第5話
とある昼休みも、リナリアは不在だった。アグドラも居ないから、定期的な報告会が開かれているのかもしれない。
話し相手もいない。やることもない。だけど教室にいると迷惑そうにされるから、ユリシアは行くあてもなく教室を出た。
リナリアがいないから、いつものところにテーブルもない。裏庭のベンチで食べるかと、ユリシアは唐突にそちらに足を向ける。
しかし。
「また来たのかお前。腹減ったのか?」
どうやら先客がいたらしい。ユリシアは反射的に壁に張り付いた。きっとバレてはいないだろう。隠れる必要はないのだが、なんとなくユリシアに関わりたくないかなと思ってしまった。
「はいはい、焦るなよ」
よく聞いてみれば、聞き覚えのある声だった。おそるおそるそちらを覗く。そこには、黒猫と戯れているウィシュアが居た。
(お邪魔かな……)
ユリシアはウィシュアに嫌われてしまったようだし、今声をかけて関係が悪化しても困る。まだ修復可能な状態であり続けたいものだ。
気付かれないようにとそっと踏み出すと、ウィシュアが同時に立ち上がった。
「出てくれば? なんで隠れてんだよ」
さすがは騎士学の成績上位者である。気配に鋭いことも強い秘訣なのかもしれない。
(だけど、まだ私と分かってるわけじゃないよね?)
誰かがいる、程度の認識ならば顔を出す必要はない。しばらく話してもいないし、声も忘れられているはずだ。
「すみません、通りがかっただけです。失礼しますー」
「おまえ、敬語使えたんだな」
さらに一歩を踏み出したところで、ウィシュアが角から顔を出した。
「わ! な、びっくりした!」
「……何を今更……そこで何してたんだよ」
「いや……ご飯どこで食べようかなーと」
「で、ここか。……来れば。別に俺の場所ってわけでもねぇし」
いつものぶっきらぼうな物言いは健在のようだ。久しぶりに話すから、どんな態度で接していたかもよく覚えていない。
「今日はアックスフォードのご令嬢と一緒じゃないんだな」
「うん。用事があるみたいで」
「へぇ。用事ね」
元の場所に戻ったウィシュアは、やはり猫と戯れている。ユリシアはその近くに座り、膝の上に弁当を広げた。
「……お前、あいつと関わるのやめたら? 結構悲惨じゃねえ?」
「悲惨?」
「無視されてるんだろ。……オレも、お前にはあんまり関わりたくねぇ」
忠告だけに終わらせて、自分の気持ちなんて言わなくても良いものを。ウィシュアの素直さと誠実さが、今のユリシアには少し面白かった。
「……おかしいのは私なの? みんなじゃなくて?」
特に不快に思ったわけではない。しかしウィシュアはどう思ったのか、ちらりとユリシアに振り向いた。
「私、誰かと長く一緒にいたことがなかったから、人付き合いってよく分からないの。周りの目なんか気にしたことない。……話したい人と話して、やりたいことをやって、みんなと同じように生きてる。それは私もアックスフォードさんも同じ。それでも私たちは敬遠される。なんでだろう」
「なんでって……そんなの、あの令嬢が悪女だから、」
「ウィシュアは何かをされたの?」
「何か?」
「意地悪をされたの? そういう場面を見たの? 何があって、アックスフォードさんを悪女だって思うの?」
矢継ぎ早な質問に、ウィシュアは思わず口籠る。
「アックスフォードさんはただ素直なだけだよ。言葉を選べないの。だけど間違ったことは言ってないと思う。……図星を突かれて恥をかかされた人たちが、アックスフォードさんに指を差す。私にはそう見える」
「それも問題だろ。協調性っつーの? 少しはあいつも寄り添うべきだ」
「相手は寄り添ってくれないのに?」
ユリシアは淡々と語りながら、間で弁当を食べ進める。ウィシュアはどこか気まずそうだった。
「怒ってるわけじゃないの。ただ不思議だなって思って。――協調性って、群れの中で培われていくものだと思っているんだけど、その群れが最初から『お前は入ってきちゃダメだよ』って閉ざされていたら、どこで協調性を養えばいいんだろう」
リナリアの事情はユリシアには関係ないが、不思議に思えることばかりだった。ユリシアから見て、リナリアは何も悪いことをしていない。それなのに周囲はリナリアを敬遠する。彼女を見ない。決めつけて、仲間外れにする。悪女に仕立て上げる。
まるで誰かが望んでいるかのように。
「…………分かったよ、オレが悪かった。謝るから泣くなよ」
言われてようやく、ユリシアは自身が泣いていることに気付く。
自分には泣くという機能がついていたのかと、ユリシアはそんなことに驚いていた。
翌朝、ユリシアはどこか気まずい気持ちで教室にやってきた。ウィシュアとは違うクラスだから変に見られることはない。分かっていても、なぜか気持ちは落ち着かない。
(そもそも、人前で泣くってどうなの……?)
自分が泣けたことにも驚いたが、初めてのそれがまさか人前だとは思ってもみなかった。
クラスメイトはいつも通り、ユリシアには関わろうとしない。通常であればこの状況をどうしようかと悶々とするところだが、今日はなぜかすっきりとした気持ちでいられた。
遠くからアグドラが見ていた。気付いたユリシアは手を振ったが、やはりアグドラは友人たちにブロックされてユリシアの元に来ることはなかった。
「アックスフォードさん。ご飯いきましょう」
休憩時間にいつものように迎えに行くと、リナリアはやや嬉しげにやってくる。こうしてみれば素直なものだ。素直すぎるがゆえに敬遠されているのだが、それも彼女の美点といえば美点なのだろう。
同級生の視線は冷たい。ヒソヒソと何かを話し、不躾な視線を二人に送る。
「今日は、何かあったんですか?」
どうにも様子がおかしいようだ。
いつもよりも周囲が冷たいような気がして問いかければ、リナリアは強気にふんと鼻を鳴らした。
「平民のノートが引き裂かれて捨てられていたそうなの。それをわたくしがやったのではないかと馬鹿みたいなことを思っていらっしゃるのよ」
「ノートが……?」
「わたくしがそんなことをする理由がありませんわ。それなのに平民ときたら……わたくしから関心を抱かれていると思い込むなど、自意識過剰で笑えてきますわね」
「何その態度。自分が立場のある貴族様だからって、ちょっと失礼なんじゃない?」
気の強そうな少女が前に出る。近くの机では女子生徒が俯いて座っているから、彼女が被害に遭ったのだろう。少女は彼女を庇っているようだった。
「それなら理由を言ってみてくださいな。わたくしがどうしてその子をいじめるようなことをいたしますの?」
「……この子が殿下に物を拾ってもらったからじゃないの? 少し前にそんな場面があったよね。あのときもあなたはこの子に対して、わざとだとか色目をつかうなとか、失礼なことばかりを言ってこの子を傷つけたじゃない」
「はぁ……話になりませんわね。そんな貧相な娘ごときにわたくしが嫉妬するとでも?」
リナリアが不遜に笑う。被害者の女子生徒は顔を真っ赤にしていた。
「っ、あなたの態度が悪いことは全校生徒が知ってるんだから! 使用人にもいつもキツく当たり散らして、見てるだけで不愉快なのよ! ほら、みんなもなんとか言いなさいよ! この学園内ではみんな平等なんだから! いつもは陰で言ってるじゃない!」
意地になって声を張り上げる少女に続く者はいない。学園内で平等を謳っているとはいえ報復が怖いのだろう。ましてや相手はリナリアだ。未来の王妃である。今ここで反感を買えばどうなるか、分からないような馬鹿は居ない。
しかしそれは貴族の感覚なのか、おずおずと前に出たのは平民の男子生徒だった。
「俺も……実はこの間、使用人に能無しだとかやめちまえとか言ってるの聞こえて、あんまりいい気にはなれなかった。教室でもそういう態度だし、口を開けば人を傷つけてばっかだし……」
「あ、私も。正直気を遣うっていうか……」
「居るだけで空気悪くなるんだよ」
続々と言葉を吐き出していくクラスメイトたちに、リナリアは何も言わなかった。怒っている様子もない。嘆くような気配もない。ユリシアはそんなリナリアの背後で、リナリアの様子を静かに伺う。
「そこの後ろの平民も恥ずかしくないの!? そんな人に媚び売って、将来安泰を目指そうなんて」
このタイミングで自分に話が回ってくるとは思ってもおらず、ユリシアは思わず目を瞬く。
「同じ平民として恥ずかしいのよ。将来の王妃だからってそんな人に取り入って……だから平民はイジ汚いって言われるんだわ」
「てか、あんたがノート引き裂いたんじゃねえの? 取り巻きなんだろ?」
「取り巻き使って人を貶めたってこと? 二人とも最悪じゃん」
――リナリア・アックスフォードが悪女であることは、学園中の誰もが知ることである。
彼女は嘘をつけない。貴族相手やもてなす相手には頭を使い接するのだろうが、そうでもなければ考えて言葉を口に出すということをしない。つまりそれが彼女の本来の姿ということで、そしてそれがあまりにもキツい物言いな上にあまりにも触れられたくないところを突くものだから、”悪女”と呼ばれるようになってしまった。
彼女は誰よりもまっすぐだからこそ、本質的なことしか言えない。
ユリシアは知っている。彼女は存外寂しがりやで、そしてきちんと周囲の目を気にしている。自身の物言いが周囲と距離をとっているということに気付いていないからこそ「どうして会話をするだけで距離が生まれるのか」といつも頭の片隅で考えている。
そんなリナリアが、誰かを使って誰かに意地の悪いことをするはずがない。
ユリシアには分かっていた。
リナリアが敬遠されている間もずっと隣で見ていたのだ。だからリナリアがどんな人間かをよく知っているし、勘違いをされてかわいそうにと、いつも心で哀れんでいた。
何も言わなかったのは、関係がなかったからだ。ユリシアの目的に、リナリアがどう扱われているのかはまったく関係がない。むしろリナリアが一人でいた方が都合が良かった。リナリアがユリシアに依存をしたなら、情報を抜き取ることも容易である。
だから今、この悪状況でも何も言わなくていい。何かを言う必要はない。この状況すらも好機と考えるべきだ。
ユリシアがそんなことを考えているかたわら。少し前に立っていたリナリアが、悔しそうに唇を震わせる。それまで自身が悪意にさらされようとも怒ることなく、ただ「どうして」と悩むだけだった彼女が、リナリアが貶されて初めて怒りをあらわにした。
クラスメイトたちはその気迫に言葉を飲み込んだ。まさかそんな顔をされるとは思ってもいなかったのだろう。物言いは強いが報復はしてこなかったから、リナリアに強気に出られてどうすれば良いのかが分からないようだった。
――気がつけば体が動いていた。
ユリシアはリナリアの前に立つ。同級生たちが悪意を向ける中、ユリシアは毅然としていた。