第1話
クラングラン学園の一年期は、勉学に始まり勉学に終わる。テストは年に三回。補習制度もあるのだが、クラングラン学園の生徒ともなればそんな制度にお世話になる者は居ない。
しかし二年期には専攻科目の第一期修了テストが行われるため、稀に補習生が出ることもある。専攻科目は学園に入学してから初めて学ぶことばかりで、知識が追いついていない生徒も多いのだ。
だからなのか、生徒のストレスを緩和させるために、二年、四年、六年には「学園祭」という行事が与えられる。ユリシアにとってはまったく不要な気遣いである。
「あら、同じクラスですわ。平民の貧乏くさい顔をずっと見続けなければならないなんて……わたくしにまで貧乏臭さが移ってしまいそうですわね。気をつけますわ」
「オレも同じだ。よろしくな」
「……わあ、偶然とは思えない」
――新学期。
大きく貼り出されていたクラス表を見上げ、ユリシアは目を細めていた。
両隣にはリナリアとウィシュアが居る。二人はまだ何かを言っているが、ユリシアはひとまず、近くに居た教師に睨むような視線を送る。すると教師は目を逸らした。思ったとおりだ。
扱いに困る二人を、おそらく手懐けている可能性があるユリシアに押し付けたのだ。
(ウィシュアと絡んでるところなんかどこで見られて……)
裏庭には誰も居ないと思っていたが、教師たちは気付いていたのだろうか。
リナリアは性格に難があり立場的にも扱いづらいし、ウィシュアはぶっきらぼうで言うことを聞かない上に、マイペースで目を離すとどこかに消える。ウィシュアも宰相閣下の息子であるし、注意も最低限度にしかできなかったのだろう。平等を謳っているとはいえ、塩梅はなかなか難しいものだ。教師からすれば、手綱を握れる者がいるのなら押し付けたいといったところか。
(……ん? ユーリス・サリハって……)
フラフラとクラス表を見ていると、見覚えのある名前を見つけた。その名前に引っ掛かりを覚えたのは一瞬だった。
どうして忘れていたのか。一年期にまったく顔を見なかったのはどういうわけだ。
「ユーリスも同じクラスかよ。あいつ出れんのかな」
なんとも絶妙なタイミングでウィシュアがその名を口に出す。
「……ユーリスって?」
「? ああ、友達」
そうなのかもしれないが、そうではなく。
ユリシアからいきなり「彼ってこういう立場の人だよね? どうして一年期には来てなかったの?」と聞けないのだから、友人という関係性ではないところを詳しく教えてほしいところである。
「サリハ様でしたら、ようやく退院されたというお話を聞きましたわ。ある日は馬車に轢かれ、ある日は馬から落とされ、ようやく通学しようと思えば側溝に踏み外し……この一年大変だったそうで」
「相変わらずの体質だな……」
「大変なんだね……」
ユリシアは何も聞かずとも、それとなく事情を察してしまった。
ユーリス・サリハは神官長の甥である。その素質が強いとして、すでに次の神官長にと望まれているらしい。
しかしまさか“不幸体質”だったとは。
(一年期に顔を見なかったのは入退院を繰り返していたからか)
一年期に接触ができなかった分、二年期で同じクラスになれたのは僥倖だ。ユリシアはやや固い息をひっそりと吐き出した。
(あ。シウォンくんはお隣だ)
何気なく見ていたクラス表でその名前を見つけた。
隣のクラスにアグドラの名前がある。どうやらシオンもそちらのようだ。二つ隣にクラン、その隣がマルクだった。
合同授業でもあればアグドラと顔を合わせるだろう。逆を言えば、そうでもなければ顔を見ることはない。
「教室に行きますわよ。まったく、このわたくしと共に動くのであればせめて煩わせることのないようにしてくださいませ」
「今日オリエンテーションあるんだな。あと専攻科目の復習テストだってよ。なああんた、専攻なんだっけ?」
「わ、わたくしは薬草学ですけれど……あなた、このわたくしに向かって『あんた』とはどういう、」
「はいはい。薬草学なら結構難しそうだな」
まさかこの二人、意外に相性が良いのでは……。
もしかしたらユリシアが関わらなくとも、この二人なら勝手にうまく調整をして周りに迷惑をかけず生活をしていけるのかもしれない。
そっと離れてみようか。ユリシアが目立つことは本意ではない。関わり合いになり家に行けるまで仲良くなろうとは思ったが、常時一緒にいるような友人になろうとは思っていないのだ。
少しずつ距離をとっていると、背後に突っ立っていた誰かにぶつかった。
「わ! すみません」
「いえ、大丈夫ですよ」
「おまえはまた……今度は何の遊びだ?」
シオンはいつものような笑みを浮かべていた。アグドラもいつもと言えばいつもどおり、呆れ顔でユリシアを見ている。
それにしても、この二人が並ぶとなかなかの迫力だ。シオンの容姿に目を奪われがちだが、アグドラも負けず劣らずである。あとは身長と体格に恵まれたなら、きっとひっきりなしに声をかけられるのだろう。
「いや、私が居なくてもあの二人、なんとか大暴れせずにやっていけるんじゃないかと思って」
「それは困ります。リナリィは私の婚約者ですよ。ユーフェミリアさんには彼をしっかり見張っていただかないと」
「あ、はい。すみません。そのように」
「ええ。頼みましたよ」
キラキラの笑顔で食い気味に言われて、消炭にでもなってしまいそうである。
「昼、そっち行くからな」
「え、来るの?」
「なんだ、意外そうだな」
「……顔を合わせるのは合同授業くらいになるのかと思ってたから」
「はあ? ……あー、いや……ああ、うん。まあ、そう思うのが普通だな」
「だよね」
眉を寄せるアグドラの隣では、シオンが楽しげに声を殺して笑う。
「…………たまに行くからな。たまに」
「う、うん。分かった。あ、アックスフォードさんとウィシュアは一緒じゃないほうがいい?」
「いや、そこまでは別に……」
言いかけて、アグドラがさらに眉を寄せる。
「……そうだな。撒け。静かに飯が食いたい」
「分かった。じゃあ来るときは教えてね」
ユリシアが小走りに二人の元に戻る。二人から「どんくせえな」「何をしておりますの? これだから平民は」などと言われているが、ユリシアはうまくかわしていた。
「……随分可愛がっているんですね」
「何の話だ」
強気に言い返してはいるが、アグドラの耳が微かに赤くなっているのが見えて、シオンはとうとう吹き出した。
クラスのみならず、なんと二人とは席も近かった。ここまで来ればもう陰謀だ。きっとこの一年間……いや、下手をすれば残りの五年間も、ずっと同じクラスで席も近いのだろう。
騒がしい教室の窓際、リナリアとウィシュアは注目を浴びながらも、ユリシアの席に椅子を固めている。
「おまえ、騎士学の復習とかやってんの? 歴史とか座学のほう」
「もちろん。私は何度も叩き込まないと覚えないから」
「へえ、出来が悪いんだな」
「一度聞いたら覚えるものではなくて? 平民は考えることが少なくて脳みそが縮んででもいらっしゃるのかしら」
「これからは二倍になるのかぁ」
これまではリナリア一人分だったのが、最近ウィシュアとも打ち解けてきたからか、ウィシュアも歯に衣着せぬ物言いになってきた。本来のウィシュアはこちらなのだろう。初対面ではこうした一面を見せないようにと気を遣っていたから無口だったのかもしれない。
(だけど逆にチャンスだよね。これだけ仲良くなったんだからそろそろ家にも行けるはず)
この二人からの情報は、この二年期にはすべて得ることができるだろう。
あとはマルクと、できれば王太子とも接触しておきたい。リナリアを介せば難しいことではないが、突然「王宮に行きたい」などと言っては不自然である。リナリアはシオンが絡むと心底面倒くさいのだ。ユリシアのことは警戒していないようだが、だからこそ唐突にお近づきになりたいと言い出すのは不自然である。ユリシアはまだその辺りの塩梅を図りかねているから、シオンのことは極力避けるようにしていた。
「ねえ、あれがユーフェミリアさん?」
「あんなに華奢なお体でスウェイン様に勝ちましたの?」
「なんでも、ユーフェミリアさんから決闘を申し込んだとか」
「それに、アックスフォード様にも喝を入れたと聞きましたわ」
「見て、ストレイグ様とも一緒におりますわよ。弟様のほうは誰ともお関わりになりませんのに……」
「すごいお方ね、ユーフェミリアさんて……」
聞こえるか聞こえないかの絶妙な声でヒソヒソと言われてはなかなかいたたまれない。リナリアとウィシュアにも聞こえているはずだが、二人はまったく気にならないようだ。この二人の強靭なメンタルは貴族だからこそなのか。
(あと一年……あと一年で絶対に終わらせる……)
そんな決意を胸に、ユリシアはひとまずどうやって二人の家に行くかと考えていた。
ユリシアとリナリアとウィシュアはだいたい三人で居るが、授業が全部同じというわけではない。全員が「みんなで一緒にいようね!」なんて性格でもなければ、学びたいこともそのタイミングも違う。三人ともやや希薄なため、特に何の言葉もなくそれぞれがそれぞれの教室へと散ったのが少し前のことだった。
「お前もこの時間は歴史か」
偶然にも、アグドラが歴史学の教室に居た。数人の友人らしき男子生徒と話していたが、教室に入ってきたユリシアを見つけて駆け寄る。
「シウォンくんも? 偶然だね」
「……あの二人は一緒じゃないんだな」
「まあね。別にいつも一緒にいるわけじゃないし。……というかいいの? あれ」
アグドラの後ろで、取り残された男子生徒がアグドラを見ていた。
「いいんじゃないか? おまえのことを聞かれただけだしな」
「え! 私のこと!? な、何かな、また変な噂とか……?」
「違う違う。話しかけたいがどんな会話をするのかとか、どんな性格なのかとか、まあそのようなことだ。いいから行くぞ。隣でいいだろ」
先々席に座るアグドラに、ユリシアも慌ててついていく。男子生徒たちは残念そうにその場から散った。
「……はぁ……どうしてこう変な噂の的になるんだろう……」
「だから別に噂とかでは……いやまあ、あの二人と絡んでいればそりゃあ目立つだろ」
「だよねぇ。ウィシュアも結構人気あるもんね」
「そもそも家名が有名すぎるな」
「あーでも、シウォンくんと話してるとチャージできるね。元気になる」
アグドラもおそらくユリシアと同じ密偵であり、リナリアに雇われ、シオンと周囲を監視している。シオンと一緒に居るところをたまに見るから、うまく友人関係を築き、自然と監視ができるような環境作りに成功したのだろう。
そんな彼の頑張りを見ていると、ユリシアも元気になれるようだ。アグドラとは一年期の頃から仲良くしていたし、安心できる場所になっているのかもしれない。
「元気がなかったのか?」
「どうだろ。そうなのかな。……視線を集めるって疲れるんだよね。根も葉もないことを言われたりとか。悪意も羨望も、何にせよ過度に向けられると体が強張るっていうか」
「まあそうだな」
「その点、シウォンくんの側は楽でいいよ。なんだろ、実家に戻ってきた安心感っていうの? 私実家ないから分からないんだけど、なんかたぶん、言葉にしようと思ったらそんな感じ」
「実家がない?」
久しぶりにアグドラと話して気が緩んだのかもしれない。
言わなくていいことまで言ってしまった。どう誤魔化そうかと考えている間も、アグドラは訝しげな顔で返答を待っている。どうしてそんなにもユリシアに興味を持つのか。思えばアグドラは入学したときからそうだった。ずっとユリシアの側にいたし、どうでも良いと思われることも拾い上げる。
「あー、私小さい頃、」
「ユリシアにアグドラ。二人もこの時間歴史だったんだね」
両親を亡くしたんだよねと、なんとか誤魔化そうとしたところで、タイミングよくやってきたのはクランだった。相変わらず顔が強い。キラキラとした輝きを背負い、視線を集めながらもアグドラとは反対側のユリシアの隣に座る。
「ユリシアは今日も可愛いね」
「ありがとう」
「アグドラも相変わらず……僕が邪魔なのは分かっているけど、そんなに態度に出さなくても」
「邪魔とは思ってないぞ。席は他にも空いているが?」
「ほら、邪魔だって思ってる」
クランの美しい笑顔に、周囲の目が釘付けだった。
ウィシュアとは双子のはずだが、顔立ちは同じでも雰囲気や振る舞いでこんなにも変わるものかと心底不思議なものである。
ちなみにアグドラもウィシュアと同じ理由で騒がれないのだろう。顔立ちはすこぶる良いが、対人への対応と振る舞いが粗暴なために憧れの的にはならない。女子生徒に騒がれるというよりは、男子生徒の羨望を集めるタイプである。
「そういえば、ユリシアってクライバーンの出身なんだよね?」
「……私、クランにそれ言ったんだっけ」
「ふふ、言ってないよ」
ユリシアが直接出身地を伝えたのはリナリアだけである。リナリアがクランと話しているところなど見たことがないし、それならばクランはなぜユリシアの母国を知っているのか。
(もしかしてバレてる……?)
ちらりとアグドラを見てみれば、彼は驚いた様子もなく「だからなんだ」とでも言いたげにクランを見ていた。
「ああ、ごめんね。警戒させるつもりはなかったんだ。クライバーンの国花の“ユリシア”ってあるでしょ? あれの育て方を知っていたって聞いたから、そうなのかなって思っただけ」
「そうなんだ」
「僕ね、クライバーンにすごく興味があるんだよね。あそこの歴史は根深くてさ、まるで物語みたいだから」
「歴史?」
ユリシアはクライバーンの出身だが、施設育ちなために学校へは行っていない。必要な勉学はすべて独学で、さらに自国の歴史は一般常識とされる程度のことしか学んでおらず、その中には「根深い」とも「物語みたい」とも思えることはなかった。
ユリシアが首を傾げると、やけに楽しそうなクランが柔らかに微笑む。
「知らないのも無理はないよ。意図的に消された歴史なんだ。……でもそっか。ユリシアはそのことを知らないのか。まぁ知っているのもほんの一部なんだろうけど」
「何の話?」
「おい、もういいだろ。授業が始まるぞ」
アグドラの言葉通り、定刻に教室にやってきた教師が授業を始めた。
クランは少し残念そうだった。もう少しそのことについて話したかったのだろう。けれど次にはアグドラを見てくすりと微笑む。アグドラは気付かないふりをしていた。
授業が終わると、クランはあっさりと「またお話ししようね」とにこやかに立ち去った。アグドラにはどこか意味深な目を向けていたが、アグドラはやはりこれにも無視を決め込む。
「なんだったんだろ」
「さあな。あいつから見ればお前も女だから、話したかったんじゃないか?」
「ふぅん……」
意図的に消された歴史。その言葉が、やけに鮮明にユリシアの頭に残っている。
(なんだろう……そんなの知らない)
ユリシアの雇い主にでも聞いたら分かるだろうか。しかしユリシアと彼には仕事でしか接点がない。会話も依頼をされたときに交わしただけだし、談笑をするような仲でもない。
(機会があればクランに聞いてみようかな)
「あいつが気になるのか?」
クランの背中を見送っていたからか、アグドラが呆れたように問いかけた。
「あれはやめておけ。泣くだけだぞ」
「違う違う。ただ、さっきのことが気になって」
「気になる?」
「……私が知ってるクライバーンの歴史の中に消されたものはなかったから。なんだろうって」
なぜそんなことが気になるのかは分からないが、胸の奥がザワザワとして、どこか落ち着かなかった。
「……消されたということは、知らなくていいということだ」
「どうだろ。知られたくないのかもよ」
「……誰に?」
「それは知らないよ。大人の事情ってやつ?」
「まあそうか。そうだな」
「そうそう。じゃあシウォンくん、私こっちだから」
ユリシアは軽快な足取りで教室に向かう。アグドラはその背中を睨むような鋭い目つきで見ていたが、突然近づいてきた人物にはさらにキツく敵意を込めて睨みつけた。
「まだ居たのか」
「ふふ、アグドラは歴史を知っているふうだったから」
やってきたのはクランである。どれほど睨まれても柔和な笑顔を絶やさない。感情がまったく読めなかった。
「アグドラは入学したときからユリシアと一緒に居るよね。どうしてなの?」
「意味はない。入学式が始まる前に偶然会ってなんとなく一緒に居ただけだ」
「そうなんだ。でも守り方が下手くそだね。あんな態度だと、ユリシアに聞かせたくないんだって……ユリシアに不都合な歴史なんだって言っているようなものなのに」
アグドラはただ「何の話か分からないな」と不機嫌そうに返すが、やはりクランには何も効かない。
「そもそも、あいつごときが何に関わっていると? ただの子どもだぞ。おまえの妄想が酷いことはよく分かった」
「……ふふ、そうだよね。この世界は現実だもの。物語みたいにドラマチックには出来ていないよねぇ」
「もういいか。次の授業に間に合わない」
「エメラルドグリーンのユリシアの花言葉は『絶望』『すべての終わり』なんだってさ。彼女は綺麗な翡翠の目をしているね。それにあのマルクと渡り合ったって……ああ確か、かの国は“悲劇の大国”と呼ばれているんだっけ」
一度教室に戻ろうと踏み出したアグドラの足が止まり、ゆっくりと振り返る。
「どうしてユリシアはアルシリウスに来たんだろう。ねぇ、もしかしたら」
アルシリウスも、すべて終わらされてしまうのかも。
クランは不穏な言葉を続けて、ようやく教室へと向かった。