決着
「……じゃあ、もう一回だな」
俺がそう言い放つと、場の空気が再び緊張で引き締まった。大翔も頷く。言葉はいらない。勝負はまだ終わっていない――互いに、そう感じていた。だが、その時。
「はい、そこまで」
ピシャリと担任の声が飛ぶ。
「……他のクラスに迷惑になるから、50m走はここまで」
「ちょっと待ってください!」
俺が思わず抗議の声を上げる。この空気、この熱、このタイミングで打ち切り――?
「だから言ったろ。他のクラスも使うって」
はぁ……マジかよ……とため息を吐いたその瞬間。
「けどな」
担任の先生が、ニヤリと笑った。
「そういうと思って――お前らのために、次のシャトルラン、合同でできるようにしといたぞ」
「…………」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。この満身創痍の状態で、今から、シャトルランってマジですか。いやいやいや、どう考えても今じゃないだろ、と思う。疲労はピークだ。汗は止まらず、足も重い。けど、状況はイーブンだ、なら悪くないか...?
「それともさ、今日のこの熱い勝負……後日に回すか?」
背中を押すように、わざとらしく先生はそう告げる。それに大翔は勢いよく告げる。
「――やります」
静かに、けれども迷いのない声で返す。そこまで言われて、燃えないはずが無い。彼は絶対に逃げない。分かってたことだ。だから俺も、ゆっくりと息を吐いてから、答えた。
「やろうか、大翔」
俺も、つい笑みを浮かべて答えてします。同時に先生に感謝する。この勝負を今日決めることができるんだと。これが、最後の勝負。やるからには――もう一切、言い訳も後悔も残さない。
俺達は再度体育館に移動する。床に引かれた白線の上で、俺と大翔は待機していた。流石に、連続は無理だろうとの配慮があって、他の人が挑戦しているのを眺めていた。
「やっぱり大体が80を超えないよなっ」
「まぁ、全員が運動部に入ってるわけじゃないしな」
そう、人心地ついていると余裕そうに走る先輩の姿が見える。
「あの人結構いきそうじゃない」
「あれは、いくな」
爽やかそうに走る先輩の姿が見れる。顔も良し、運動もできる姿から女子の視線を引き付けている。あれは勉強もできるパターンだな。流石に進学校だから基準としては勉強ができる人という価値観が多い。将来的なことも考えるなら普通だろうが。
先輩は軽く125まで達して、終わりにしていた。多分あと5回くらいは行けただろうが、必死な姿を見せたくなかったんだろうな。ちなみに、夢咲さんは25回できつそうにしていたから、本当に運動が苦手なんだと実感した。
「じゃあ、やろうか連」
「あぁ」
目の前にあるのは、ただシンプルな直線。20mをひたすらに走る、地味で苦しい試験。けど今は、それが勝負の舞台になっていた。
「じゃあ、全員スタートラインに――位置について!」
先生の掛け声と同時に、生徒たちが横一列に並ぶ。誰もが無言だった。教室で騒いでいたときの空気はもうない。たぶんあの50m走の同着から、空気は変わったんだろう。皆が俺達の行く末を見守っていた。
一度は勝ち、一度は追いつかれ、そして並ばれた。どちらが上かは、まだ誰にもわからない。
(ラストだ……この一回にすべてを懸ける)
自分に言い聞かせるように、肩を軽く揺らして深呼吸する。録音された音声と共に俺達はスタートした。一定間隔で鳴る電子音のリズムが、空気を律し始める。
10回目。20回目。速度は少しずつ、でも確実に上がっていく。焦りすぎれば空回り、手を抜けばどこかで精神的に追い詰められる。精神的にも肉体的にバランスが勝負の要になる。俺はただ音に合わせて折り返す。60回を超えるころには、数人の生徒が脱落し始める。
60、65、70――80回。
「はぁ……無理……」
どこかから絞り出すような声が聞こえた。そこを境に、残ったメンバーが一気に減った。見れば、もう走っているのは数人しかいない。しかもその殆どが、額から汗を垂らし、ゼェゼェと肩を揺らしている。
その中で、俺と大翔だけはまだ余裕そうだった。他のクラスメイトがベンチから見守る中、その静けさが逆に緊張を引き立てる。100回を超えたころだろう、皆の呼吸も落ち着いて話し声が聞こえてくる。
「……二人とも、やばすぎるな」
「まだ、全然余裕そうだよね」
「なにあれ……マジで人間?」
誰かの声が遠くから聞こえる。俺達はそれでも走り続ける。105、110、115――ここら辺を超えてきてようやく感じる。やっぱり足が重くなってくるよな。吐息に混じって、喉から何かがこぼれる。呼吸も荒くなってくるのを感じる。
切り返しの時に見えたのは俺を含めて、4人の生徒が走っている姿だった。やっぱり大翔は余裕だよな。そんな風に感じる。
「129……130……!」
機械音が淡々と告げる。俺達の苦しさなど微塵も理解しない音声に苦笑すらもできないほど俺は落ち詰められていた。膝から崩れそうになる衝動を、歯を食いしばって押さえ込む。もういいんじゃないかと言う弱さが出てくるのも感じる。単純に苦しくなってきたと。でも、、、まだ限界じゃない!!
既に残っている生徒は3人になる。大翔も少しだけ苦しそうな表情を浮かべ始めてどこか気が緩みそうになり、歯を食いしばる。
(ヤバい……脚が鉛みたいだ)
心の中でそう思う余裕があるだけ、まだ走れるだろう。顔から汗が滝のように流れ、呼吸は荒い。
「135……」
その音声を聞いて、冷静に自分を俯瞰する。腕の振りは重く、脚も思うように前へ出ない。でも、それでもピーッと音が鳴るたびに、体が勝手に動いている。まだいけると。
「無理……」
そういって、先輩らしき男子生徒の気配が消える。
(俺たちだけ、か?)
俺は疲労を感じて働かない脳で、そうな風に思った。機械音もどこか遠くに感じる。
「うわ、まだ走ってる……」
「えっ先輩まで脱落したのに……嘘でしょ」
何かを皆が話しているんだろうけど、その声は聞こえなかった。
「136……」
心拍が速すぎて、逆に静かに感じた。息を吸っても、肺の奥まで空気が届かない。それでも、まだ足は動く。
「140っ……!」
機械音が掠れて聞こえる。同時に、先生が静かに前に出て声を張った。
「150で終わりにする。点数は十分だから時間的にそこまで行ったら、終了!」
その言葉に、周囲がどよめいた。けれど、コートの中でゼエゼエと呼吸を荒げる二人には、もう他人の声は届いていない。ただその「150」という数字だけが、ゴールのように光って見えていた。
(あと10本……あと10だけ……)
ふらつく脚を叱るように、俺は拳を握った。横を走る大翔を見たときに分かる。その瞳は死んでいなかった。むしろ、ここが“本番”だと言わんばかりに、ギラギラと燃えていた。
(だよなっ...)
「143……」
胸が痛い。肺が破裂しそうだった。汗で全身が張り付くように重い。靴がコートをこするたび、足の裏が火照っているのがわかる。
「145……」
「すげえな二人とも」
その声がシーンとした体育館に響き渡る。もう誰も目を逸らせなかった。
「147……」
(クソッ……!)
俺は、ふと横を見る。大翔も苦しそうだ。呼吸が乱れ、頭が揺れている。
(あと3回だ、持てよ。俺っ)
「149っ!」
(あと一歩……あと一歩だけ)
先生がゴールライン前で、止める準備をしているのが見えた。横にいる大翔も、同じゴールを見つめている。
「150っ!!」
(ここで……終わる)
最後の音が鳴った瞬間、俺は残ったすべての力を込めて踏み出した。大翔より、一歩早く前にっ、、、俺の体がゴールラインを超えた。直後俺は気が抜けて、自分の体を倒す形で地面に倒れこむ。
(やべっ...意識が)
「――連っ!!」
大翔が息を飲んで叫んだ。顔を歪めた大翔の顔を見つめながら俺は意識を手放した。




