譲れない
「でも、不思議だよね」
私がぽつりとつぶやくと、夢咲さんと中里さんが視線をこちらに向ける。視線の先には、まだ競技に集中している連と、相変わらず圧倒的な実力を見せつける大翔の姿。
「大翔くんは、誰が見ても“すごい”って思えるのに、連くんは……そこまでって感じしない」
自分で言いながら、ちょっと不思議な感覚だった。記録を見れば分かる。連は今のところ、ほとんど満点に近い。普通なら「やばい」「えぐい」と言われるレベルだ。
「……私も、そう思います」
中里さんも、連の姿を見ながら同意していた。さっきからずっと視線で追っていたのでわかる。というよりも最初から連とかかわっていた彼女の方がより実感しているのだろうと思った。
「私が思うに...多分子供っぽいからじゃないですか?」
「ぶふっ」
私は中里さんから鋭い指摘が出るとは思わなくて、噴き出してします。確かに的を射ているなと思った。
「確かにそうだね。ムキになったり、やたらと応戦したり……ツッコミ入れたくなる余地があるっていうか」
「そういうところ、計算でやってるんですかね?」
中里さんが小首をかしげる。
「うーん……いや、そうは見えないな」
「単純に感情が制御できてないだけでしょ、……平気で“つまらない人間”とか言うし」
夢咲さんがぼそりとつぶやいた。やっぱりまだ根に持っているんだと思った。けれどそれは彼女が連を自分の領域に入ってきていると認識している証拠だった。私は何も言えずに苦笑いしてしまう。
「まぁ、そこがある意味警戒しないポイントなのかもね」
「そう、ですね」
中里さんも苦笑いしながらフォローをしてくれる。でも...なんだかんだこうやって夢咲さんと自然に話してるのは連のおかげだと思った。自ら敵役を引き受けているようなそんな気がした。
目を細めて、私は連の方を見やった。きっと彼は、こんなふうに自分が人を動かしているなんて気づいていない。まっすぐすぎて、正直で、でもちょっと子供っぽくて――
「君って……どこまで考えてるんだろうね」
無意識に出た声に、自分でも驚いた。驚いて私は隣を見るが二人とも気づいていないような気がした。
***
移動の号令がかかると、クラス全体が一気に騒がしくなった。
「よっしゃ、来たな50メートル走!」
「ついにメインイベント!」
ざわめきが加速する。競技そのものよりも、“俺が大翔勝つか”という構図に、みんなが熱狂していた。それはきっと大翔が凄いからで、他の人だったらきっとこうはならないんだろうな。
「連、準備できてるか?」
横に並んだ大翔が声をかけてくる。一歩前に出たその姿には、いつもとは違う空気があった。
「もちろん。さっきハンドボール投げで負けた分は、ココで返す」
「おお、いいじゃん。そういうの、待ってた」
互いに軽く拳をぶつけ合う。けれど、内心では笑い合っている場合じゃなかった。現在は3勝3敗。ここが勝負の分かれ目だと分かっている。
スタートラインに立つと、クラス中が静まり返った。
「位置について――よーい……」
静寂が空気を重くする。
(いける。集中しろ)
鳴り響くスタートの笛。瞬間、地面を蹴った。重力を置き去りにするように身体が前に出る。横目で大翔のフォームが目に入る。大幹に支えられた彼の体はスピードを落とすことなく、加速していく。
地面を蹴るたび、脳に振動が響く。呼吸なんてしていられない。ただ、前だけを見て、ただ走る。体を伸ばす。ゴールラインを目掛けて、腕を振り切るように。
「……速っ……!」
「今の、マジで接戦じゃなかった?」
有明がもう一人の生徒のストップウォッチを確認してタイムを発表する。
「大翔、6秒2。連、6秒3」
わずか0.1秒。その差に、場の空気がどよめいた。それでも俺にとっては絶望的な数字である。この秒数になると0.1秒を縮めるだけで、相当な努力が必要になる。フォームといったところから体調といった不確定要素まで考える必要がある。
「大翔くん速すぎ」
「連君もすごいよねー」
他の人が讃えてくれるのは嬉しい。けど今はそれどころじゃなかった。次、勝てるか――そう問われたら、自信があるわけじゃない。心臓が、喉元で荒ぶっているのがわかる。
(ドク、ドク……)
異常なほど速い。視界がぶれる。周囲の音が混ざり合って、雑音のように耳を塞いでくる。
「マジで速かったよな!」
「次、これ超えるかな」
「今のでもう限界じゃん?」
もうすでに終わったような雰囲気が出ている。俺はよく検討したという目で他の人達は見てくる。ワーワーと誰かが騒いでいる。自分の心音が嫌に鼓膜を叩くようでうるさい。それに合わせて、鼓動がさらに高鳴る。
「負けるの?」
唐突に聞こえたその声に、肩がびくりと反応する。振り向けば、夢咲さんがいた。いつもと違う。ほんの少し、眉が下がっていた。いや、それは……不安?
まさか、彼女から話しかけてくれるなんて思わなかった。でも、不安そうにさせていることが申し訳ないと思った。まるで「また裏切られるんじゃないか」と言っているようなそんな顔をしている。諦めたように見られていたかな。
――放っておけないな......その表情を少しだけズルいと思ってしまう。だから、、、
「勝つよ」
言い切った。根拠なんてない。けど、言葉が勝手に口から出た。不安に染まるその瞳を、ただ黙って見ていることはできなかった。
「連、このままじゃ負けちゃうんじゃない」
俺は笑顔で告げる。
「ごめん」
俺は息を吐いて告げた。
「今から集中する」
そう告げる。心の中にあった波が、少しだけ静まり始める。
「あれ、連?」
「無駄ですよ。今の彼には何も聞こえてない」
静かに有明はそう呟く。
「このままじゃ、負けますよ、大翔……って、こっちもですか」
有明が苦笑混じりに肩をすくめる。二人の間に言葉はない。あるのは、ただ静かに燃え上がる気配。
「……二人とも、すごい集中力だね」
誰かがそう呟く。そんあやり取りが、どこか遠くに感じた。全ての音が、すうっと消えていく――
そして。
「位置について――よーい……」
――笛の音が、合図となって世界が弾ける。
(速い――!)
自分でもそう感じるほど、体が軽い。まるで追い風が吹いているようなそんあ感覚を受ける。視界の端に、誰もいない。
「っ! 連がリードしてる!」
誰かの叫びが耳に届いた。けれど、それすらもう遠い。今、俺が聞いているのは――自分の呼吸音と、足音だけ。
(……このまま逃げ切る!)
けれど。すぐに、風の音が変わった。真横から、並走してくる気配がある。追いつかせるな。それでも、大翔の加速は止まらなかった。
「やはり瞬発力は連が上ですね……けど、大翔の追い上げが速いっ!」
「三メートル……一メートル……並んだっ」
足音が完全に重なる。一歩、また一歩。呼吸が荒れる。心臓が痛いほど脈打ってる。だけど、止まれない――止まりたくない。目の前にゴールラインが見える。
(負けるかーー)
ドンッ、最後の一歩を踏みぬいた。どっちが勝った?俺は息を絶え絶えにしながら、有明を見つめる。
「……すごいですね、さっきより速い……二人とも6.11秒ですっ!」
歓声が爆発する。
「すげぇえ!」
「マジかよ!」
「……やっぱ、すごいな」
思わず、そうこぼしていた。横を見ると、大翔も息を切らしながら笑っていた。
「はぁ……っ、お前もな……」
勝ち負けなんて、この瞬間だけはどうでもよかった。全力で、限界を超える実力を出せた。二人して手を握り合った。それに周囲が湧くのを感じた。




