺を見つめながら答えた。
「私が教師になったのはね、やっぱりお姉ちゃんの姿に憧れてたのと……それに、学校の先生たちにすごく感謝してるから、かな」
「摩耶さんに憧れ、か」
それは、俺にとっても一番腑に落ちる言葉だった。俺が"誰かを助けたい"と思えたきっかけも、摩耶さんの影響が大きい。母を亡くして、周りに反発ばかりしていた俺に、真っ直ぐ言葉をくれた最初の女性。彼女の周りにはいつも笑顔があって、俺はその光景が好きだった。
もしかすると、彼女に母の面影をどこか感じていたのかもしれない。
「俺も摩耶さんに憧れて、真似してたっけな。悩むたびに相談してた」
そう言いながら、懐かしい記憶が、ゆっくり浮かんでくる。
「俺は摩耶さんの、誰にでも分け隔てなく向き合って、導いてくれる姿にあこがれていたな。ちなみにさ、沙耶姉は摩耶さんのどんなところに憧れたの?」
「うーん……やっぱり、お姉ちゃんの周りに笑顔がたくさんあったことかな」
少し照れたように笑って、沙耶姉は続ける。
「それに、何でもできちゃうところ。一人で何でも解決しちゃうお姉ちゃんは、私にとってヒーローみたいな存在だった。――現実の私は全然ダメダメなんだけどね」
「そんなことないよ。俺にとっての沙耶姉は、摩耶さん以上のヒーローだよ。だからいつも頼っちゃって、申し訳ないって思うんだけど」
そう言うと、彼女は小さく首を振って微笑んだ。
「そうでもないよ。私もね、誰かに頼ってもらえるのは嬉しいんだ。……それに――」
一瞬言葉を詰まらせて、視線を逸らす。
「――ううん、なんでもない」
そう言って首を横に振る沙耶姉の横顔は、どこか照れくさそうで、優しかった。夕陽に照らされたその表情は淡く光ろ、全てを包み込む姿は、おとぎ話の聖女を連想させた。
もし俺が敬虔深い信徒だったなら、彼女を信仰していたんだろうな。そんなことをふと思った。




