絶望
放課後の教室は、ほとんどの生徒が帰った後の静けさに包まれていた。委員の仕事が長引いてしまい、私が荷物を取りに戻った頃には、廊下も薄暗くなっていて、空気がひんやりと感じられた。
誰もいないと思っていた廊下の先、自分の教室に近づくにつれ、微かに声が聞こえた。──男子と女子。しかも聞き覚えのある声だった。
(……有明くん? それに……誰?)
何気ない会話のトーンじゃない。少しだけ、張りつめた空気を帯びている。まさか──告白? そう思って、その場を離れようとして足を止めてしまう。耳に飛び込んできた言葉が私をその場に留める。
「……夢咲さんと、連って付き合ってるのかな?」
一瞬、息が詰まった。
(……え?)
まさか。私と連のこと?何それ、どういう意味だろう──まさか……連が、何と付き合っていると吹聴しているのだろうか?浮かんできたのは、これまでの彼の優しさ。いつも気にかけてくれたあの態度。もしかして、全部“そう見せるため”だったのかと、不安が喉元までせり上がってくる。けれど、有明くんの答えは、私の予想を静かに裏切った。
「……ないと思うよ。少なくとも連は、夢咲さんに惚れてない。それに贔屓もしてない」
静かなその声は、妙な真剣さが滲んでいた。そして、どこか怒っているようにも感じる。
「じゃあ、有明君から見て連と夢咲さんはつり合いが取れてると思う?」
「夢咲さんじゃ、連には釣り合わない」
──私じゃ、釣り合わない?それは今まで言われてきたこととは逆のことで、自分の傲慢さにも嫌気がさす。彼の方が私に釣り合うか考えていたその浅ましさに。その場から離れないといけないと思って一歩踏み出そうとする。けれど、彼らの会話に耳を澄ませてしまう。
「君たちも気づいてるでしょ?最近、皆が連をどう見てるか。運動もできて、勉強もできるし気安く話しかけてくれるその優しさに......正直、連は別格なんだよ。僕や大翔が尊敬せずにはいられないくらに」
羨望と畏敬が入り混じったその声は、どこか信仰心すらも感じるゆったりと響く言葉だった。
「だから、君たちも連の親友である僕に聞いて来たんでしょ。夢咲さんに惚れてないかって」
「本人には言わないでよ」
「もちろん」
足が、動かなかった。何も声が出せなかった。不意に、これまでの時間が脳裏を駆け巡った。連と交わした何気ない会話。困っていたときにそっと差し伸べてくれた手。無表情に見えて、でも時折見せるあの静かな優しさ。
(私……どう思ってたんだろう、連のこと)
さっきも庇ってくれて、私に対して対等に接してくれて、素直な感情を向けてくれる。裏表がないからこそ、私も彼に対して少し安心する気持ちを抱いていたことに。ふと、彼が笑顔でクラスメイトと抱き合う姿が思い浮かんだ。無邪気な笑顔が...
(……釣り合わない、か)
つぶやいた言葉は、喉の奥に沈んで消えた。
「それに君達は夢咲さんを過大評価しているようだけど、連が本気を出せば勉強ですら上回る」
「それ、本気で言ってるの?」
「勿論。僕が彼女と同じくらい努力して勝てるとしたら、連は片手間で凌駕する。それほどの天才だよ」
「ふぅん、それはいいこと聞いた」
「ますます、好きになる」
彼女たちが嬉しそうに笑う。その声が、なぜだか遠くに感じた。私に嫌な考えが浮かぶ。もしも、彼が言ってることが本当で、それすらも負けたとしたら。その時私には何が残るのだろうかーーいや、あり得ない。でも、心のどこかで、その状態を鮮明に想像する。ふと、心がきしむ音がした。
「それじゃあ、僕はこれで失礼するよ」
「うん」
「ありがとうね、有明君」
「どういたしまして」
足音がこちらへと近づいてくる。私は慌ててその場を離れ、廊下の角に身を隠した。足跡が近づいてくる。私は焦りながらもその場を離れ、死角を探して、そこに入り込んだ。身を潜めるようにして息を殺す。足音が一つ、こちらへと向かってくる。反射的に背を壁につけ、物音一つ立てぬよう気を張った。
(……有明君)
今一番顔を合わせたくない彼の姿を確認する。彼はこちらに気づくこともなく、廊下にいる気配が遠のいていく。それを見送った後も、私はすぐには動けなかった。胸の奥で何かがざわついて、冷たい汗が背中を伝っていた。
やがて、鼓動も正常に戻り、いつもの静寂が戻る。私は深呼吸をして、そっと教室の扉に手をかけた。開けようとした瞬間に手を放す。
「……夢咲さんって、ずるいよね」
先程の女子達だと身構える。どうやらこちらには気づいていないようで会話が続く。
「本当にそう。可愛いだけで構ってもらえてるって、自覚あるのかな」
「ね、今回だってさ、松崎さんに庇ってもらって、連くんにまでフォローされて」
「しかも、あれで『迷惑かけてるかも』って微塵も思ってなさそうじゃん? あんな態度取れるのって、ほんと図太いよね」
笑い混じりの声。ささやくように吐き出された言葉が、私の心に鋭く突き刺さる。
(……そんなつもり、ない……)
喉がきゅっと締めつけられた。何か言い返したかった。でも、何を? 彼女たちに私の何が分かるというの?私にはそれだけの余裕がない。もう心を乱したくない。ただそれだけなのに...
「ぶっちゃけさ。あの子がいるから、変に気を遣う空気になったよね」
「松崎さんも大変だよね~。あの子がいるから一番割を食ってる」
「中野さんだっけ、彼女ももしかしてあっち側なのかな」
その言葉が、とどめだった。彼女にまで迷惑をかけてしまうことが私にとっては耐えられなかった。同時に松崎さんの悲し気な表情も思い出してします。もしもあそこで連が現れなかったら...彼女は押しつぶされていたんじゃないだろうか。
ガタッ
足がもつれて、私はドアにぶつかってしまう。
「……誰?」
反射的に逃げ出した。呼吸が荒くなる。逃げるように現実から目をそらすように逃げた。鞄を持っていないことに気づく。どうしようか...?彼女たちが教室にいる限り私は帰ることができない。図書館に逃げ込もう。そう思い立っていつもの場所へと歩いていくと不思議と涙がこぼれてくる。
(迷惑……かけてたんだ)
心のどこかでは分かっていたのかもしれない。あの時、松崎さんが庇ってくれた優しさも、私の言葉を待って、寄り添って一緒にいてくれる中野さんも、笑って何事でもないように手を差し伸べてくれた連も特別優しかったことに。
でも、その優しさを独り占めすることがどれほど罪深いかもわかっていなかった。今まで他の人の感情を無下にしてきたつけが回ってきたのだと自然と分かった。私が、特別なわけじゃない。彼らならきっと、私と同じような人に手を差し伸べるだろう。
ーーなら。私はいつも通りに戻ればいいだけ。優しくされることに慣れて、甘えていた私はもういらない。思い返すとここ3週間は楽しかった気がする。先生に押し付けられた作業も、松崎さんと中野さんと話していたら一瞬だった。一緒に食べたケーキは想像できないほど、甘くて、やわらかくて、おいしかった。誰かと回るショッピングがあんなに楽しいものだと知らなかった。
ただ、元に戻るだけ。一人でも生きていける自分に戻るだけ。何も特別なことはない、いつもの日常が続くだけだ。夕焼けが、校舎の端に沈んでいく。西の空が、赤く染まるその下を、私はただ黙って歩き続けた。歩くたびに胸の奥が軋んで、けれど誰にもその音は届かない。家までの道が、こんなに長く感じたのは、久しぶりだった。




