距離を詰める
「じゃあ、このプリントを下校時間までにクラス全員分仕訳けて、ホチキス止めしてくれ」
「……これ、俺たちで全部やるんですか?」
「副委員長もいるだし、二人でやれば余裕だろ?」
担任は軽やかにそう言って、笑顔で去っていった。残されたのは俺と──夢咲さん。
「……さっそく押し付けられたな」
「……」
夢咲さんは視線を書類に落としたまま、作業に取り掛かっていた。左様ですか。俺は机の上に置かれた紙の山を見下ろしながらため息をついて作業を進める。
「とりあえず、作業分担しようか。俺が書類を分けていくからホチキス止めを...」
彼女は俺の言葉など聞く耳を持たずに、手元のプリントを分けてはホチキスで止めていた。黙々と作業を進める姿に倣って俺も作業を開始していく。ある程度作業になれて、余裕が出てきた俺は彼女に声をかける。
「……こういうの、作業は嫌い?」
「そういえば、いつも何の本を読んでいるの?」
「笑った顔を見てみたいな」
彼女色々と話しかけていると、ため息を吐いて返答する。
「口じゃなくて手を動かしたら?」
ようやく返ってきた声は、冷ややかだった。
「もちろん動かしている、何なら夢咲さんよりも進んでいるかな」
俺がそう告げると彼女は俺の方をようやく見た。作業してある分量を見比べて少し驚いた表情を浮かべる。そして一つを手に取って完成度確認するも文句を言えるレベルでないと判断し俺の束に戻した。
「私と話すとつまらないんじゃない?」
「いや、俺は君に興味があるけれど」
「教室で私が委員長のクラスはつまらないと断言していたのに?」
静かに、けれど鋭く。彼女の目がこちらを射抜く。
「それはそうでしょ。だって、夢咲さんが“やらされてるだけ”のクラスなんて、面白いわけがない」
彼女は俺の真意を探るように見つめてくる。けれど、本心で言っていることが伝わったのか、何も返答をせずに作業に戻る。自分でもまだ整理できていない感情を必死に理解しようとしているよう感じた。
それから、何度か質問するが彼女は一切答えなかった。それでも、最初合ったような完全に距離を取られたような雰囲気はない。カチン、とホチキスが鳴る音がまた教室に響き渡る。ほんのわずかだけでも変化があればうれしい、そう思った。
***
それからも担任は俺達に体よく作業を押しつけられることが多かった。
「じゃあ、このプリントを下校時間までにクラス全員分仕分けて、ホチキス止めしてくれ」
いつも通り担任は軽い口調で仕事を投げて、教室から姿を消した。
「……」
俺は小さく息を吐きながら机の上のプリントの山を見下ろす。
「まぁ、やるしかないか」
そう口にすると、隣の夢咲さんはわずかに眉を動かす。けれど言葉はない。ただ、静かに席に着き、プリントに手を伸ばす。
(……反応なし、か)
ふと、後ろのドアが開く音。
「おーい、連ー!」
「手伝いに来たよ」
松崎さんと中里さんだ。俺の頼みで呼んでおいた。
「うわ、またこれ? 先生ほんと雑……ま、分担すれば早く終わるしね。ね、夢咲さん」
松崎さんが穏やかに声をかける。けれど、夢咲さんはぴくりとも反応しない。視線は書類に落とされたままだ。その後も松崎さんが話しかけるが、夢咲さんは一切の返答をせず、カチン、カチン──というホチキスの音が一定のリズムで教室に響く。
松崎さんと中里さんも、最初はにこやかに話しかけていたが、彼女の返答はなかった。作業も終わりに近づいてきたとき、夢咲さんが、ふと手を止める。そして、誰にも視線を向けずに、ぽつりと呟いた。
「……どうして、私に関わろうとするの?」
その声は、刺すようなものではなかった。ただ、戸惑いと、ほんの少しの…哀しさのような色を帯びていた。
「……特に理由なんてないけど、しいて言えば夢咲さんが気になるからかな」
松崎さんが、そっと返した。
「私、感じ悪いでしょ? 無愛想で、誰にでも冷たくて、めんどくさい」
「うん、まぁ返答がないのは正直ちょっと怖かったかも」
松崎さんは正直に答えた。それに夢咲さんの目が細くなる。
「じゃあ、なんで」
「でもさ」
その言葉に被せるように、松崎さんは言葉を続ける。
「そういうのって、たぶん最初だけって思ってるから」
「……」
「私、中学のとき、すごい無愛想な子と席隣になってさ。最初ぜんぜん話してくれなかったけど、ある時…なんとなく、お弁当のこと話したら、そこから急に笑ってくれて」
「……」
「それでわかったの。人って、怖そうに見えても、ちゃんとタイミングと場所があれば仲良くなれるって」
「……でも、私とは違う」
夢咲さんは、やや強い口調で言い返した。
「私にはそういう、かわいげなんてない」
「……うん、そう思ってるんだろうなってわかる」
松崎さんは真っ直ぐな目で、夢咲さんを見つめる。
「だから、私は信じるよ。君のこと。いま笑わないのも、いま話さないのも、過去になにかあったからなんだって」
「……!」
「理由がなきゃ、そんなに必死に距離を取らない。私たちを“追い払おう”なんて思わない」
沈黙。夢咲さんの手が、わずかに震えていた。中里さんが、ゆっくり言葉を添える。
「私は、ちょっとだけ“気になる”ってだけ。だから話しかける」
夢咲さんは、しばらく黙ったまま、プリントの束を見つめていた。
「……そう」
ポツリとそう言い残した彼女がその後話すことはなかった。
***
作業がひと段落して、教室の時計が午後五時を少し回った頃。空になったプリントの束とホチキスの芯が、今日の成果を物語っていた。
「……よし、これで全部か」
俺が束を整えてふうっと一息つく。それを見た夢咲さんはさっさと帰宅してしまった。
中里さん、松崎さんと肛門を出たところで俺の緊張の糸も緩む。
「少しだけど話してくれるようになったね」
隣から聞こえてきたのは、松崎さんの穏やかな声だった。俺は小さく頷いてから、ふっと息を吐いた。
「……ああ。でもそれは、二人がいてくれたからだ」
「え? でも、最初に動いたのは連くんでしょ?」
そう言って笑う松崎さんに、俺はゆっくりと言葉を重ねる。
「……確かに俺は二人で過ごしたこともあったけど、会話にならなかったからな。だから、あの子にとって“信じてくれる同性の存在”の方が必要だと思ったんだ」
「……」
二人は真剣な表情で俺のことを見つめていた。
「……」
「たぶん、今まで色々あって──きっと、誰かに裏切られたりもしたんじゃないかな。だから、松崎さんみたいに相手の懐に飛び込んでくれる存在が必要だった。それに中里さんのように似た存在も」
松崎さんは驚いたように俺を見つめて、それから目を伏せて微笑んだ。
「……そういう風に考えられるのって、すごいと思う。その子のためにどうしたらいいかって、ちゃんと考えてあげられるのが連なんだね」
そうして俺の方を振り返った松崎さんは立ち止まって俺のことを見つめて告げる。
「最初に声をかけたのが君で、やっぱり良かった」
笑顔でそう告げる彼女の表情は夕日に反射して幻想的に見えた。
「……ありがとう」
俺は思わずそう返していた。中里さんもその会話を静かに聞いていたが、やがて言葉を選ぶようにゆっくりと話し出す。
「……私も、今日来てよかったなって思います。本当はどこか寂しそうだったと知れましたから」
「そうだな、彼女と友人になれるように頑張ろう」
「そうですね」
そうな風に3人で笑いあった。夕暮れに包まれた校門の前。心地よい沈黙が流れていた。俺は空を見上げて、静かに言葉を継いだ。
「……これからも、よろしく頼むよ。俺ひとりじゃ、出来ないことだらけだから」
「そんなことないと思いますよ。でも、よろしくお願いします」
「私の方こそ、よろしく」
二人の返事は、まっすぐであたたかかった。そして俺たちは、暮れなずむ空の下を歩き出す。ひとつの目的のために、同じ歩幅で歩きだした。




