義妹と夢咲さんの気持ち
お兄ちゃんが帰ってきたのは、いつもよりだいぶ遅い時間だった。玄関のドアが開く音に反応して、私は居間から顔を出す。
「おかえり」
「ただいまー」
返事はあるけど、なんか疲れてる声。やっぱり、今日も無理したんだ。お兄ちゃんの顔を見るなり、私は確信する。顔色も良くないし、歩き方もどこかぎこちない。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「もしかして、疲れているのわかる」
へらっと笑うけど、そんなのごまかしってわかってる。だって、私はお兄ちゃんをずっと見てきたから。...多分、お兄ちゃん以上に。頑張ってる時の顔も、無理してる時の目もずっと見てきたからわかる。
「今日は何かあったの」
「まぁ、ね。体力測定で大翔と勝負してきた」
私はつい驚いた顔でお兄ちゃんを見つめてしまう。
「お兄ちゃんにしては張り合うのは珍しいね」
「たしかに」
そう苦笑していることから、本人もわかってるんだろうな。きっとまた誰かの為に無茶をしたのだと、自然と理解してしまう。
...嫌だな。直観的に女の人が相手だと分かった。だからそんな気持ちが芽生えて、そう感じる自分に嫌悪する。お兄ちゃんを縛る権利なんてないのに...。私のそんな気持ちなんて知らずに、ぽけ〜とした顔で話す。
「種目ごとに競ってて、最後はシャトルランまでいってさ。なんとか勝てたよ。最後の最後で」
「大翔さん相手に!?」
冷静に考えればありえないと思った。もし、お兄ちゃんが運動だけに集中したならわかる。でも、ランニングと筋トレ、確かに武道までやっているが、あの身体能力のお化けに勝てるとは思えない。引き分けなら十分に納得できるけど...
「といっても、大翔が負けを認めた形で、実質は引き分けなんだけどな」
そういう事、か。兄が勝てる種目は3種は思い浮かぶ。シャトルランで最後ってことは8種目ある中で何かで引き分けたのだろう。そして、シャトルランも無限にできるわけもなく、時間的な考慮があった。そこで最後にお兄ちゃんがいち早くゴールしたのだろうと。
大翔さんの性格まで考えて挑んだんだろうな。ふふっお兄ちゃんらしいなとつい、気が緩んでしまう。
「お兄ちゃん、倒れたりしてないよね」
「...うっ。どうしてばれたの?」
「そこまで満身創痍気味ならだれでもわかる」
本当は私だからわかるって言いたい。でも、重いような気がして口には出せない。
「誰か付き添ってくれたの?」
お兄ちゃんが誰かと二人でそこに言っているのを想像したくなかった。でも、確かめられずにはいられない。
「夢咲さんがついててくれたかな」
(...つ!)
表情で察してしまった。きっと彼女の為に今回頑張ったんだと。少しだけ安堵したような表情で分かってしまう......ズルいな。そう思ってしまった。自分気持ちを騙すように私は笑顔を作る。だって、感情と表情はリンクしてるんでしょ?
「あんまり無茶しちゃダメだよ」
「あぁ」
兄が私に向かって微笑んでくれる。ずっとこの笑顔を一人占めしたい。見ていたい。そのためなら私は、何だってできるよ。私の胸の奥で、言葉にできない小さな嫉妬が、静かに膨らんでいくのを自覚した。どうか、この気持ちを抑えらえますように。私なりの笑みを浮かべながらそう思った。
***
夜の八時過ぎ。一人暮らしのように静かな部屋の中で、私は机に向かっていた。蛍光灯の白い明かりが、ノートのページを淡く照らしている。ペンの走る音だけが、部屋に響いていた。
「……ただいま、桜」
「お帰りなさい、お母さん」
玄関のドアが開いて、母の疲れた声が聞こえた。仕事帰りだ。遅くまで働いてくれているのを、私はずっと知っている。台所からは、小さくお湯を沸かす音。母は決まって帰宅すると、まず白湯を飲む。
「ずっと勉強していたの」
「うん」
「偉いね、桜は」
そう優しげな笑みを浮かべて、私を見つめてくれる。
「無理しないでね」
「わかってるよ。明日の予習だけ、もう少しやっておこうと思っただけだから」
その優しい母の姿をみていつも思う。ちゃんと自由を上げたいと。母が一人で育ててくれたこと。苦労を表に出さず、いつも励ましてくれること。そのすべてに、私は感謝していた。だからこそ、成績を落とすわけにはいかない。だから、周りに流されている暇はない。
それなのに――(どうしてあの人のことが、ふと浮かんでしまうんだろう)
今日、連が倒れたあとに見せた、無防備な寝顔。それなのに、勝負には最後まで執着していた熱さ。そして、保健室でかけてきた言葉。胸の奥に、何かが残っている。
「学校はどう? 順調?」
母の問いかけに、ハッとして顔を上げた。
「うん。順調だよ」
「そっか。……友達、できた?」
少し間が空いた。頭の中に、松崎さんと中里さんの顔が浮かんだ。
「まぁ……できたかな」
「へぇ、どんな子なの?」
母は興味深げに私を見つめてくる。少しだけど、疲れが取れて生き生きとしているように見えたのは気のせいだろうか、そんなことを思いながら二人の特徴を思い返す。
「松崎さんは、活発でよく笑う子で、中里さんはちょっと自分と似てるかな。本が好きなとことか」
母がふっと安心したように微笑む。その顔を見た瞬間――胸の奥に、少しだけ罪悪感がこみ上げてくる。嘘をついていることに。同時に、安心した表情に安堵した。友達いるって、前から言ってたけど。もしかして、高校でうまくやれてるか不安だったのかな、と。
「順調そうでよかった」
「うん、安心して」
そう言った瞬間、また――彼のことが浮かんだ。今日、誰よりも真剣に走っていた彼。笑ったり、ムキになったり、からかわれたりしながらも、何かを掴もうとしていたその姿。
(……違う。今は勉強に集中しないと)
私は、首を小さく横に振って、自分の思考を断ち切った。
「私勉強に戻るね」
「ほどほどにね」
「うん」
母の姿を見ながら、もっと頑張ろうと思った。ここで立ち止まっているわけにはいかないから。




