一話 小さな違和感
ある朝、香取優子は目の前に出された目玉焼きと食パンに小さな違和感を覚えた。目玉焼きはこんなにも艶やかな黄身をたたえているのに優子が感じるのは妙な引っ掛かり。思わず皿とにらめっこしてしまう。そんな優子の様子に叔母である美幸は笑った。
「どうしたのそんなに見つめて。冷めちゃうわよ」
「ねえ、なんか変じゃない?」
自分でも何が変なのか分からないが優子はとりあえず声に出してみた。美幸はきょとんとした顔で優子にコーヒーを差し出す。
「変って何が?」
「う~ん…何か変だよ」
食パンにバターをたっぷり塗り付け、目玉焼きをその上に乗せる。一口含めばパンはさくりと音を立てた。破けた黄身がとろりとして美味しい。傍らでは朝のニュースがしょうもない話で盛り上がっている。そして、台所の美幸は忙しそうにせかせかと動いて優子の弁当を詰めていた。なにもおかしなことはないはず。でもなにかが決定的におかしい。
いつもと違う。
いつも?
「優子ちゃん?」
美幸の声に優子ははっとして顔を上げた。心配そうな顔で美幸が優子の顔を覗き込んでいる。なんでもないの、と元気よく口にパンを詰め込んで見せれば美幸はにこりと笑った。
「あんまりゆっくりしてるとお友達待たせちゃうんじゃない?」
「えっ、もうこんな時間」
優子がちらりと時計を見やれば確かにのんびりだらだらご飯を食べている場合じゃない。手早く朝食を平らげ、コーヒーを流し込む。
「ねえ、今日はおじさん何時に帰ってくるの」
「遅いって。あの人も繁忙期らしいから大変よねえ。」
ふうん、と優子は聞いておきながらあまり興味はなさげだ。食器をガチャガチャと片付けると、急いぱたぱたと二階に上がり、昨日用意しておいた体操着袋と美幸が用意してくれた弁当をかばんに詰め込む。かばんが小さいせいか弁当が斜めってしまった。…まあいいだろう、腹に入れば同じだ。
最後に鏡を見た。癖毛がぴょこんとはねているが許してほしい。スタイリング剤をかけてもこの髪ときたら意思を曲げないのだからこのままにすることにした。胸元まで伸びる髪はパーマをかけているようにみえなくもない。天パの中でも恵まれている方だとは思う。優子は鏡の前でくるりと回ってみる。きちんと膝丈を守ったスカートには折り目一つついていない。きっと美幸がアイロンをかけてくれたのだろう。ようやく一息ついてコーヒーを飲んでいる美幸の背中に感謝の念を送りながら優子は家を出た。
「いってきます」
「は~い、いってらっしゃい!」
明るい美幸の声が返ってくることに何とも感じなかったはずだ。少なくとも昨日までは。自分はおかしくなってしまったのだろうか。優子は粟立った腕をさすった。
ここは海沿いの小さな町。昔は村々がそこかしこに乱立していたらしいが優子が生まれる2,3年前に一つの町になったらしい。町の東側には海、西側には山といった感じで遊ぼうと思えばいろんなことができる。昔はよく友達と駆けずり回ったものだった。町が小さいせいで小学校と中学校、それに高校が一つずつしかない。田舎だ、といえば学校もない地域の人には怒られかもしれないが、優子は十分に田舎だと思っている。だって、テレビでよく見る激安イタリアンファミレスや牛丼屋さんもないのだ。あるのはやたらと明るいコンビニと小さな商店街だけ。それも21時を回れば電気を消してしまう。もう少しやる気を出してほしい。
「あっ!やっと来た~!」
「ごめんごめん」
駄菓子屋の前で待ち構えていた奈々に優子はへらへらと頭を下げる。遅いよ!と頬を膨らませてぷりぷりしている奈々の背中を押して学校へと急ぐ。
「いつも私より早いのにどうしたのさ」
「なんかぼうっとしちゃって」
「なんじゃそりゃ」
奈々は呆れた顔で優子の顔を見る。優子は何とかこの違和感を説明したくて、口をもごつかせる。でも本当に言葉にするのが難しい。何かが決定的に違うはずなのに何が違うか分からない。
…いや、忘れてしまったのか?
「あの人誰だろう」
物思いにふけっている優子の横で奈々は校門の方を指差した。つられて優子も目をやると、確かに見覚えのない男だ。こんなに小さな町だと道行く人はほとんどすべて知り合いである。あそこで歩いているのはどこどこの旦那さん、道端会議につかまってるのは最近あの家に嫁いできたお嫁さん、その辺で走り回っている少年ですらどこの家の子か分かる。そういうわけで観光客などすぐにわかってしまうのだ。まあ、この町は寂れすぎていて滅多に観光客などいないのだが。
校門の前にいる男は観光客になんて見えなかった。30代半ばぐらいで服装はジーンズと柄物のシャツ。どこから買ってきたのかというぐらいダサい。グラサンをかけていないだけ救いだろうか。
「なにあれ、不審者じゃない?」
白い目で優子は言うが、その一方でなぜか奈々は目をキラキラと輝かせている。
「イケメンだ!」
奈々がばしばしと優子の肩を叩きながら叫ぶ。
そうだった、こいつ面食いだった。
男の顔立ちは優子の目から見ても、まあまあそれなりに整っていた。鼻梁は高く、すっと鼻筋が通っている。鼻が低いことがコンプレックスな優子にとっては羨ましくてしょうがない。そして、シャープな顎には髭が生えており、目尻は少し甘く垂れている。本来は童顔なのではないだろうか。その目元を隠すようにふわふわとうねった髪が自由奔放にはねていた。ファッション雑誌にでかでかと書いてあった色気がある男とはこんな感じか?服装ですべてを無に帰しているが。
なんか、この感じ…
「女殴ってそう。」
「なんてこというのよ!」
信じらんないと言いたげな非難がましい視線を優子は手で振り払う。ただのイケメンだとしても不審者だとしても校門をくぐらないと先生を呼ぶことができないので、結局二人は仲良く手を繋ぎながら門に近づいた。変なことでもしようものなら大きな声出してやるんだから。そう意気込んでいる優子の横で奈々は頬を赤らめて男を見つめていた。隣から「求婚されたらどうしよう」と聞こえた気がするが、無視だ無視。この頭お花畑め。
視線を逸らしながら男の横を通り過ぎようとしたその時、男が唐突に優子に声をかけた。
「君が高梨優子だな。」
「は?」
優子は思わず振り向いてしまった。男はやっと見つけた、と言ってにやりと笑った。なぜこの男が優子の前の名前を知っているのか。こちらへ引っ越してくる前の知り合いなのだろうかと優子は怪訝な顔で男を見つめる。奈々だけが頭にいっぱい?をつけて呆けていた。
「優子の名字は香取ですけど…」
「こら!人の情報漏らさない!」
優子が奈々を睨みつけると、奈々はぺろりと舌を出して謝る。可愛い顔すれば許されると思っているのが奈々の憎らしいところだ。
「香取?…あぁ、なるほど。こちらではそんな感じで扱われているのか。」
別にさして濃くもない顎の髭をさすりながら男は訳知り顔で何やら呟いている。優子は学校の時計の秒針が刻々と動いているのに焦りながら男に問うた。
「さっきから意味が分からないのですが、あなたは誰ですか?」
男はポケットに突っ込んでいた手を出して、一枚の写真を優子に差し出した。
「こんにちは。僕は伊吹弥。君を迎えに来たよ」
写真の中には一人の少女が映っていた。学生写真かなにかだろう。黒ずんだ隈の張り付いている陰鬱な瞳でカメラを睨みつけている。ばっさりと切られた髪は肩ぐらいで、あちこちがはねて酷い癖毛に見える。制服の襟はよれていてなんともみっともない。
会ったこともない知らない少女である、と優子には言えなかった。
写真の少女は明らかに優子自身であったのだから。
呆然とした顔で優子は男、伊吹を見る。
飄々とした態度の伊吹はその後文字通り優子の世界をぶっ壊し、人生そのものを変えてしまうだなんてこの時の優子は知る由がなかった。