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話し合うまでもないのでしょう?
レベッカは珍しく時間に余裕をもって参加することができた王族主催のパーティーで婚約者のローベルトを見つけた。
時間に余裕があるといっても、身内へのあいさつ回りや根回しの為に兄や父から離れることのできる時間は少なく、隙を見てどうにかほんの五分、彼の為に時間を作った。
再三の呼び出しにも応じずに、手紙の返信はいつも適当。
彼には彼の生活もあるし、成人しているけれど婚前の楽しく自由な時間を満喫したいという彼の気持ちもわからないことはない。
けれども、それでもレベッカとローベルトは将来を誓い合った仲だ。同じ屋敷に帰り、同じ屋根の下で眠って生活を共にすることになる、だからこそ関係をおろそかにはできない。
……それに、当初の予定から変わってきているもの。もちろん悪い方向にでは無いけれどだからと言って、放置するような怠慢をしては私の落ち度。
せっかくよい方向に上向こうとしているときに、二人で同じ方向を向けないのは悲しいわ。
考えつつも足を動かし、人の合間を縫ってレベッカは重たいドレスを軽々となびかせながらローベルトの元へと向かった。
華やかな衣装に身を包み、令嬢たちと談笑して羨望のまなざしを向けられている彼を見るとやっぱりレベッカは、彼ときちんと向き合っていきたいと思うのだ。
それは、もちろん彼の見目が麗しいことがだけが理由ではない。レベッカとローベルトの間には長い長い歴史があって絆がある。そう少なくともレベッカはそれを疑ってはいなかった。
「ローベルトッ!」
やっと彼の近くまでやってきたレベッカは、息を切らせて声をかけた。
ふとこちらを向く彼は少しキョトンとしていて、レベッカを見ると表情をほころばせた。
「レベッカ、なんだ、やっと自由な時間が取れたのか? よかったそれなら少しは私に付き合ってくれよ、今彼女たちと……」
これからの楽しい予定を話そうとしている彼に、レベッカは少し頭を振って意思表示をしつつももう一歩彼の傍へと寄った。
「悪いけれどっ……今はまだ時間がないの、ごめんなさいね」
そばにいた令嬢たちに、レベッカは少し肩を落として謝罪をする。流石にローベルトの友人たちを無視して、提案を断るだけでは感じが悪い。
配慮はしたいと思っていると伝えるために目線を合わせてそれからすぐにローベルトへと視線を戻した。
「あのね、ローベルト。手紙でも再三言ったように、大切な話があるのよ。簡単に説明することもできないし、誤解がないように伝えたいからきちんと顔を突き合わせてしたい話があるの」
「……」
それから心を込めてレベッカは真剣な顔をした。けれども不安にならないようにとても言葉を選んで少しだけ笑みを浮かべる。
「大切なことなのよ。あなたにとっても……私にとっても」
「……大切……」
ローベルトはレベッカの言葉を繰り返し、レベッカは深く頷いた。
その様子にこうして目を見て話をすればきちんと伝わるのだとレベッカは少しホッとした。
そして続けて言った。
「ええ、だから出来たら今すぐに、私はまだ少しこの後まだやるべきことがあるけれど、あなたの時間が取れるならお父さまにお願いして、もう少し時間をもらうわ。控室を一つ借りて話を……」
しかし途中でレベッカは言葉を失って彼の表情をまじまじと見つめた。
ローベルトは一歩引いて、まるで親に用事を言いつけられそうな子供みたいな顔をしていた。
…………。
その表情にレベッカははた、となにか自分の中で気づきを得たような気がしたけれど、口を引き蒸すんで言葉を止めることによって思考も停止した。
するとローベルトはぱっと思いついたようにそばにいた令嬢たちへと目線をやって、言い訳のように言った。
「いや、急にそんなことを言われてもな。というか仕事が終わってないなら声なんてかけに来なくていいのに。しらけるし」
「……」
「それに、彼女たちとの方が先約だ。わかるだろ?」
「……それはもちろん。なら翌日でも、明後日でも構わないわ。話し合わなければならないことが……山ほどあるのよ」
「あぁ、いい、いい。私は、別に話し合わなくたって」
取りつく島もなく断られ、目の前にいるはずの彼に対してレベッカは酷く距離が遠のいているように感じた。
しかしそれでも、勘違いかもしれないとレベッカは食い下がる。
けれども、一度取り繕ったはずの彼は、面倒くさくなったのか適当に本性を現わして、笑みを浮かべて言った。
「そんなことより、最近本当に君は付き合い悪いな? 仕事にかまけて、私が社交界でどんなふうに見られているかわかるだろ? やるべきことは君が全部きちんとしてくれているんだからそれでいい、でもだからと言って婚約者を放っておいて良いわけじゃないだろ?」
「……」
「もっと私に寄り添ってくれなければ。君はたしかに悪くない女だけれど、それだけだろ? 私は別に、君のほかに当てがないわけじゃない。楽しい時間を共有できない結婚相手なんて虚しいだけだろ?」
ローベルトがそう口にするとそばにいた令嬢のうちの一人が「そうよ。そうよ。ローベルト様は寂しがってるわ」となぜかレベッカを責める様な声をあげる。
……たしかに、私は、公爵家の身でありながらも爵位継承者ではないわ。けれどそれは元々だし、父や兄を補佐するために分家として爵位を賜る予定もある。
だからこそローベルトを婿に貰い、下級貴族としてだけれど彼と生活をしていくことになっていたのだ。
とてつもない優良物件というわけではないけれど、それでも悪くはないはずだ。そのための努力も重ねてきた。
それもこれもきちんと知っているはずなのにローベルトは……。
そこまで考えてレベッカは、無言でそのまま身をくるりと翻した。
「おい? ……レベッカ!」
背後からローベルトの声がする。しかし振り返ることはしなかった。
なぜならこのまま彼と向き合えばレベッカは彼のことを糾弾してしまう気がしていた。
たしかに、社交界での交流はもちろん必要だし彼はただ遊んでいるわけではないはずだ。けれども、何事もまず基盤の生活があってこそである。
それをないがしろにしては、立ち行かなくなってしまうだろう。
数歩歩くと人々の楽し気な喧噪にまぎれてローベルトの声が聞こえなくなって、彼は追いかけてくることもしない。
自身にも関わる重要なことだ。大切な話だ。レベッカとローベルトの。
……私とあなたの。
けれど彼の態度では、二人の、ではなく私だけのことみたい。
それって、あなたは怠慢ではないの? あなたは間違っていないのかしら?
一度浮かんだ疑問はとめどなくあふれる。落ち込む暇もなくすぐに父や兄の元へと戻るが、レベッカはそれから上の空だった。
その場で責めることもできた。しかしそれをしなかったのは、きっとレベッカの中にまだ自覚もできていないような彼に対するあきらめの気持ちが生まれたからに他ならないのだった。
数ヶ月後、あれ以来ローベルトとはまともに話し合いをすることはなく、突如として婚約破棄を申し込まれることになった。
パーティーの時そばにいた令嬢、彼女がローベルトとの間に子供を妊娠してしまったそうなのだ。
婚約破棄を申し込みに来たのは、そのベルナー男爵家の跡取り娘であるヘルミーナに連れられてだった。
結局彼女に言われたのは、ローベルトも順序を間違えていたけれど、レベッカも悪いという様な旨の話で、彼を放置して一人にしていた罰が当たったのだと勝ち誇ったように言ったのだった。
その時の様子を思い出してレベッカは、大きなため息をついて私室の机に突っ伏した。
適当に下ろしている髪がさらさらと落ちてきてレベッカの視界を遮る。
やらなければならないことはたくさんあるというのに、なんの為にそれを頑張らなければならないのかという思考があれ以来頭をよぎるのだ。
「……」
……なんの為にってそれは自分の為にもなるし、お兄さまやお父さまの為にもなるわよ。
頭の中で自分の思考にそう答えを出すけれども、起き上がる気にもなれなくてまた大きくため息をついた。
すると無造作にも頭をわしわしと突然撫でられ、レベッカは少しだけ首を動かして頭を机に預けたまま兄を見上げた。
「……最近、どうも調子がでてないな」
彼はレベッカとお揃いの金の瞳を鋭く細めて妹を心配するように少し様子を窺った。
「そんなの理由なんてわかりきってるでしょう?」
「ま、それもそうか」
「……別に落ち込んでいるわけじゃないのよ。お兄さま。ただ私のやる気の問題……」
実のところは少しばかり、気落ちしている部分もあったが兄を心配させないようにレベッカはそう口にした。
自分が悪かったのだろうかとか、どうしてこんなことになったのかとか、あの時諦めがついたはずなのにローベルトのことが頭に浮かんでしまうこともある。
今までは、彼を婿に貰うということで彼の顔を思い出すとことさらやる気が出るレベッカだったが、今ではそれが真逆の効果を生みだしている。
そしてさらに、彼がいなければ自分はこんなにもダメなのかと考えてしまって鬱々とした気持ちから抜け出せずにいた。
しかし、そんな妹の様子を見て兄ジークフリートは、申し訳ないとまでは思わなくとも、少し悪いなという気持ちになって妹に優しく言った。
「やる気か。あまり気負わなくても良いんだぞ? レベッカ。どうせお前は割と優秀だろ。それなりでいい」
「そういうわけにはいかないでしょう?」
「いやいや、案外気軽に構えてた方がうまくいくもんだ」
「でも、私はしっかりしたいのよ。出来る限り完璧に」
「……そうか、じゃあ困ったな」
「ええ、困ってるの」
気楽に構えろというジークフリートに、レベッカは気休めだとしてもその言葉を嬉しく思う。
嬉しくは思うが、真に受けるわけにもいかない。
なんせレベッカが大失敗をすれば、被害に遭うのはレベッカだけではない。レベッカはこれから多くの使用人や家族の命運を背負っていくのだ。
それはひどい重荷になるだろう事実だ。けれども、生まれた時からそれを背負ってレベッカに優しくしてくれた兄。
彼をちらりと見上げると、彼はぽつりと言った。
「真面目な妹に甘えるおにいちゃんでごめんな」
「いーえ。むしろ、甘えてくれてうれしいわ。だってせっかく大切な人が出来たのですもの」
顔をあげてレベッカはほお杖を突いて、少しニヤつきながらも兄に言う。
「彼女とはうまくいっているの?」
「そりゃもちろん。順風満帆だ!」
自信ありげに言う彼は恥ずかしがる様子もなく、少し頬を染める兄が幸せそうで何よりだと思った。
彼は継承者教育を受けながらもずっとレベッカにとっていい兄で頼れる兄だった。そんな彼は、兄らしくレベッカに一度だって弱い所も情けない所も見せたことがない。
そんな兄を尊敬してレベッカは誰よりも近い家族として兄のことを大切に思っている。
だからこそ、初めてレベッカに頭を下げた兄の願いにレベッカは一も二もなく即答で来た。
「私も早く会ってみたい。お兄さまが好きになる相手だものきっととてもいいひとね」
半年ほど前の出来事、隣国エレノア王国との間に亀裂が走り、我がソルンハイム王国との衝突がついに起った。
国境付近にある貴族領地は警戒態勢に入り、今でも自由に経済活動が行われていない。大貴族はそれでも大した打撃ではないが中小領地は今も国家からの支援を必要として没落寸前の領地がいくつもある。
兄は騎士団の仕事として戦地に赴いたがそこで、彼女と出会ったらしい。
そしてどうやら恋に落ちた。しかし家計の危うい下級貴族の娘を公爵夫人にすることはとても難しい。
だからこそジークフリートはレベッカに頭を下げた。
「ああ、いい子だ。お前もきっと気に入る。早く迎えに行ってやらないと」
レベッカではなく少し遠くを見て寂しそうに言う兄に、レベッカはやる気が出ないなどと言っている場合ではないなと思う。
それに、これはレベッカにとってのまたとないチャンスだ。公爵という大きな権力を得ることが出来る千載一遇のチャンス。
本来ならばやる気など勝手にあふれてきて然るべき、兄だってこうして遅い時間までレベッカの勉強を手伝ってくれている。
だからこそ、一分一秒でも早くケリをつけてジークフリートに恩返しをしたい。
兄のまなざしを見てレベッカは改めてそう思った。
しかし、遠くを見ていた兄の目はふとこちらに向いて彼は言う。
「そういうわけだし、俺としてもレベッカにはいつもの調子を取り戻してほしいんだ」
「ええ……? そうね、頑張るけれど」
「いーや。一人で頑張るより、俺もお前も、どちらかというと他人のための方がバリバリやる気が出るだろ?」
「それもそうね」
彼女を娶ると決めてからの兄の働きっぷりはすさまじいものだった。父もその様子を見て兄の意見を呑んだのだ。
同じくレベッカも、またジークフリートとよく似て、自分の為にというより誰かのため、誰かとの未来のための方がずっと体が軽くなる。
それを見込んで兄は同意したレベッカに少し笑みを向けて言った。
「紹介したい人がいるんだ」
兄に紹介されたのは、ありていに言うととてもいいひとのようだった。
一度、兄と三人で顔合わせをした後、すんなりと次の予定を決め、彼は気を使って出かけている父と兄のいない屋敷にやってきた。
「また会いに来てもらってごめんなさいね。なにも私だけが忙しいわけではないのだからと兄には言ったのだけれど」
「全然、気にしなくていいから。いやもちろん俺の屋敷にっていうならそれも構わないけれど、急にそういうわけにもいかないし」
「そうね。会うにしても外で会ったり……かしら」
「ウン、でもほら公爵家の大事な娘さんに何かあっても困るから」
彼はぎこちなく笑みを浮かべて、ぱたぱたと両手を振る。前回同様、どこか緊張しているらしく会話には距離がある。
もちろんで会ったばかりなのでそれほど馴れ馴れしくても困るのだが、レベッカと目の前の彼、フォルクハルトはただの友人関係として紹介されたわけではない。
「それに、何かあればジークに殺されかねないしね。今日も猛烈に脅されちゃったよ。あんなに心配するなら君にかっこつけずに、そばにいればいいのに」
思い出したようにそういう彼は、やはりどこからどう見ても人の好さそうな親戚にもいそうな良い人に見える。
ローベルトとは正反対とまではいかなくとも、兄が選んでくるだけあって誠実そうに見えた。
「そんなふうに言われるほどなんて、少し恥ずかしいわ」
「君が恥ずかしがる必要はないよ。それにいいことだよ、家族仲がいいのは。貴族はやっぱりそうもいかない人が多いからね。相続や跡継ぎ問題でもめることもざらだし」
さらりとした藍色の髪に、瞳も深いブルーでとても知的な印象を覚える。
せっかく兄が紹介してくれた人なのだ、レベッカも兄の期待にこたえたいという気持ちもあった。
「そうね」
「それにやっぱり最近の情勢もあるからね、どこも経済的に厳しくなると身内の粗が見えてくるものなのかな。自分としては無いものを奪い合うよりももっと頼れるものは頼ってきっちりしてくれるだけで随分仕事が楽になるんだけれど……」
瞳を難しく歪めて少し眉間にしわを寄せる彼に、レベッカはやはり王城に務めているとなると、休日までも仕事のことを考えるようになるのだろうかと彼を眺めながら考える。
フォルクハルトと兄は職場でのつながりの友人なんだそうだ。
事務官と騎士団の団員などまったくもってつながりもないだろうと思っていたが案外そこは兄の気さくさが才能を発揮した部分なのかもしれない。
すると、フォルクハルトは少しぶつぶつと言って、それからハッとしたようにレベッカの存在を思い出し慌てたように話題を戻す。
「ごめん、つまらない話をして! これで自分はいつもてんでダメなんだ。聞いていて退屈じゃない話をしようと思うんだけれど、あまり社交界に出ないものだから話についていけなくて」
「いいえ、私はフォルクハルトさんがどんなお仕事を王城でしているのかお聞きしたいわ」
「いやいや! 面白くないよ、税金や政策の現場の話なんて聞いたって気が滅入るよ。レベッカさんはそうして優しいから興味を示してくれるのだろうけれど」
「優しさというより興味よ?」
「わぁ、まずい。ごめんやっぱり自分でいいのかな。ジークに声をかけてもらったのは嬉しいけれど、自分はまったく女性経験もないしっ」
慌てる彼にレベッカは小首をかしげて問いかける。すると彼は今度は顔を赤くして困ったように笑う。
しっかりと仕事をしていて、どうやら真面目そうで、とてもいいひとそう。
それは会ってたった二回目の交流であるレベッカでもありありと実感できる。それはとても良いことで兄に期待されているように、最近不調続きのレベッカのやる気を出してくれる人物になるかもしれない。
そうは、思う。
けれども、レベッカは彼には悪いけれどと心のどこかで踏み出せずにいた。
与えられた課題を終えて、実務に移りすでに跡取りとして正式には決められていないが、その話は身内以外にも流出し始めている。
やる気が出ないと言いつつも、なんのかんのとここまで手を動かしてやってきた。
けれど心のどこかでずっと引っかかっているのだ、二人で良い方向に向かうために頑張っていたあの日々、にべもなく話し合いを断られ、捨て置かれたレベッカは何を間違えたのだろうか。
レベッカが間違えたからこうなってしまったのだろうか。
その思いはやっぱり目の前にいる彼ではどうしようもないことのはずで、こうして一生懸命にレベッカとの仲を深めようとしてくれている彼に酷く申し訳ないような気がした。
「年も離れてしまっているしな。あ、そうだ、ジークは君にしっかり確認をしたのかな。年上は嫌だったけれど言い出せずにいるなんてことは……」
彼はまたハッと勝手に何かに気が付いたようなつもりになってレベッカを心配している。
もちろんそんなことはない。レベッカは年上だろうと年下だろうと特に気にしたこともないのだ。
しかし、そうだと言ったらきっととても簡単に彼の時間を無駄にしたことを謝って気軽に別れることが出来る。そうしてしまえば……。
心の底でそう願ったからだろうか。そのレベッカのどうしようもない気持ちが届いたように、応接室の扉が開き、侍女が深く頭を下げて知らせを持ってきた。
「お話し中に申し訳ありません」
「いいよ。気にしないで」
フォルクハルトは侍女の言葉に目を細めて、すぐにレベッカに話をするようにと視線で示した。
「ありがとう。どうかしたのかしら?」
焦った様子の侍女に、レベッカは少し優しく問いかけた。
想定外の出来事がなければこんなふうに来客中に話をさえぎったりしないはずだ、なにやら耳を澄ませてみると応接室の外も少し騒がしいような気がした。
「……ベルナー男爵家に婿入りされたローベルト様が取り乱したご様子でいらっしゃっています」
「ロ、ローベルトが?」
「はい、来客中ですとお伝えしたのですが、ご自身の方が先約があったとおっしゃいまして」
声を潜めていたけれど、静かな室内に、侍女の声は良く響きフォルクハルトにも彼の来訪を知られることになる。
もちろん、穏便に今回のことを無かったことにしようと考えていたレベッカだったが、まさかこんなタイミングで問題がおころうとは考えてもいなかった。
……いいえ、こうしてくるかもしれないことはむしろ想定しておくべき事態だったわね。
ああして話し合いもできずに、別れることになりその後にレベッカの跡取りへの抜擢の話が出てきたのだ。いつこうなってもおかしくなかった。
ただまさか今とは、思っても見なかった。
フォルクハルトと会うために気を使って父と兄は不在だ。
無視することもできなくはないだろうけれども、それでは使用人たちに酷い迷惑をかけてしまうだろう。
それにしてもまさかこんな非常識をしてのけるとは呆れる。せめて普通に会いに来てほしかった。そう考えて額を押さえた。
フォルクハルトを放っておくこともできないし、とても困った状況だ。
「そうね……ええと……」
しかし決断をするべきだろう。フォルクハルトにはまた後日と伝えてそれからローベルトの対応をするしかない。
……するしかないのだけれど……。
こうなることは必然ではあっただろうし、やるべきこともわかっている。しかし、いざこうなるとレベッカは自分の中にもう一つの大きな感情があることに気が付いた。
…………会いたくない。
結局、捨て置かれて、仕方がなく受け入れて、そして彼が言いに来るのはきっと文句だ。
……私がうまくやれなかったからって、きっと言うわ。私と彼の間には長いこと繋がっていた絆があるというのにって。
支え合っていけない私が悪かったの?
すぐに決断をしなければならないのにレベッカは難しい顔をして、数秒の間黙り込んだ。
ただ、それでもレベッカはやることを後回しにはしないたちだ。あとほんの数秒悩んで時間が経過すれば、毅然とした態度で対応しようと結論を出していたはずだった。
「あの、俺が対応しようか? 以前の婚約者だよね、気まずいだろうし」
しかし、その可能性はフォルクハルトの言葉でぷつりと潰えて、彼は人の好さそうな笑みを浮かべて「彼とは面識もあるし、職務上でもつながりがあるので」と少し丁寧に言ったのだった。
「いやいや、そんなわけにはいかない」と「大丈夫、大丈夫」という問答を三ターンほど繰り返し、レベッカは最終的に、二人きりで会うよりはずっといいと結論を出した。
それでも彼に任せっきりにするつもりもない。応接室へとローベルトを通すように言い、レベッカはフォルクハルトの隣に腰かけ彼と向き合うことになった。
久方ぶりに見る彼は、レベッカが想像したいつもの彼とは少し違っていて、装いもおざなりに着崩されているし、自信にあふれたキラキラとした雰囲気はどこかに消え去っている。
それを見て、レベッカを捨てた彼だけがまるで正解だったかのように人生の成功を収めているわけではなかったのだということを知った。
入ってきた彼は一番にレベッカを見つけて表情を明るくしたけれど、すぐ隣にいるフォルクハルトを見て目を見開いてあの日のように一歩引いたのだった。
「お久しぶりですね。ローベルトさん。随分奇遇ですね。ベルナー男爵があなたのことを首を長くして待っておいでですが? こんな場面であなたに会うことになるとは思いもよりませんでした」
「な、何故。ここに……あなたのような人が……」
「挨拶ぐらいはしてほしいです。知らない仲ではないのですから」
「わ、私はただ……レベッカに会いに来ただけで……」
「そんな状況ではないでしょう。ローベルトさん」
戸惑ったようにレベッカに視線を向けるローベルトに、フォルクハルトは続けてレベッカにも事情を説明するように言った。
「自分が事務方で財務関係の仕事とはレベッカさんにもお伝えしていましたが、丁度今はエレノア王国関係で傾いている貴族の支援を任されていましてその件でジークとも仲良くさせてもらってるんだ」
「あ、そういう……」
「そう、だからこの人の事情も周りの関係地も少しはわかっているつもりだよ。……そうですよね。ローベルトさん、妊婦の妻を屋敷に置き去りにしていると、ベルナー男爵がカンカンでしたよ」
彼はなんてことのないように説明をする。いわれて考えてみれば、ベルナー男爵家もエレノア王国の国境側の貴族であり、今はとても大変な時期だろう。
レベッカはああして婚約破棄されて以来、とくに相手のことを調べるでもなく意気消沈していただけだったので知らなかったが、そんな時期に突然跡取り娘を孕ませ、さらに置き去りとは男爵が怒るのも頷ける。
ローベルト自身もどこか憔悴しているような様子で、婚約していた時のようなキラキラとした雰囲気が感じられない。
あれから苦労していることは明白だった。
「ああ、でもあなたの気持ちもわかりますよ。あんな経済状況だと知らずにヘルミーナさんに望まれるままに関係を持ったのでしょう? たしかにローベルトさんは惜しいことをしましたし、実際にそう思われるのも仕方がないことですね」
「……」
ローベルトはレベッカに話を切り出すこともできずにバツが悪そうにフォルクハルトの前で苦虫をかみつぶしたような顔で話を聞いていた。
自分から来たくせに、フォルクハルトの顔を見た途端帰りたくなったようだった。
けれどもローベルトはちらりと助けを求めるようにレベッカのことを見た。
その縋るような瞳に、フォルクハルトが少し声を出して笑った。
「そんな女性に助けを求める様なことをしないでくださいよ。ここに自分がいてバツが悪いのだと思いますが、あなたを見つけたからには言うべきことが、山のようにありますから。提出が必要な書類は身重の家族に任せっぱなしでまったく進んでいませんし、衝突による領地の損害の補償についてなど、仕事があるでしょう?」
「いや、……それはだな。この後……」
「後回しに出来るほど国も甘くありません。融通を聞かせて先払いを了承しているのですから、すぐにでもとりかかってもらわなくては困ります。すくなくともこんなところで油を売っている場合ではありません」
「……いや、それはわかってるが……というか、なんなんだ? レベッカ! 私は君に折り入っての話が合って来たんだ。君の兄上の友人は席を外してもらってくれ!」
ローベルトはフォルクハルトに事務的にくどくどと問い詰められるとついに限界を迎えた様子で、レベッカに対して訴えるようにして言った。
けれども、そんなことは気にせずにフォルクハルトはつづけた。
「いえ、そもそも逆にローベルトさんこそこんなことは言いたくないですが自身の身をわきまえるべきですよ。不貞行為で慰謝料を払って別れた婚約者にどういうつもりで顔を出したんですか」
「そ、それは私たちの間には、ただ、すれ違いがあったんだ! だから決して私だけが悪いわけじゃ……」
「どういう理由があっても、傍から見たらローベルトさんが一方的に悪いです。それなのに、今の状況が気に入らないからと言ってレベッカさんに迷惑をかけるとは、ベルナー男爵家からも見捨てられてもおかしくありません」
隣にいるフォルクハルトは、なんてこともないようにまったく動揺せずに受け答えをする。
どうやら彼の仕事の調子はいつもこのような様子なのだろうと想像できた。
そしてローベルトは聞き分けがないが、レベッカの頭の中にはフォルクハルトの言葉はすらすらと頭の中に入ってきた。
……傍から見た、ローベルトはそんなふうなのね。
今更ながら、彼のことを客観視できたような気持ちになった。
レベッカは彼の為にも自分の為にも頑張って、向き合おうとも努力をした。
けれども、話し合いもできずにないがしろにされて、彼と分かり合うのをあきらめてしまった。
ヘルミーナにはそのことが悪かったのだと、レベッカのせいだと言われた。
……それで私、私も心のどこかで、私が失敗したからって思っていたのね。
だから前に進めなかった。
「あ、あんな家、私の方から捨ててやる! もういい! レベッカ! いいから話をしよう。私はこんな話をしに来たんじゃないんだ。君が公爵家の跡取りになるなんて話知っていたら――――」
彼は投げやりにそう口にして、フォルクハルトのことを無視して前のめりになりながら言う。
そこから続く言葉は予測できた。けれどもレベッカはああよかったとほっと一つため息をついて彼の言葉など聞かずに返す。
「あなたと話すことなんてないわ。私はあなたと話すべきことなんて一つもない。私が跡取りになっていようとあなたには関係ない。あなたの生活が今困窮していても私にはなんの関係もない」
「なっ、そ、そんなの薄情すぎるだろ! あれだけ私たちはともにやってきたじゃないか」
「そっくりそのまま、あの時のあなたにその言葉を返すわ。薄情だったのはあなたよ。話すことなんてないのでしょう。私の事情もなにもかも、あなたには関係がなかった。どうして私が忙しくしていたか、知ろうとしてくれなかった、あなたは知ることもせずに私を捨てた」
納得がいってすらすらとレベッカの口から言葉が出てくる。
あの日からのどに詰まって吐き出すことが出来なかった重りのような言葉だ。
「今更、あなたが私のなにかに気がついたって、話し合うまでもない。あなたにできることなんて後悔することぐらいでしょう? 今度は必要な時に相手と向き合うように生きたらどうかしら。例えば今はベルナー男爵とかね」
言い切ってレベッカはいつものように優しい笑みを浮かべた。
彼はいつも自分のことばかりで、そうだとしても向き合っていくことが婚約者としてのレベッカの務めだと思っていた。
けれどもそれだけではだめだったのだ。彼もそう思ってくれなければ、お互いに向き合っていこうと、その時に想い合わなければコミュニケーションというのは成立しない。
とても難しいものだと思う。けれど、それがわかってよかった。
そうでなければこれからもずっと彼と向き合うことをあきらめてしまった自分をレベッカは責めてしまっていただろうと思うから。
そう結論付けてから、レベッカは表情を厳しくしてローベルトに言い放った。
「フォルクハルトさんに伺ったように、あなたにはもう家庭があって国にも迷惑をかけているのよね。私はこの家の兵士を使ってあなたをとらえて、ベルナー男爵家につきだそうと思うわ。もう言うこともないもの」
「は、はぁ?! ちょっと待ってくれ、私はベルナーには戻らない! 戻らない! ここでレベッカ、君に許してもらうまで!」
「なら俺が連れていくよ。丁度、ベルナー男爵に彼の発言についてや今までの態度から話をするべきこともできたし」
「あら……そうなの?」
もちろん先ほどのベルナー男爵家など捨ててやるという発言についてや、よりを戻そうと公爵家に迷惑をかけた話など、彼が仕事で面倒を見ているベルナー男爵家に話をするのは間違っていないと思う。
しかし立ち上がった彼にレベッカは少し心配になった。
フォルクハルトはもちろん成人した普通の男性である様子だが、騎士でもなんでもないし、むしろあまり肉体的にたくましいというわけではない。
たいしてローベルトと体格は変わりがないだろう。
危険ではないだろうかと考えたが、フォルクハルトの言葉に過剰に反応して文句をつけるローベルトに、フォルクハルトはぱっと杖を向ける。
するといつの間にか水魔法が彼を直撃しあっという間に撃沈した。
……案外、容赦がないのね。
真面目で気優しいたちなのかと彼のことを、ただのいいひとだとレベッカは思い込んでいたが、それだけというわけでもなさそうである。
使用人たちとともに、ローベルトを縛り付けて運び出していくフォルクハルトにレベッカはソファーに手をついて立ち上がる。
「……じゃあ、今日はこのあたりで。それにしても良かったよ。仕事の悩みの種と遭遇できるなんて、この人、自分の義務から逃げ回っているほかにも多分、援助金の関係でもやらかしているから、もう君と会うこともないと思うよ」
「……ええ」
なんと言うべきかレベッカは少し迷って、それから彼の言葉に小さく頷く。
するとフォルクハルトは少し黙ってそれから目を細めて「少し面倒な部分を見せちゃったかな」と気まずそうに笑う。
「嫌味っぽくて、引くよね。話は自分からジークに断っておくから」
どうやらフォルクハルトは、煮え切らない様子のレベッカに勘違いしたらしく、自虐的に言って振り返ろうとする。
しかしレベッカは今度は迷うことなく返す。
「いえ、また会いたいわ。あなたに興味があるの」
「レベッカさんは優しいひとだね」
「違うわ。……あなたとなら、きちんとすれ違わずに話が出来そうだと思ったから」
レベッカはまた、一歩を踏み出して彼と新しい約束をして別れたのだった。
レベッカは、デレデレとした表情で隣にいる美しい女性を紹介している兄を見つめて、グラスを傾けていた。
跡継ぎとしての地位がきちんと安定し、あらかたの後継者教育を終えるとレベッカは以前のようにこうして、社交の場に当たり前のように参加することが出来るようになった。
最近は酷く急いでいて楽しむ余裕もなかったが、人々が楽しげにしているというだけでレベッカも気分が高揚するようだった。
けれどもレベッカの隣は不在でその高揚感を共有できる相手は今はいない。
それを少し寂しく思っていると「わっ、あ、申し訳ありません。とっ、アすみません」と忙しない声がして、そんな物悲しい気持ちは立ち消えてレベッカは振り返った。
するとそこには、王宮務めの事務官の制服を纏ったフォルクハルトの姿があり、彼の方へと向っていって手を差し伸べた。
「あ、レベッカさん。遅れてごめん。ちょっと面倒を言うお客さんがきていたものだから」
「いいえ、気にしていません。それより、制服でいらっしゃったのね」
「着替える時間が惜しくて……ただ、来てみたけれど、場違いだったか……」
「ふふっ、たまにならいいのではない? 私は気にしないわ」
彼の手を引いてレベッカはまた兄を見守ることが出来る位置へと戻り、手近なソファーへと腰かける。
それから給仕の者からグラスを貰ってフォルクハルトに差し出した。
あまりこういう場に出てこないと言っていた彼は、やはりどこかそわそわとしていて、レベッカよりも年下の男の子みたいだった。
けれども着ている衣装は王宮勤めの仕立てのいいかっちりとしたもので、騎士団や魔法使いとは違って地味だとよく言われるが、これはこれで大人の男性らしくてかっこいいだろうとレベッカは思う。
「レベッカさんがそう言ってくれると多少心が楽になるな。こういう所はいつも緊張してしまうから。あ、そうだ。ところで彼のこと……君はもう興味もないかもしれないけれど」
「彼……?」
「ウン。ローベルトさん。一旦は逃亡を図ったようだけれど、今は貴族の地位をはく奪されて、牢に入ったって」
言われてレベッカは思い出すのに数秒を要した。しかしもちろん完全に忘れているわけではない。
突然レベッカの元を訪れてきた彼をフォルクハルトがベルナー男爵家に連れ帰ったところ、フォルクハルトが言った通り、ベルナー男爵家から逃亡に際して、金銭の持ち出しがあったことが発覚した。
もちろん、家計は厳しくそれは、援助金の請求の為に一時的に王族から借り入れたものだ。
勝手に使っていい代物ではない。
そこにきての彼のベルナー男爵家を見捨てるような発言に、ついに、ベルナー男爵家が告発に動き、損害を補填するために捕らえられ今は強制的に魔力を吸い取られて国に奉仕している。
せめて素直に謝罪していれば、そんなことにはならなかったはずだし、それだけの罪でそこまでいくとはよっぽどだ。
「……彼の人生は、大波乱ね」
「自身で波乱にしているだけだと思うけれどね」
「それもそうね」
なにか適当に言葉を探して口にすると、フォルクハルトは少し笑って返す。
「でもあの時の彼には、私少し感謝しているわ。だってそうでなければ私はずっとあのまま立ち止まっていたような気がするから」
思い出してレベッカはそう口にした。
その言葉にフォルクハルトはあまりピンと来ていない様子だったけれど、続けて言う。
「あの時のフォルクハルトさんが素敵だったから今こうなっていると思っているのよ。あの時は、私に手を貸してくれてありがとう。おかげで、吹っ切れることが出来たのよ」
「そう? 俺は結局、自分の立場をひけらかしただけじゃなかった?」
「そんなことないわ。というか、いつだってひけらかしてないでしょう?」
フォルクハルトはレベッカの話を聞いて意外な自己評価を口にする。
もちろん立場は利用していたけれどそんなふうになんて思っていない。
それに彼には、これまでもローベルトのことだけではなく、今幸せそうにしている兄夫婦のことについても助力をしてもらったのだ。
「あなたには助けられてばかりだわ」
「そうかな。自分は大体、出来ることしかやっていないし、レベッカさんのように跡取りでもないしがない事務官なんだけど……」
「それでも、私にとっては英雄みたいなものよ。本当にお兄さまが連れてきた人があなたで良かった」
心の底からそう言ってレベッカは隣にいる彼に体重を預けて少し寄りかかる。
するとフォルクハルトは少し緊張した様子だったけれど、いい加減に慣れたのか力を抜いてぽつりと言う。
「自分の方こそ、こんなきれいな子と正式にお付き合いすることになって、突然の物語みたいな展開についていけてないんだけど……」
彼は自分は酷く平凡で、レベッカやジークフリートとはまったく違うのだと比べて口にする。
しかしそれはいつものことで、いつもの通りに訂正しようとしたレベッカだったが、彼は続けて口を開いた。
「でも、レベッカさんがそう言ってくれるのなら、もう少しそれらしくなるように頑張る……とりあえずは、社交界になじめるようにしないとな……洋服を仕立てないと」
つぶやくように言う彼に、レベッカは良い心掛けだと笑って「似合う物を見立てるの、お手伝いするわ」とにっこり笑って言ったのだった。
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