試験前日
休み時間のチャイムが鳴っても、教室のざわめきは起きなかった。俺と有明が机に向かい、ペンを走らせている。その姿に感化されたのか、クラス中が本気で勉強に取り組み始めていた。
教科書や参考書が机の上に広がり、ページをめくる音と、時折小さく交わされる質問と解説の声だけが響く。有明にならって、お互いに問題を教え合う姿も多い。誰もふざけることなく、全員が目の前の課題と向き合っていた。
──ただ、一人を除いて。夢咲さんだけは、相変わらず教科書とノートに視線を落とし、誰とも話さず、もくもくと勉強を続けていた。
そんな中、俺の机に白峰さんが歩み寄ってきた。
「……あなたがやりたかったのは、これ?」
少し首をかしげながらも、その瞳は周囲の変化を確かめるように動いている。
「これなら、クラスの雰囲気は悪くないだろう」
俺は淡々と答える。
「えぇ。皆が勉強に集中できる環境なら、むしろいいわ」
白峰さんの声色には、ほんのわずかに納得の響きが混じっていた。その反応を見て、俺は確信する。
(……有明は、きっとここまで考えていたんだろうな)
わざと俺に勝負を挑み、その熱をクラス全体に波及させる──あいつなら、やりかねない。そう思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。いい友人を持てたと、心から思えた。
「それで──夢咲さんに勝てるの?」
不意に問われ、俺は即答する。
「皆に頼れる俺が負けるはずがない。……正直、現状の脅威は有明の方が上だな」
「……もしかして、二人はできてるの?」
白峰さんの目が、じっと俺を探る。わずかに距離を取り、疑いの視線を投げかけてきた。
「ば、馬鹿。……有明には彼女がいるんだぞ。それに……俺だって女性が好きだ」
あまりにも焦って、変なことを口走ってしまう。
「女性好きだから、たくさんの女性を囲ってる……とか?」
「ち、違うっ!」
慌てて否定すると、白峰さんは唇に手を当て、くすくすと笑った。
「……まぁ、せいぜい頑張りなさい」
背を向けるその歩調は軽やかで、けれどどこか愉快そうでもあった。俺は苦笑しながらも、ペンを握り直した。
家に帰り、玄関のドアを閉めると同時に、重たいカバンを床に置いた。だが、俺はそのまま机へ向かい、参考書を開く。いつものようにペンを走らせ、問題を解き始めた。
薄暗い部屋の中、集中しているはずなのに、ふと背後からの声に気づく。
「お兄ちゃん、最近ずいぶん勉強頑張ってるね」
振り返ると、涼花がソファに座りながら、静かにこちらを見つめていた。彼女の瞳は、心配と興味が入り混じっていて、柔らかく光っている。
俺は少しだけ微笑んで答えた。
「まあな、夢咲さんと有明と勝負してるからな」
その言葉に、涼花は少し驚いたように目を見開く。
「ふぅん、一位を取る気なんだ」
俺はペンを置き、涼花の顔を真っ直ぐに見る。
「もちろんだよ」
涼花はちょっと誇らしげに、でも控えめに微笑んだ。
「じゃあ、私に頼っていいよ」
その言葉に俺は少しだけ戸惑いながらも、胸が温かくなるのを感じた。涼花はただ、そっと隣に座り、俺の手を握った。
「無理しないでね、お兄ちゃん」
「ありがとう、涼花。お前の力、借りるよ」
彼女は微笑みながらノートを差し出す。俺たちは一緒に問題を解き始めた。問題ごとに俺が考え込み、涼花が的確に説明してくれる。簡潔だけど分かりやすい言葉。彼女の説明を聞くたび、頭の中で点が繋がっていくのが分かった。
「ここはこうだから、この公式を使うの」
「なるほど、そうか」
涼花は嬉しそうに微笑み、さらに複雑な問題を取り出す。
「これは難しいけど、基本は変わらないよ」
俺が問題を読み解く速度が上がると、彼女は軽く目を細めてうなずいた。授業が終わってからは、各授業の先生に教えを乞う。
「ここは、公式を丸暗記するよりも、本質的な意味を理解することが重要だ」
先生が教えるときの声のトーンや反応を逐一チェックする、どのような問題が出るのかを予測するのに役立てる為に。
「大翔、例のものは用意してくれたか?」
俺の声にはほんの少しの焦りが混じっていた。中間試験まで日にちが迫り、準備は万全にしておきたい。
「あぁ」
大翔は涼しい顔で答えた。さすがだ、頼りになる。彼から渡されたのは過去の試験問題の束だった。
「担任に頼んでもいいけど、対策されるのも面白くないだろ?」
俺は軽く笑いながら言ったが、その裏には少しの緊張と、なりふり構わぬ思いが隠れていた。
「すまないな、無理を言って」
「いや、先輩には感謝されたよ。お前のアドバイス通りに動いたらうまくいったんだ」
大翔の言葉に、少し悪いことをしているような気分になった。だが、そんなことを気にしている暇はなかった。俺は苦笑いを浮かべつつ、心の中で思った。
(にしても、よく思いつくな……先輩の好きな人への接点として『過去問持ってないか』なんて聞くなんて)
その発想の柔軟さと計算高さに感心しつつも、どこか呆れてしまう自分がいた。
「まぁな、それに『後輩からの頼みなんだよ』って頼れば、後輩からも信頼されつつ、後輩思いだってこともアピールできる」
大翔は淡々と説明する。彼の言葉は合理的で、まるでゲームの戦略を練るかのようだった。
「加えて、個人的に自分が一番頼りにしているって部分でもポイントが稼げると」
俺は彼の戦略に感嘆しながらも、内心では少し「悪い気分」を味わっていた。
(わるい気がするけどな……)
だけど、勝つためには手段を選んでいられない。そんな葛藤を胸に、俺は再び過去問を手に取り、勉強計画を練り始めた。
家に帰ると、リビングのテーブルには湯気の立つマグカップと、ノートの束が置かれていた。その横に、涼花が腕を組んで座っている。俺の姿を見つけると、にっこりと笑った。
「いよいよ明日だね、お兄ちゃん」
「そうだな。本当に助かったよ」
心からの感謝を込めて言うと、涼花は軽く首を振った。
「ううん。私にできることをしただけだから」
そう言うけれど──俺にとっては「だけ」なんてもんじゃない。俺がどうしても苦手とする分野の問題を、過去問や参考書から抽出して、傾向まで分析してくれた。さらには、実際の出題形式に合わせた仮試験まで作ってくれた。
(……正直、本番よりこっちの方が緊張するくらいだったな)
机に並んだ分厚い紙の束を見ながら、思わず苦笑いする。本当に、どっちが兄でどっちが姉なのかわからない。俺の方が年上のはずなのに、彼女に引っ張られっぱなしだ。
「……ありがとうな、涼花」
「なに急に。明日勝ってくれれば、それで十分だよ」
茶化すように笑うその横顔に、自然と背筋が伸びた。支えてくれた人たちのためにも、ここで負けるわけにはいかない。
(絶対に勝つ……)
そう胸の中で固く誓いながら、俺は椅子を引いて机に向かう。ペンを握った瞬間、頭の中に試験本番の光景が鮮やかに浮かび上がった。今日が終われば、あとは走り切るだけだ。




