試験終了
翌朝。昇降口を抜けた瞬間、校舎内の空気がいつもと違うのを肌で感じた。廊下に響く足音、紙をめくる音、ひそひそと交わされる最後の確認。中間試験独特の、静かで、どこか張り詰めた雰囲気が学校全体を覆っている。
(……いよいよだ)
胸の奥で心臓が一回、大きく鳴る。教室に入ると、皆が自分の席で参考書やノートを広げ、最後まで詰め込もうと努力をしている。
この光景が好きだなと素直に思う。最後まで諦めないその姿に感化され、俺は笑う。担任が入ってきて、ホームルームが開始される。皆、どこか宙に浮かんでいる様に、別のことを考えているのがわかる。
担任もそれを察して、短く話を終わらせた。最後の確認をしていると、担任と入れ替わりで別の先生が入ってくる。俺の机の上にシャーペンと消しゴムを置いて準備をすませる。余計な資料はすべて鞄にしまった。準備はもうできている。
試験用紙が配られる。その間、時間が妙にゆっくり流れているように感じる。シャーペンを握る手がわずかに汗ばんでくる。
「――では、始めてください」
試験管の声と同時に、静寂が落ちた。カリカリと鉛筆やシャーペンが紙を擦る音だけが響く。
(……まずは全体を見渡して)
問題の流れをざっと確認する。見た瞬間に解けるもの、時間がかかりそうなもの、そして後回しにすべきものを瞬時に振り分ける。焦らず、でも淀みなく。
一問目に取りかかると、周囲の気配が遠のいていく。文字を読み、計算を重ね、答えを記すたび、頭の奥のどこかが研ぎ澄まされていく。時間の経過は早い。残り十分の合図が鳴ると、最後の見直しに入る。迷った問題に付けておいた小さな印を頼りに、解答を再確認する。
「――そこまで」
用紙が回収され、張り詰めていた空気が一気に緩む。けれど、まだ終わったわけじゃない。一科目ごとに勝負は続く。休憩時間。俺は机に突っ伏すことも、無闇に参考書を開くこともしなかった。
水を一口飲み、窓の外を見る。脳を休ませるために、意識的に頭を空っぽにする。次の科目に備えるためのリズムを崩さないように。
「連、どうですか?」
声をかけてきたのは有明だ。
「上々だな。そっちは?」
「悪くないですよ。……面白くなってきましたね」
彼の余裕ある笑みに、俺も口角を上げる。次は――本命の科目だ。深呼吸をひとつして、再び席に着く。
(ここからが本当の勝負だ)
そう心の中で呟きながら、二度目のチャイムを待った。教室のざわめきが完全に消える。担任が試験用紙を配り始めた瞬間、胸の鼓動がひとつ早まる。本命の科目――この勝負の行方を大きく左右する戦場だ。
用紙を受け取り、まずは全体を一読する。……悪くない。過去問で押さえておいた範囲が、予想通りいくつも出ている。だが、それは俺だけではない。
遠くの席で夢咲さんが淡々とペンを走らせる。有明も順調そうに問題を解いているのが分かる。二人とも、この瞬間に全力で集中している。
(――負けられない)
一問一問、確実に埋めていく。頭の中で過去問の解法パターンと照らし合わせ、瞬時に選択肢を絞る。計算問題では、途中式を丁寧に残し、見直しの時に迷わないようにした。
そんな中、難問に差し掛かったとき、一瞬ペンが止まる。視界の端で、夢咲さんの眉がかすかに寄るのが見えた。同じ問題で詰まったのか――そう思った瞬間、背筋がぞくりとする。これは正面からの勝負だ。
時間との戦いの中納得がいく回答を紙に綴る。残り五分を切ったところで、迷っていた問題に区切りをつける。見直しに移りながら、自分の答案に抜けがないか慎重に確認する。そして、終了の声。
……終わった瞬間、肩から重しが落ちたように呼吸が楽になる。だが油断はできない。今日はまだ科目が残っているし、勝負は最終日まで続く。
午後の科目も淡々とこなし、その日の試験がすべて終了した。帰り支度をしていると、廊下で千夏が手を振ってきた。
「お疲れ様!」
「そっちもな」
中里さんもにこやかに頷き、二人揃って「明日も頑張ろうね」と声をかけてくれる。その声に背中を押されるように、俺は教室を出た。その日の空は、やけに澄んで見えた。
***
家に帰ると、涼花がリビングのテーブルにノートと参考書を広げて待っていた。
「おかえり、お兄ちゃん。どうだった?」
「悪くない。……でも、まだ終わりじゃない」
俺の返事に、涼花は微笑んで席を詰める。
「じゃあ、今日もやる?」
「ああ。明日の科目をお願いしてもいいか」
「任せて!」
妹が用意してくれたプリントには、俺が苦手な分野を徹底的に詰め込んであった。問題ごとに小さなメモが添えられていて、視点や解き方のヒントが短く書き込まれている。それを読み解きながら、時間を忘れてペンを走らせた。
翌日。教室に入ると、昨日よりもさらに張り詰めた空気が漂っていた。夢咲さんは窓際の席で、相変わらず静かに問題集をめくっている。有明は前の席で、俺と目が合うと無言で頷いた。……二日目の試験も全力で挑もうと互いに頷く。
午前の科目は比較的手応えがあったが、午後の応用問題は骨が折れた。それでも、焦らず一問ずつ片付ける。昨日の勉強で詰めた部分が、想像以上に役立っていた。
...ほんと、義妹の行動には助けられてるな。ありがたいなと思いつつ、問題を進める。終了の合図とともに、深く息を吐く。
三日目も同様に全力をつくした。
(……悪くない)
そう手応えを感じるが、油断はできない。まだ勝負は終わらない。明日が最後だ。そう再度気合を入れなおす。
***
――最終日。教室の空気は、普段の試験日以上に静まり返っていた。鉛筆の芯を削る音、ページをめくる音がやけに鮮明に響く。今日の科目は、配点も高く範囲も広い。ここで差がつく。
一問目は順調。二問目も、想定通りの解き方でスムーズに進む。だが、大問五で手が止まった。……難しい。だが、この手の問題は涼花が似た形式を用意してくれていた。頭の中で、彼女に習ったことを思い返す。手順を思い出して答えを記入する。
ふと顔を上げると、夢咲さんも有明も集中して解いているのがわかる。いや……この場にいる全員が、本気だ。
残り五分、最後の見直しを終えた俺は、用紙の隅に軽く「OK」と小さく書き込む。終了のチャイムが鳴り、教室の空気がふっと緩む。周りが答案を回収する中、俺はほんの一瞬だけ深呼吸をした。
(――やり切った)
これで勝負は決まる。あとは、結果を待つだけだ。




