勝負
放課後の空き教室を後にした俺は、昇降口を抜け、別棟へ向かって歩き出す。行き先は保健室。そこには、ずっとお世話になってきた人がいる。俺がこの学校を選んだ最大の理由はその人の存在があった。
歩きながら、夢咲さんのことが頭をよぎる。彼女が歩む先はきっとつらい道のりしかないという現実を俺は昔に体験している。妹の才能に圧倒されて、それでも食らいつこうと努力を重ねた。それでも追いつけないと理解して歩みを止めてしまったあの瞬間を鮮明に思い出す。
思い出すたびに、手に力が入ってしまうのは、今もなお悔しいと感じているからだろうな。それでも俺は、義妹が頼りにしてくれる現状を選択してことを後悔していない。だからこそ、実感する。有明が言ったように、仮に俺と夢咲さんが勉強で勝負した時に負けることがないと確信する。
だから、夢咲は俺と同じく凡人なんだ。義妹と違って勝つことが想像できない相手じゃないから。きっと彼女はいつか俺と同じように壁にぶつかる。その時に、彼女は俺と違って一人で乗り越えらえるかもしれない。
けど俺は、中野さんや千夏が傍にいてくれたらと思わずにはいられない。でも、俺の選択が正しいのかは分からないから、不安だから、こうして相談に来るんだ。俺自身が一番弱い人間だと自覚しているから。
***
扉を開けると、室内はすでに静まり返っていて、簡易ベッドのカーテンも全て開いている。養護教諭の先生に案内され奥にある教員用の小部屋へと通される。中にいた先生が顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「君が、私を頼りにしてくれるのって、なんだか久しぶりだね」
その笑顔に少しだけ緊張がほぐれる。紗耶香先生を見ていると、何でも受け入れてくれるような、包容力を感じてしまう。俺は自然と肩の力が抜けて、笑みを浮かべていた。俺が唯一、心の底から本音を打ち明けられる人で、いつも悩み事を正面から受け止めてくれる。そんな人だ。
「久しぶりって言っても……中学三年生以来ですよ」
「そうだったね。あのときは君が受験生で、私もできるだけ負担を減らしてあげたくて、少し距離を置いていた」
「やっぱり……気を遣ってくれたんですね」
「うん。それに...君が私を頼ってくれる時は、だいたい“無理をしている時”なんだもの」
柔らかく笑いながらも、その言葉は核心を突いてくる。相手をしっかりと見て、本質を見抜いてくる人だからこそ、俺はこの人の前では飾らないんだろう。
「本当にいつも世話になっています」
そういって俺は頭を下げる。
「気にしないで。頼りにされることが、私にとって嬉しいことだから」
そう言って笑いかけてくれる。机の上に置かれたマグカップから、ほのかにハーブティーの香りが漂う。その穏やかな空気に包まれて、少しだけ気分が落ち着いてくる。先生は俺の前にカップを置くと、真っすぐにこちらを見つめて尋ねてくる。
「何かあったんでしょ?」
俺は苦笑いしながら、これまであったことを話す。
「...そっか、完全に距離を置こうと彼女は考えてるんだね」
そういって先生は俺を見つめた後。微笑みながら先を促される。
「きっと初めてのことで戸惑っている。不安がある、それを君は気づいているんでしょ?」
俺は、彼女の目をしっかりと捉えて頷く。
「はい」
「同時に、どうするか決めている」
やっぱり敵わないと思った。何かに対して責任を持つのに、自分の意見がないのはあまりにも無責任だから。きっと不安な背中を一歩押してほしいんだ。
「やっぱり沙耶姉には敵わないな」
俺はそう言って、ふっと笑みを浮かべる。
「今日は気持ちを整理したかったから来たんだ。そして、迷いをなくしたかった」
そういうと紗耶香先生は笑う。
「君はいつも自分で道を切り開いてきたもんね」
「そう、かもしれないです。けど、紗耶姉がいるから俺は前に進めてるんだ。一人だったら、きっと押しつぶされているから」
それは俺の本音だった。家族にも言えない弱音を彼女の前でなら話している。そういった人がいることがどれだけ助かっているかと。
「じゃあ、あとは前を進むだけだね」
「うん」
俺は頷く。去り際に彼女は言う。
「頑張れ!」
その言葉に背中を押されて歩みだすのだった。
***
朝の教室は、まだ始業前の柔らかなざわめきに包まれていた。友人同士で宿題を見せ合う者、スマホでニュースを流し見する者、窓際で外をぼんやり眺めている者。その中に──夢咲さんもいた。
机の上には開いたノートとペン。けれど、ページはほとんど進んでいないようで、視線もどこか宙を泳いでいる。
(……今しかないかないよな)
俺は歩み寄り、彼女の席の前に立った。周囲の話し声が少しずつ小さくなっていくのを感じる。きっと皆、何が始まるのかと耳を傾けている。
「夢咲さん」
彼女は顔を上げた。いつも通りの無表情……のはずなのに、ほんのわずかに警戒の色が混じって見える。
「……何?」
「中間試験で勝負しよう」
教室のあちこちで、息を呑む気配がした。「え?」と小さくつぶやく声も聞こえる。それでも俺は視線を逸らさず、言葉を続けた。
「俺が勝ったら──クラスメイトと仲良くすること。それが条件だ」
彼女の眉が、わずかに動く。でも口元は動かない。沈黙の中で、周囲の空気だけが熱を帯びていく。
「急に意味が分からないだけど」
「ちゃんと向き合ったことがないと思ったからかな、きっかけが欲しいんだと思う。もしくは、何かをやりきったと思うことが」
勿論本心では諦めるつもりはないし、関わり続けるだろう。だけど、彼女が了承しなければ、その土台に立つことすらできない。彼女は逡巡した後口を開く。
「……じゃあ、私が勝ったら?」
「何でも言うことを聞く」
今度は、クラス全体がざわめいた。
「マジかよ…」
「それヤバくない?」
と笑い混じりの声。彼女はそんな反応を一切無視し、俺を見据えたまま言う。
「……あなたにメリットがあるとは思えない」
彼女は、なぜそこまでするのかと疑い目が深くなっていた。今理性で考えられたら、仮に彼女が冷静になったとしたら、もう勝負を受けてくれないような気がした。だから、
「逃げるの?」
「……逃げる?」
「得意な勉強で挑んでるのに、やらないなら──それは逃げるってことだよね」
言葉を投げた瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れる。それは怒りか、闘志か、あるいは──自分を試されたことへの戸惑いか。数秒の沈黙。その間、クラス全員の視線が俺達に注がれている。椅子を引く音すら響くほど、場の空気は張り詰めていた。やがて、彼女は小さく息を吐き、目を細める。
「……いいわ。受けて立つ」
俺を睨みつけながら言い放つ彼女と、それを聞いた教室にざわつき始める。
「へぇ…」
「やるんだ…」
と興味混じりの声が聞こえる。けれど騒がしい周囲の反応よりも、彼女に意識がいく。彼女の瞳には、動揺以上に闘志が湧いているように見えた。そこには絶対に勝つという意思を感じられる。
(……これで、彼女を動かすきっかけになる)
そう確信した瞬間、俺の中で次の行動はもう決まっていた。迷っている時間はない。
「千夏、大翔」
二人がこちらを振り返る。
「クラス委員の仕事、もし俺が手を離さなきゃいけない時は──任せてもいいか?」
「もちろん!」
「任せろ!」
息の合った即答に、思わず口元が緩む。こういう時の二人の頼もしさは、やっぱり俺には真似できない。俺はさらに、その会話を聞いていた担任の方へと向き直った。
「先生、相談があります。放課後の委員の仕事、この中間試験が終わるまで免除してもらえませんか?」
担任は一瞬目を丸くし、すぐにため息交じりに笑った。
「むしろテスト前に委員の仕事を振る教師が、どこにいると思ってるんだ」
(……あんたならやりかねないって、心の中で思ってますけどね)
口には出さず、心の中でだけツッコミを入れる。
──それからの俺は、休み時間すら惜しんで机に向かった。参考書と問題集を広げ、ペンを走らせる。周囲のざわめきは耳に入らない。
(……いつもと違う俺に、みんな戸惑ってるだろうな)
ちらりと視界の端に映るのは、様子をうかがうクラスメイトたちの視線。気にせず、俺は手元の問題に集中した。
「……すまない、有明。この問題、教えてくれるか?」
席を立って隣に行くと、有明はすぐにペンを取り、問題用紙に視線を落とす。
「えぇ、構いませんよ」
解説を受け、礼を言おうとしたとき──静かに有明が確認してくる。
「……連は、この中間に本気で挑むんですよね?」
不意にそう問われ、俺は迷いなく頷く。
「そうだな」
有明の口元が、にやりと持ち上がる。
「なら、僕も勝負させていただきます」
「珍しいな。お前がそう宣言するなんて」
「ずっとやってみたかったんです。君と本気で勝負するのを」
その目は真剣で、少しだけ楽しそうでもあった。
「いいのか? 塾や将来を見据えた勉強じゃなくて」
「君と戦えるなら、そんなことはどうでもいい」
熱のこもった言葉が、真正面からぶつかってくる。胸の奥で何かが静かに燃え始めるのを感じた。
「……分かった。なら、全力で来い」
「もちろんです」
互いの視線がぶつかり、しばし沈黙。けれどその沈黙は、挑戦者同士の高揚感で満たされていた。




