閑話2
*
「なあユーヴェル、見てくれ。シュリアの植えたユリシアが咲いたんだ」
執務室の窓から庭園を見下ろし、男はだらしなく頬を緩めた。
毎日の仕事を頑張れるよう、男の妻が執務室から見える位置にユリシアを植えたのはほんのひと月前である。ユリシアは育てるのもひと苦労だから、まるで妻の気持ちが透けるようで余計に男は嬉しいのだろう。
男の側近であるユーヴェルは庭園を見下ろし、呆れたように眉を下げた。
「そうですね。シュリア王妃殿下は毎日欠かさずユリシアの世話をしておりましたから」
「ほう、毎日か。私への愛の深さが伺えるな」
「今更ですね。……雑談は良いので、仕事の続きをしていただけますか? セヴェリ陛下の業務が滞りますと、全体に支障が出ますので」
「分かってる、ちょっと休憩しただけだろ」
セヴェリはつまらなさそうに唇を尖らせ、大人しく執務机へと戻った。
ユーヴェルは優秀な側近である。セヴェリがまだ王太子だった頃からずっと側に居て、誰よりも近くでセヴェリをサポートしてくれている。そんなユーヴェルだからこそ、セヴェリが国王であろうとも気さくに接するし、セヴェリもまた、ユーヴェルだからこそその態度を許していた。
「今夜のパーティー、ハリウス国王も出席をするとのことですよ」
「……じゃあ俺は欠席だ」
「いけません。ハリウス国は海運に力を入れています。関係は良好に保つべきです」
「向こうが勝手に敵視してくるのをやめてくれたら、俺だって態度を改めるさ」
「仕方がありませんよ。かつての戦争でアカツキ国が勝たなければ、ハリウスの領土はあんなに小さくならずに済んだのですから。いつまでも根には持つのでしょう」
「その戦争、俺が生まれる前の話だろ……」
アカツキ王国は、首都のクライバーンを中心に広く栄えている。隣国のアルシリウスに負けず劣らずの領土であり、ハリウスはアカツキ国の中にある独立国家だった。
戦争に負けてからというもの、ハリウスは年々領土を狭めていた。昔は今よりももっと広い国だった。
「そうだ。パーティーには、アルシリウス国よりセフィラム様も来られるそうですよ」
「おお、セフィラムも来るのか! 白魔法には癒しの効果もあるのか、側にいるだけで落ち着くんだよなぁ。シュリアも彼女に会いたがっていたからちょうど良い」
「黒魔法を持つあなたとの相性は最悪のはずですがね……」
「だよなあ、おかしいんだよ。まあでも、セフィラムに言われるまで自分がそんな物騒な魔法を持ってるなんて知らなかったし、使い方も分かんねえ上にそんな力を持ってる自覚もない。だからじゃないか?」
「楽天的ですねえ」
本当に心底興味もなさそうに、セヴェリは大きなあくびを漏らす。そんな様子も見慣れたものだ。これで仕事ができなければ怒ることもできるのだが、なんとも厄介なことに仕事だけは真面目に終わらせるものだから、ユーヴェルはいつも何も言えない。
「お、シュリア! ユリシアの手入れに来たのか? 咲いているのを見たよ、君は最高だな!」
「こちらばかりを見ていてはヴィルスィリス閣下の雷が落ちますよ」
「大丈夫だよ。口うるさいのは全員、アルシリウスに出張中だろ」
「ふふ、そんなことを言って。可愛いマリアさんが一緒に行ったことを根に持っていらしたくせに」
「……可愛い妹は別だ。ヴィルスィリスはいいが妹には居てほしかった……」
ようやく書類に手をつけたかと思ったのだが、振り返った先にある窓から愛しい妻を見つけ、セヴェリはまたしても窓際の人となった。ユーヴェルは今度こそ肩をすくめ、咎めることも諦めたように自身の仕事へ手を付ける。
「このユリシア、あなたのために咲かせましたのよ。これを見て元気を出して」
「ああ、妹が居なくても楽しくいられるのは君やそのユリシアのおかげだな。赤や白のユリシアの花言葉を俺が知らないとでも?」
「博識ですのね。いつも頑張ってくださるあなたに少しでも何かを返したくて」
「俺の奥さんは最高だなぁ。結婚できたことが奇跡だと心底思うよ」
アカツキ国の国王と王妃の仲が良いということは、国民だけでなく他国も知ることである。セヴェリの熱烈な求愛から始まったやや強引な恋愛結婚ではあったが、今となってはシュリアも負けないほどには二人は愛し合っていた。
今夜のパーティーにも、お揃いのドレスコードで出席をする予定だ。セヴェリはネクタイや服飾を、そしてシュリアはドレスを翡翠の色でオーダーしている。翡翠はセヴェリの瞳の色で、二人の大好きな色でもあるのだ。
自身の色を身につけるシュリアを想像しては、セヴェリの頬が緩む。そんな光景もいつものものだから、ユーヴェルは呆れるだけで特に何かを言うことはなかった。
――アカツキ国は、世界でも類を見ないほど平和な国である。国民も穏やかで、争いもほとんど起きない。気候も良いから嵐は滅多にこないし、自然に囲まれた豊かな国だ。
隣のアルシリウスとは親交が深く王家同士の仲も良いため、アルシリウスで何か祝い事があればアカツキでもお祭り騒ぎとなるし、逆もまたそうだった。
今夜おこなわれるパーティーも、アカツキ国の王宮での開催でありながら、アルシリウスの王太子の成人を祝うためのものである。アカツキ側はそう思っているのだが、アルシリウス側はセヴェリとシュリアの婚姻十周年を祝いに来るそうで、その認識の違いにはセヴェリも声を出して笑っていた。
「やあセヴェリ、シュリア。数日ぶりだね」
きらびやかなパーティーホールで、連れ立っていたセヴェリとシュリアは上品に振り向いた。二人に声をかけたのは王太子を連れたアルシリウスの国王である。
「シルス、久しいな。カインも、また背が伸びたんじゃないか?」
「僕ももう大人になりましたから」
「そうだった。成人おめでとう。姿が見えないが……ウィリーネの体調はまだ悪いのか」
「そうだね、今日も回復しなくて。ウィリーネもとても残念がっていた。今度顔を見せに来てやってよ」
「もちろん。なあシュリア」
「ええ。すぐにまいりますわ」
数日前にも会ったというのに、何度会っても会話が尽きることはない。
四人で歓談していると、背後から一人の女がやってきた。
「お話中失礼いたします。ご挨拶をさせていただきたく」
「……おお、セフィラムじゃないか。ドレスを着ているなんて印象にないから、少し驚いたよ」
「ご無沙汰しております。セヴェリ陛下はお変わりないようで安心いたしました」
「本当にごめんなさいね、女性に対し失礼なことを平気で申し上げるのよこのお方。セフィラムさんには淡いお色味のドレスが似合うと思っておりましたの。本日のドレス、とってもお似合いで素敵ですわ」
「ふふ、シュリア様ならそう言ってくださると思っておりました。シュリア様もとっても素敵です」
普段ドレスとは疎遠の、それこそパンツスタイルを好むセフィラムがドレスを着ているのだから驚くのは当然のことである。ちなみに驚いたのはセヴェリだけでなく、常に王宮でよく目にしているからなのか、シルスやカインも驚愕を顔に貼り付けていた。
しかし女性の結託とは強いものだから、それを知るシルスやカインは賢明にも驚愕を口には出さない。シルスは一度咳払いをすると、女同士のやりとりを見守るセヴェリの肩を一つ叩く。
「そうだ、セヴェリ。報告がある。結構重大なことなんだけど」
「……なんだよ、改まって」
「ウィリーネの体調不良、実はセフィラムの白魔法も効かないんだよ」
シルスの言葉に、セフィラムも頷き肯定を示す。
「ウィリーネ王妃殿下には浄化するものが体内にありませんでした。消すものがなければ、私の魔法は意味がありません」
「原因がないのに体調が悪くなることなんかあるのか?」
「ないよ。ありえない。数多の医師にも見せたが、口を揃えて『原因不明』と言うんだよ。……正直僕たちもお手上げでね、どうしようかと思っていたんだけど……ウィリーネが偶然、何かに突き動かされるように不思議な絵を描いたんだ」
「何かのメッセージか?」
「言語ではなかった。曲線の多い『絵』だったと思う。ウィリーネがそれを仕上げた瞬間、その絵が発光して燃えたんだ」
「燃えた?」
聞いたことのない現象に、その場にいた全員が険しい顔に変わった。
「謎の体調不良と因果関係があるのかを探っている。ウィリーネ曰く、衝動的なものだから何も分からないそうでね。だけどきっと何か不思議なことが起きているはずなんだ」
「そうだな。何か協力が必要ならいつでも言ってくれ」
「ありがとう。セヴェリにはいつも助けてもらってばかりだな」
「そんなことないだろ」
「いいや、あるね。セヴェリの持つ黒魔法がどれほど他国への牽制となっているか」
「っても、これの使い方なんて分からないし、本当にそんなもんが宿ってるのかも半信半疑だぞ」
「使い方など知らなくても良いのですよ。そんなことを覚えずとも、セヴェリ陛下には黒魔法が宿っています。その証拠にほら」
セフィラムが手を差し出す。握手でもするのかとセヴェリは反射的に手を出したが、手のひらが触れ合う寸前で大きく弾かれた。
「ほんの少し白魔法が生じるだけで反発します」
「……セフィラムが魔法を出して反発したってことは、俺のほうは常に出てるってことか」
「その通りです。常に出ていると言っても微量ではありますが……まあ当然ですね。宿っていることも、扱い方すら知らないのですから」
「馬鹿にしてないか?」
「していませんが?」
きっとドレスのことを根に持っているに違いない。セヴェリはそれに気付いて、セフィラムから目を逸らす。
「まあとにかく、セヴェリには感謝しているんだ。今日のパーティーも、こんなに派手にカインを祝ってくれてありがとう。僕たちも負けていられないからね。とっておきのプレゼントを二人に用意している」
「楽しみにしておくよ」
本来であれば大人しく祝われる立場のはずなのだが、シルスに何もするなと言っても聞かないのだろう。分かっていたから、セヴェリは素直に返事をした。
――異変はどこにもなかった。いつも通りの一日だった。親しい友人たちが王宮を訪れ、その息子の成人を祝い、そして結婚の十周年を祝われる。セヴェリにはいつも通りの、愛しくて眩しい幸福な一日となっていた。
違和感を覚えたのは、パーティー開始から一時間半ほどが経った頃だった。
セヴェリの腕に、突然電流のような痛みが走った。腕がひとりでに弾かれ、一瞬でおさまる。とてつもない痛みだったような気がするのに、一瞬の出来事だったからよく分からない。勘違いであったのかとも思えて、セヴェリはあまり気にしなかった。
しかし、時間経過と共に目が回る感覚を覚えた。酒を飲み過ぎたのだろうか。そう思い、セヴェリはシュリアと共にテラスへと出る。
「どういたしましたの?」
「分からない。ひどい気分だ。気持ちが悪い」
「もう戻りましょうか」
「いいや、せっかくみんな来てくれたんだ。帰るわけにはいかない」
それにしてもひどい気分だった。
セヴェリは基本的には温厚だ。怒ることもなければ声を荒げることもない。それなのに、今は誰かを怒鳴りつけ、怒りのままに暴れたくて仕方がない。
これまでにそんなにも悪質なことを思ったことなどないというのに。
初めての感覚を、セヴェリも持て余していた。
「ですが少し、」
「大丈夫だと言ってるだろ。ほら、もうみんなのところに、」
ほんの少し触れただけだった。
セヴェリを支えるように立っていたシュリアの肩に軽く触れ、引き離す動きをしただけである。
それなのに、シュリアから変な音がした。え、と思う間もなく、鮮血が視界に飛び込む。
「なにが……」
シュリアが突然、血を吹き出して弾け飛んだ。
愛しい人が無残な姿で横たわる。ぴくりとも動かない。白目をむき、シュリアは鼻や口から血を流していた。
「……シュリア?」
セヴェリには、何が起きたのかが分からなかった。
おそるおそる歩み寄る。瞬きをしても変わらない。シュリアはやはり、酷たらしい格好で息絶えていた。
「シュリア……」
シュリアが死んだ。セヴェリが殺した。いいやそんなはずはない。だってセヴェリは世界で一番シュリアを愛している。シュリアが居ない世界など生きている価値もない。セヴェリが殺すはずがない。では誰が殺したのだ。そいつを絶対に許さない。そいつを殺すべきだ。シュリアを殺した者を殺そう。誰だ、この会場にいるのか。シュリアを殺したのは――。
「陛下! いけません!」
セフィラムの声が聞こえた。けれども、セヴェリの耳には届かなかった。
――その日、一つの国が消滅した。
世界一平和だと言われ、世界から称賛されていた大国だった。




