第3話
「お嬢様、落ち着いてくださいませ! お怪我をなさいます!」
「うるさい! 放っておいてよ!」
暴れる主人を抑えようとした使用人が、主人に弾き飛ばされて尻餅をつく。部屋中が荒れ、カーテンも無残に引き裂かれていた。
「ああ本当に腹が立つ! あの女……どうしてよ! どうしてあいつばかり!」
「お嬢様、」
「あんただって本当は嘲笑いたいんでしょ! 一人でこんなところにまで来て馬鹿馬鹿しいって! 笑えばいいじゃない! わたしにはこうすることしかできないのよ!」
「お嬢様……」
使用人は首を振るが、言葉が出ず悲しげに眉を下げただけだった。
「……どうしてみんなあの女ばっかり……わたしだって頑張ってるのよ。頑張って勉強だってした。学園の試験にも受かったのよ? すごいことなのに!」
「私はお嬢様の努力を見ております」
「あんたが知っていたってどうにもならないのよ!」
再び主人に歩み寄った使用人は、主人の手でまたしても突き飛ばされた。
「ねえ知ってる? あの女の恋人がわたしと同じクラスに居るのよ。ねえ、全部奪ってやりたくてたまらない。そうしたらどんな顔をすると思う?」
「おやめください、そのような……お嬢様は高貴な、」
「うるさいのよさっきから! 気に食わないなら帰りなさいよ! あんたなんか居なくてもわたしは一人で生きていけるの!」
殴られ蹴られ、それでも使用人は「お嬢様はそのようなことをして良いお方ではありません」と屈することなく続けるだけである。
主人は止まらなかった。怒りを浮かべ、使用人にすべてをぶつける。
「あいつがのうのうと生きてることが許せない! 傷ついてボロボロになればいいんだわ!」
「イリシスお嬢様は素晴らしいお方です! 誰かの恋人を奪うなど、そのような下賤なことはおやめください!」
「いいのよもう……わたしには何もないの。お父様もお母様も、お兄様だってあいつのことばっかり。みんなあいつのことしか考えないの」
イリシスはその美しい容貌を歪め、唇をキツく噛み締める。
瞳の奥には憎しみが宿る。荒れた部屋の真ん中で、拳を震わせていた。
「……ユリシア・ユーフェミリアだけは、絶対に許さない」
*
「まあユリシア、本日は遅い通学ですのね」
ユリシアが教室に向かっていると、背後からリナリアに声をかけられた。リナリアは基本的に遅い時間に学園に来るから、ユリシアはやや遅出になっていたということだろう。
二人は自然と並んで歩く。
「おはようございます、アックスフォードさん。今朝は少し出るのが遅くなりまして」
「どうしてですの?」
「お隣に住んでいるご夫婦が居るんですが、今日は珍しく長話になったんです」
「……そう。平民はご近所付き合いも大変ですのね。わたくしには分からない感覚ですわ」
今朝のことは、ユリシアにも想定外のことである。まさか話しかけられるだけではなく、世間話に花が咲くとは。
「そういえばユリシア、わたくし気付いたのですけれど……あなた、ストレイグ様と何かございまして?」
「な、何かって、なんですか?」
「何かとはアレですわよ。告白をされたりとか」
「…………されてません」
「まあ! 絶対にされた反応ですわ!」
頬を染め、リナリアは大袈裟に驚愕を示す。
「お断りしましたわよね? だってユリシアにはお隣の彼が居るんですから」
「それがまだ……」
「まだ!? ユリシア、あなた……まさかストレイグ様に好意を……」
「そうではなくて。というかアックスフォードさん、すごい食いつきですね」
「当然ですわよ。ユリシアとストレイグ様にもしもの間違いがあればわたくしが、」
リナリアはそこで不自然に言葉をのみ込んだ。少し気まずい顔だ。ユリシアとウィシュアに何かがあれば、どうしてリナリアがそんな顔をすることになるのだろう。
ユリシアは少しだけ気になったが、あえて触れなかった。聞いたところで興味もない。ユリシアはウィシュアに良い返事をするつもりはないし、アグドラとも利害一致というだけの仲である。
(アックスフォードさんってよく分からないんだよね……)
頭が良くはあるのだろうけれど、変なところで抜けていて鈍い面もある。かと思えば時々どきりとするような鋭いことを言ったり、疑う目を向けることもある。
しかし直接的な動きが見られない限りは様子見しかできない。ユリシアはややうんざりとしながら、ふと、近くの教室に目をやった。
どうやらアグドラの教室だったようだ。アグドラはイリシスに腕を抱きしめられ、何かの話を聞いている。男子生徒は羨ましげな目をアグドラに向けていた。
ユリシアはなぜかその光景から目が逸らせない。
「ユリシア? ……あら、あれは……」
ユリシアが足を止めたことに、数歩先でリナリアが気付く。そしてユリシアの視線を追い、同じように動きを止めた。
「……大丈夫ですわよ、ユリシア。彼はあのような下品な女性にはなびきませんわ」
「……へ? 何がですか?」
「? 嫉妬していたように見えたのですけれど」
「……嫉妬?」
ユリシアもリナリアも、お互いが同じようにキョトンとしていた。
「違いますの?」
「嫉妬って……私は別に……」
「誤魔化されなくともよろしくてよ。わたくしもシオン様にベタベタとする女がおりましたら、貴族であろうともアックスフォードの権力を使って社会的に抹殺いたしますもの」
「そんな過激な……でも本当に大丈夫です。そんなんじゃありませんから」
ユリシアはリナリアの勘違いに頭を抱えながら、自身の教室へと向かう。お隣とはいえ少し離れている。リナリアも急いでユリシアを追いかけた。
「ふふ。きっと彼も否定をするのでしょうけれど……彼はユリシアのことをしっかりと好いておりますのよ。そして彼は一途ですの。とっても素敵なお方ですから、ユリシアが不安になる必要などありませんわ」
どうしてそこまでアグドラのことを知っているのだろうかと。そんなことを考えてすぐ、そういえばリナリアは彼の雇い主だったと思い出す。もはや隠すつもりもないのか……普段二人が関わっているところを見ないのに、突然親しさを出してしまっては意味がない。やはり頭は良いのに抜けているなと、ユリシアはどこか呆れてしまった。
そこでふと、アグドラを見たことで思い出す。
三年期に入ってから数日、アグドラからの誘いがない。クラス替えの日はアグドラが休みでユリシアから誘うことも出来なかったし、今日までまともに会話もしていないのではないだろうか。
誘われたいというわけではないが、こうも突然疎遠になると不思議なもので気になってくる。今日あたり誘ってみるかと、ユリシアは隣のクラスに向かう決意をひっそりとしていた。
しかし。
なぜかそういうときばかりうまくいかないものである。
「彼でしたら、ハウンド・ラックさんと食事に行きましたよ」
昼休憩に来てみれば、にこやかに笑うシオンにそう告げられた。できれば関わりたくないユリシアは「そうですか」とすぐに背を向ける。今日はリナリアがシオンと食事をするのだとはりきっていたから、こんなところで時間を取らせるわけにはいかない。
「今日はお一人ですか?」
何が気になったのか、シオンは立ち去ろうとしたユリシアを珍しく引き止めた。
「? はい。クランはどこかに行きましたし、ウィシュアも今日はスウェインくんと食べるらしいので」
「では、私とリナリィと共にいかがでしょうか。リナリィも喜びますので」
「いえ、遠慮します。お二人の間に入るなんて、馬に蹴られるかもしれませんから……」
「まさか、私からの誘いを断ると?」
「断るわけでは……ただ遠慮をしたく、」
「あー、殿下。少し良いですか? 聞きたいことがあるんだが」
「こんにちは、アクラウド先生。敬語が不慣れなんですね。私はこの学園ではただの学生ですから、楽にしてくださって構いませんよ」
割って入ったセヴェリが、うんざりとしたように乱暴に頭をかきむしる。しかし用事があるためか、ユリシアに「話してるところ悪いな」と言いながらもシオンを連れて行ってしまった。
この後のリナリアとの約束に響かなければ良いが……ユリシアが気にしても仕方がない。とにかくシオンから解放されたのは良かったなと、昼食を食べる場所を探すべく歩みだす。
もちろんあてはない。アグドラのことを捕まえられると思っていたから、なんだか少し気落ちした。
「あれ? ユリシア?」
やはり裏庭にでも向かうかと足を向けた頃、どこかに行っていたクランがやってきた。昼休憩になった途端に教室から出て行ったから、昼休憩の間中何かの用事をするものだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「クラン。こんなところで何してたの?」
「女の子の呼び出しが二件あったから、それの対応をちょっとね。今ちょうど二人目が終わったところで、これから図書室に行こうと思ってたんだよ」
「お昼は?」
「図書室で食べられるから」
勉強をしながら食事ができるようにと、勤勉な学園生たちに配慮をした結果なのだろう。ユリシアはそのことを知ってはいても、図書室に興味がなかったから行ったことはなかった。
「ユリシアも一緒にどう?」
「いいの? 邪魔にならない?」
「ならないよ。むしろ嬉しいな」
クランはいつもの魔性の笑みを浮かべ、ユリシアの隣にピタリとくっつく。
「……クランって勉強が好きだよね。成績も良いし」
「そう思う?」
「思うよ。最初に会ったとき、歴史学の授業だったけど、あのときも思ったより真面目に授業受けてた」
ユリシアの言葉に考える素振りを見せたクランは、それでも次には安堵したように笑う。
「僕は歴史が好きなだけだよ。あとは、ユリシアに格好いいって思ってほしかったからかな」
「はいはい。……体調悪いとかない? きちんと供給できてる?」
「うん。ありがとう」
クランの体質が気になり小声で確認をすると、クランは本当に平気そうに頷いた。女の子たちと関わることを控えてからはずっと、ユリシアに軽く触れることで供給を受けているらしいが、ユリシア自身にその自覚がないから心配である。
あからさまにホッとしたユリシアに、クランはさらに笑みを深めた。
「……ねえユリシア。ユリシアのご両親ってどんな人なの?」
「両親……どんな人だったんだろうね」
「分からない?」
「うん。私、五歳から八歳まで施設でお世話になってたの。両親の記憶はあんまりないけど……仲は良くなかった気がする」
突然変なことが気になるんだね、なんてユリシアが聞くと、クランは「ユリシアのことを知りたくて」と飄々と返す。
「施設に入るまでのことは何も覚えてない?」
「……そうだね、あんまり覚えてはないかな。……両親はたぶん喧嘩ばっかりで、私のことも好きじゃなかったんだと思う。よく『生まれてこなければ』って言われて泣かれてた」
しかし本当に、その辺りの記憶は曖昧だ。両親の顔も思い出せない。それなのに喧嘩をしているところや、泣いている姿は思い出せる。だけどその内容をよく覚えていないから、断片的な記憶がちぐはぐだった。
「……ユリシアはクライバーンの出身なんだよね?」
「そうだよ。どうしたの?」
「……アカツキ王国って知ってる?」
ユリシアの服の袖を引っ張っていたクランが足を止めたから、ユリシアもつんと引き止められた。
「……知らないけど、そんな国あったっけ?」
「ないよ。消されたんだ。悲劇の大国として、歴史から抹消された」
「あ、それ前に言ってたね。クランは本当に歴史が好きなんだね」
ユリシアの様子を伺うように、クランがじっとユリシアを見ている。やや居心地の悪い目だった。
「……クラン?」
「ううん。なんでもない。……アカツキ王国は滅ぼされたんだよ。世界にとって都合が悪かったから歴史から消されてしまった。僕はその滅ぼされた理由を調べているんだけど、さすがは消されただけあってなかなか見つけられなくて」
「それで図書室に行くの?」
「そうだね。だけど、その理由を知りたくないような気もする」
「? どうして?」
ユリシアの当然の疑問に、クランはただ「確信を得たくないんだ」と、困ったように笑った。




