第3話
その日の最後の授業は、初めての専攻科目が組まれていた。アグドラは最後まで意味ありげな目をユリシアに向けていたが、ユリシアはさらりと無視をして騎士学の教室へと向かう。
騎士学はやはり男子生徒が圧倒的に多い。女子生徒はユリシアを入れても三人程で、ユリシアが取り入るべき相手はその中には居ないため、馴れ合う必要はなさそうだ。
教室に入ったユリシアはさっそく、目的の人物に歩み寄る。
「こんにちは、ウィシュア。お隣いい?」
「……はあ、どうぞ」
ウィシュア・ストレイグは近くにやってきたユリシアを見ることもなく、ちらりと制服を確認しただけで目を逸らした。
近づくのならばウィシュアでもクランでも構わない。どちらかに取り入ることができれば家に行けるだろう。
「やあウィシュア。きみも騎士学だと思っていましたよ」
ユリシアがウィシュアの隣に腰掛けるのと、ウィシュアが立ち上がるのは同時だった。
声で分かる。周囲の目で分かる。誰が話しかけたのか。ユリシアがおそるおそるそちらを見ると、そこには王太子であるシオン・アルフォンス・アルシリウスが居た。
「殿下。ご無沙汰しております」
「ああ、どうか固くならないで。ここは学園内ですから」
「そういうわけには……」
「……そちらの方は?」
シオンの目がユリシアへ流れる。ユリシアはやや緊張気味に立ち上がり、軽く頭を下げた。
手が震えている。なぜかは分からない。不思議な感覚だ。ただ、本能がシオンとは合わないとでも言っているようだった。
「ユリシア・ユーフェミリアです」
「……ユーフェミリア……」
シオンは何かを思案するように間を置いた。しかし聞き覚えはなかったのだろう。すぐににこりと微笑んで、親しげに手を差し出す。
「殿下、この女は平民です。そのような真似はおやめください」
「私はいずれ国を背負う運命にあります。身分などとちっぽけなものでうだうだと言いたくはありませんが……ユーフェミリアさんは嫌ですか、私と握手をするのは」
「そんなことは、」
ありませんと、続けたかった言葉は音にならなかった。
シオンと触れ合った手の平が、少しの痛みをともない突然弾かれたからである。
教室が静まり返る。周囲も不可思議な現象を前に、騒ぐに騒げないようだ。
「? 今の……」
「……気にしないでください。仮説上ありえない現象ではありません。私とあなたは相性が悪いようですね」
「相性……?」
「ええ。初めてなので私も驚いてしまいました。私も二人とご一緒してもいいですか?」
「もちろんです、殿下」
ウィシュアに言われてさっそく、シオンはウィシュアの隣に腰掛ける。ウィシュアもそれを見届けて着席した。
(……今の何……?)
ユリシアもふらりと席につき、自身の手を見つめる。
一瞬、電気が走ったような痛みを感じた。ユリシアにとっても初めてのことだ。本能的にシオンを拒絶していることと何か関係があるのだろうか。
(……王太子にも近づく必要があるのに……)
そのために婚約者であるリナリアを懐柔しているということもある。こんなところでつまずきたくはない。
(今はとにかく、やれることをしないと)
王太子は追々、まずはウィシュアを落とし、その隙に出来ればアルシリウス国陸軍元帥の第一子であるマルク・スウェインとも接触をはかりたい。
確かマルクも騎士学を専攻していたはずだ。しかし教室にその姿はない。
「どうかしましたか?」
ウィシュアを挟んでいるというのに、シオンがユリシアの動きに目ざとく気がついた。ユリシアは思わず背筋を伸ばす。先ほど弾かれた手の平の痛みを思い出した。
「いえ、なんでもありません」
「……そうですか」
そのタイミングで教師がやってきた。直後にチャイムが鳴る。ユリシアにとっては最高のタイミングだった。
専攻科目は二年間続けることになる。学園に通うのが六年間だから、三科目は受講できるシステムだ。
騎士学の初日は座学だった。二年間のスケジュール説明や、実技では何をするか、テストの時期、点数の付け方などを教えられた。卒業するつもりもないユリシアにはまったく退屈な時間である。しかし真面目なふりをして、ノートを取りながらも次の一手を考える。
効率的に動くには同時進行が一番だ。今のところ順調に接触できているし、この調子だと早くて一年、長くても二年で終わるだろう。効果的な接し方に変更すれば造作もないことである。ウィシュアに近づくからクランは無視をしても良いし、リナリアもおだてていれば仲間意識を持って気分良くいてくれる。マルクはまだ未知で、シオンにも緊張はしてしまうが、幸いシオンの人当たりは良く、接しやすい雰囲気がある。この国の要さえ押さえておけば、他は多少調査が甘くとも何も言われないだろう。
「そうだ、マルクは今日、学校をお休みしているんですよ」
シオンがウィシュアに語りかける。ユリシアがそちらに目だけを向けると、なぜかにこやかなシオンと目が合った。
ウィシュアに語りかけているのは違いないが、どうしてこちらを見ているのか。ユリシアは思わず目を逸らす。
「スウェインが? 珍しいですね。元気だけが取り柄のような男が」
「ふふ。今日は軍部会議に立ち会うみたいですよ。参加ではないみたいですが……スウェイン元帥のご意向でしょうね。息子を慣れさせたいようで」
軽い言葉に、ウィシュアがユリシアを一瞥した。
「殿下。あまり内部事情を話されませんよう。ここには誰がどのような目的で潜んでいるか分かりませんので」
「おや? ユーフェミリアさんがどこかの国の密偵であると?」
「そう言っているわけではありません。この女だけでなく、周囲の全てを警戒すべきです」
「なるほど……ですが大丈夫ですよ。ユーフェミリアさんは密偵には見えませんから。ねぇ? 何かを隠しているわけではありませんよね?」
ウィシュアは可能性の話として出しただけで、実際にユリシアを疑っているわけではないのだろう。声のトーンや表情でそのくらいのことはユリシアにも理解ができる。
では、話に乗ってきたシオンはどうだろうか。
「もちろんですよ。私はそんなに器用ではありませんから」
「ほら」
「はぁ……殿下、密偵が自分のことをそうであると語るわけがありません。簡単に信用をしないでください」
「ウィシュアは心配性ですね」
王太子という立場だからこそ、すべてに疑心を抱いているという可能性もある。ユリシアが疑われていると思うのは早計だろう。
ユリシアは相変わらずの微笑みでその場を交わす。修羅場などこれまでにいくつも経験した。怪しまれる程度ならば可愛いものだ。
その後はシオンもウィシュアも真面目に授業を受けていたから、話す機会はまったくと言っていいほど無かった。
授業が終わると、シオンが速やかに席を立つ。ウィシュアとユリシアににこやかに挨拶をし、そそくさと教室を去った。
シオンは婚約者を大切にしている。ユリシアと居ることで誤解をされたくないのかもしれない。なにせ相手はあのリナリア・アックスフォードだ。少し会話をしただけで相手を蹴散らす猛者である。シオンの軽率な行動が可哀想な被害者を生むことになると思えば、納得のいく行動である。
シオンが居なくなると、ウィシュアもすぐさま席を立つ。ユリシアと二人で居ても話すこともないのだろう。あからさまな態度ではあったが、ユリシアがすかさず呼び止めた。
「ウィシュア、待ってよ。私も戻る」
「……一緒に戻らなくてもいいだろ」
「どうして? 一緒に行こうよ」
やや驚いた表情でウィシュアが振り返る。しかしすぐに平静を装うように前を向き、教材を引っ掴んだ。
「……クランに近づきたいならオレに言っても無駄だぞ。あいつはそうやって近づいてくる女が嫌いなんだ」
「別にクランには興味ないよ。ウィシュアとお友達になりたいの」
ウィシュアはやはりユリシアを見なかったが、耳が赤くなっているから作戦は幸先の良いスタートを切ったということだろう。
(この国の人、チョロい人しかいないのかも)
リナリアといいウィシュアといい、まだ十六歳ということもあり、騙されることにまったく免疫がない。騙されるという可能性がそもそも頭に浮かんでいないのかもしれない。
密偵は警戒するくせにそういったガードは甘いのかと、ユリシアは笑ってしまいそうだった。
「次の騎士学も一緒に受けようね」
次は実技のオリエンテーションである。
にこやかなユリシアに対し、ウィシュアは終始渋顔だったが、耳だけはずっと赤く染まっていた。
「騎士学、どうだった?」
ユリシアが教室に戻ると、先にアグドラが席に着いていた。クラスメイトたちも専攻科目の話で盛り上がっている。ユリシアはアグドラに見守られながら椅子に座り、教科書を片付ける。
「どうって……普通だった。次は実技のオリエンテーションだって。薬草学はどうだったの?」
「…………眠たかったな」
「なにそれ?」
授業の内容が「眠たかった」とは、アグドラが豪胆なのか、はたまた変わり者なのか。不真面目ではないと知っているだけに、ユリシアにとっては不思議な返答である。
「……そういえばさっきウィシュア・ストレイグと居たが、仲良くなったのか?」
「ん? うん。今日の授業、一緒に受けてたの」
「珍しいな。ウィシュア・ストレイグが兄以外と居るところはあまり見ないが」
「嫌がられてはいたけどね。私が勝手に一緒に居ただけ」
ユリシアは自身を観察するアグドラの目に、ことりと一つ首を傾げる。
「なに?」
「なにも」
「シウォンくんてほんとつまんないよね。言いたいことの半分も言わない感じ」
「それの何がつまらないんだよ」
「会話続かないじゃん。無駄な時間過ごしてるなって思う」
「ああ、俺も思う」
けれどもユリシアにとってはその「無駄な時間」が存外救いであったりもする。だから止めないのだが、それだけは絶対に言ってはやらない。
「でも無駄なことが必要だと思えるときもあるだろ?」
「あるね。ああそっか、シウォンくんもたまには無駄なことしたいよねえ」
「…………おまえは本当に、時折素晴らしく鋭いことを言うな」
何が鋭いものか。アグドラは気付いていないのかもしれないが、ユリシアはもうアグドラが誰かの雇った密偵であることを知っている。
「そうだ。薬草学の授業のとき、リナリア・アックスフォードがおまえとまた昼食をとりたいと言っていた。よくあんなのに気に入られたな」
「あんなのって……」
「噂は知ってるだろ?」
「噂はね。でもアックスフォードさん、間違ったことは言ってないよ。言葉を選んでないだけっていうか……申し訳ないけど、言われてる女の子たちに原因があるのは本当だしね」
さらりとリナリアと話していたという暴露をされたユリシアは、「そういうところが詰めが甘いんだよ」とは言わなかった。ユリシアでなければスルーされず気まずい空気になるのだろう。
「なるほど、気に入られるわけだ」
「でもそっか、ご飯食べたいって言ってくれてるんなら、今度お昼誘いに行ってみようかな」
「教室で食べないのか?」
「アックスフォードさん、天気が良い日は外に出るんだと思う。この間もそうだったし」
「……単に、教室に居ることが苦痛なんじゃないか? あんな性格でろくな噂もない。友人も居ないようだしな」
アグドラは感情の読めない表情を浮かべていたが、ユリシアの視線に気付くと「なんだよ」と訝しげに眉を寄せた。
アグドラの態度にかすかに違和感を覚えた。どこか信頼を感じるそれが、雇用主に対するものには思えなかったからだ。
もしかしたらアグドラは、リナリアに雇用主以上の感情を抱いているのだろうか。
(いいね、青春っぽい。立場を超えたロマンスってやつ?)
恋情であれ別のものであれ、雇用主に踏み込んだ感情を抱くことは良いことではない。アグドラはつくづく密偵に向いていないなと、ユリシアは出来の悪い弟を心配する姉のような気持ちだった。