約束の日
あの日から夢咲さんは少しだけだ会話してくれるようになった。きっかけは分からない...けれど中里さんがいるおかげに感じる。
作業はいつも通り、静かな教室で行われる。夕方の空気が、少しだけ柔らかくなってきた春の終わり。
「……これ、提出は金曜まで?」
「うん。先生、明日来られないって言ってたし」
「わかった」
夢咲さんの返事は簡潔だけど、もう“壁”のような硬さはなかった。自然なやりとりが、ぽつぽつと続いている。それだけでも、大きな前進だと思えた。
「夢咲さん、シャーペン貸してくれる?」
「……これでよければ」
「ありがとう。あ、ペンの持ち方、綺麗ですね」
「そう、かな?昔、母に厳しく言われてたから」
「へぇ、なんか上品な理由……って、変な意味じゃなくてね」
「分かってる」
少しだけど、彼女が微笑む。本当にわずかに、でも確かに「柔らかさ」が宿っていた。それを見ていた松崎さんが、小声で俺の方に顔を寄せる。
「ね、最近ちょっと変わったと思わない?夢咲さん」
「……まあ、少しずつだけど」
「話しかけたとき、ちゃんと目を見て返してくれるようになったし」
「前は目も合わせなかったもんね……中里さんと話してるときは、ほんとに優しい顔するのに」
「それ、俺も思ってました」
相変わらず楽しそうに会話する二人を見て、少しだけ疎外感を感じる。というか、未だに俺と話す時に距離があるのは、つまらないって言ったことが原因だろうと反省する。
夢咲さんに変化はあった。けれど話はあくまで「日常の会話」に留めているようだった。名前で呼ぶこともない。まだ“苗字+さん”。どこかに、境界線のようなものがあると感じる。
だけど、その境界線の向こうから、少しずつ彼女がこちら側に顔を覗かせているのが分かる。それが、うれしい。こうして“言葉”をくれるのが、ただ単純に――ありがたかった。
「……今日は、少し話せたね」
帰り道、俺がそう言うと、松崎さんは肩をすくめて見せた。
「“少しずつ”って大事だよ。連が急に距離詰めようとしたら、きっと逃げちゃうもん」
「……それ、俺がせっかちな前提で言ってる?」
「違うの? 笑」
「……ぐぬぬ」
後ろから、中里さんの小さな声が届く。
「でも、夢咲さん……頑張ってると思います。ちょっとずつだけど、本当に」
そう――その「ちょっとずつ」が、今の彼女にとってどれだけの意味を持っているか、分かる気がした。無理せず、でも着実に。次の作業日には、もう少しだけ長く話してくれるかもしれない。そんな希望を胸に、俺たちは別れた。
***
そんな日々を過ごしていよいよ、ゴールデンウィークに差し掛かった。カフェの自動ドアが開くと、甘くて芳ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
こじんまりとしてるけど、店内の落ち着いた内装や、ショーケースに並ぶ色鮮やかなケーキの数々は、思った以上に本格的だった。
「おぉ……本当におしゃれなお店ですね」
中里さんが目を細めて呟く。隣では松崎さんが目をキラキラさせながらショーケースにへばりついていた。
「やば!めっちゃ美味しそう……!」
事前に調べて予約しておいたこの店は、評判通りだった。ゴールデンウィーク初日だし、混むだろうと予想しての行動だったけど、正解だったみたいだ。
「予約、しておいてよかったな」
「さすが連~」
松崎さんがにっこり笑う。そんな中、夢咲さんは一歩引いた位置で、無言のままショーケースを見ていた。表情は柔らかいけど、どこか張りつめてるような、緊張してるような……そんな空気が漂っていた。
(無理して来てくれたのかな)
保健室のときとはまた違う、彼女の"壁"のようなものを、俺はまた感じていた。
「好きに頼んでいいから。何個でも大丈夫だよ」
そう言ったのは、少しでも気を遣わせたくなかったからだった。俺にとっては友達と過ごす時間のための出費なんて、惜しくもなんともない。でも――
「……ごめん、私、こんなにすると思ってなくて……あの、同意したけど……」
夢咲さんの声は小さく震えていた。
(もしかして値段を気にしてるんだろうか?それなら別に大丈夫なんだけど……)
「別に大丈夫だよ。金銭的には余裕あるから。たぶん今日、みんなにおごっても月のお小遣いに影響ないし」
「へぇ〜、じゃあどれだけ頼んでも大丈夫、と」
「残さない範囲なら10でも、20でも」
松崎さんが勢いよく反応してくれる。助かった。少し場の空気が緩んだ気がして、俺はホッとする。ただ、夢咲さんの表情はまだ固い。
「どれくらいもらってんの?」
それを察したのか松崎さんは無邪気に聞いてくる。だから俺は端的に答えた。
「3万くらいかな。まぁ、父が会社経営してるってのもあるし、両親とも働いてるからな」
「それは貰いすぎ」
「お陰でこうした使い方ができる」
俺は胸を張って答える。その言葉に、夢咲さんが一瞬だけ、固まったのを、俺は見逃さなかった。
(……あ、やば。こういう話、あまり良くなかったか?)
私立ということもあり裕福な家庭もあるが、そうじゃない可能性もある。夢咲さんがあまり飾らない姿を見て、そんな可能性が頭をよぎった。
でも、もう言ってしまったことは戻せない。話を切り替えるように、松崎さんが一歩前に出た。
「じゃ、私は……このモンブランと、ショートケーキそれと、抹茶のテリーヌ!あとは、アールグレイで!」
相変わらずのノリの良さに、本当に助かると感じる。皆の視線が彼女にいったことで、少しだけ肩の荷を下ろした。
「よく食べるなぁ」
「だって連がおごってくれるって言ったじゃん~。後悔しても知らないよ?」
「後悔はしないけど、ケーキの残りは俺が食べることになる気がするな……」
「えへへ、それはそれでお願いしよっかなー」
中里さんも、最初は遠慮気味にガトーショコラとドリンクを選んでたけど、「これも気になるな……」と呟いていたのを知っていた。だから、
「こっちのベリータルトも食べなくていいのか?」
そう問いかけると、彼女はこちらを見て、遠慮がちにいう,
「……お願いします」
押し殺そうとしているが、溢れ出る嬉しそうなその表情が、俺は好きだった。夢咲さんの番になると、彼女はショーケースをじっと見つめたまま、少し時間をかけて答えた。
「私は……チーズケーキと、カフェラテで……」
「それだけでいいの?」
「……大丈夫だから」
たぶん、“大丈夫”じゃない。でも、それでも俺はそれ以上何も言わなかった。彼女のプライドのようなものを、壊したくなかったから。
俺が注文する間、3人は静かに待っていた。その姿を見ながら、自然と胸の奥があたたかくなる。こんなふうに、夢咲さんと予定を立てて、出かけることができる日が来るなんて、少し前までは想像もしなかった。
(少しずつだけど、距離は縮まってきてる……よな)
全員分のオーダーを済ませて、奥のテーブル席に案内される。店の奥まった場所にある4人がけのテーブルは、丸くて広くて、自然と向かい合って座る形になった。
「わぁ、この席、落ち着くー!」
「うん。照明もいいですね……ちょっと図書室っぽい」
松崎さんと中里さんのそんなやり取りを聞きながら、夢咲さんが静かに椅子に腰を下ろすのを、俺は横目で見ていた。
この空間が、ほんの少しでも、彼女にとって「居場所」になったらいい――そう願わずにはいられなかった。