第2話
次のユリシアたちの授業は歴史で、向かうのは資料館だった。歴史学は必修科目ではあるものの、次の時間に歴史学を入れた生徒はユリシアたちの他にどれほど居るのかは分からない。この学園のやり方は、学びたいことを学びたいだけ自由な時間に、である。当然ながら必須時間は設けてあるから勉強不足になることはないし、それを過ぎても学びたいことがあるのならばどこまでも学べる仕組みである。つまり、専攻科目の時間だけは決められているが、ある程度は自由な生活が約束されているのだ。
けれどもアグドラはユリシアと同じ科目を選ぶ。やはりユリシアと居るとうまくターゲットを油断させられるのだろう。
「ねえねえ、隣いい?」
資料館に着き、二人はいつものように一番後ろの隅っこに陣取っていた。教室は全体的に埋まっている。おそらくユリシアの隣しかなかったのだろう。
ユリシアは「大丈夫だよ」と言いながら振りあおぎ、一瞬動きを止めた。
そこに居たのがターゲットの一人だったからだ。
「ありがとう。きみ可愛いね。名前なんていうの?」
「ユリシア・ユーフェミリア。あなたは?」
「僕はクラン・ストレイグ。そっちのきみは?」
「……アグドラ・シウォンだ」
クランは、ユリシアの奥に座るアグドラを見て柔らかな笑みを浮かべる。
「ごめんね、二人の邪魔をしたかったわけじゃないんだけど」
「邪魔って?」
「……ああ、なるほど。アグドラの片想いかな?」
「ふざけるな、誰がこんな女」
「そうそう。シウォンくんとはいいお友達」
さらりとした金髪が印象的だった。そこからのぞく青い目がユリシアをまっすぐに見つめる。
クラン・ストレイグは宰相の息子である。落ち着いていて穏やかでとんでもなく美形だが、とんでもなく女好きなため常に誰かが泣いている。クランには双子の弟、ウィシュアが居たはずだが……そこまでユリシアが考えたところで、クランの背後の席に少年がやってきた。
「置いていくなよクラン。探しただろ」
「ウィシュアが迷子になってただけじゃないか。これ、僕の弟ね」
「弟って、別に双子なんだから関係ないだろ。てか、誰?」
「今お友達になった、ユリシアとアグドラ」
ウィシュアは無愛想に軽く頭を下げる。
「ごめんねユリシア。ウィシュアは人見知りだからちょっと態度が悪く思えるかもしれないけど、悪い子じゃないんだよ」
「そうなんだ。気にしてないよ。ね、シウォンくん」
アグドラは興味もないのか、すでに話を聞いていなかった。
アグドラのターゲットはどうやらこの二人ではないようだ。この二人もそこそこ重要人物ではあるが、やはり、王太子やその婚約者が狙いなのか。
「クランとウィシュアは専攻何にするの?」
「僕は魔術師学で、ウィシュアは騎士学かな」
「じゃあウィシュアは私と同じだ。よろしくね、ウィシュア」
「……ユリシア、騎士学にしたの?」
女ながらにそれを選択していることに驚いたのか、クランが何度も目を瞬く。
「そうだよ。でもシウォンくんは怪我が怖いからって薬草学」
「おい、余計なこと言うな」
アグドラの嫌そうな顔を最後に会話は終わった。教師が入ってきたからである。歴史の教師は偏屈なことで有名なため、ただでさえ真面目な生徒たちが殊更真剣に取り組んでいた。
ユリシアは一応真面目に授業を受けている。卒業をする予定はないが、怪しまれてはすべてが終わりだ。
アグドラはやけに真剣にノートをとっていた。退屈そうな様子でもない。ユリシアと同じ立場であるのにご苦労なことだなと、ユリシアは彼の勤勉さに少し呆れた。そして反対隣を見れば、クランも真剣に授業を受けている。こちらはどこか楽しそうだった。
(……歴史好き?)
ユリシアが事前にもらった情報には載っていなかったが、歴史の話を持ちかければすぐに仲良くなれるかもしれない。
(ひとまず仲良くなって、家に遊びに行くことができれば結構重要な情報とかもらえそう)
ひとまず宰相の息子の双子には接触ができた。今後の騎士学ではウィシュアと仲を深め、同じく騎士学を専攻したと噂の王太子にも近づいて様子を見よう。彼には婚約者が居るために、婚約者とも仲良くなっておいたほうが良いだろう。自然と距離を詰め、自然と取り入る。焦ってはダメだ。焦りは行動を杜撰にしてしまう。
授業を終え、アグドラと共に教室に戻る。クランとウィシュアとは、また話そうと手を振って別れた。
残念なことに、同じクラスにはターゲットが一人もいない。ユリシアにとってはホームルームがもっとも退屈で、だからこそアグドラと戯れるしかやることがなかった。アグドラは迷惑そうにしていたが、ユリシアには良い暇つぶしである。
「そういえば、さっきの」
「さっき?」
教壇に立つ教師が、一年間の行事日程を説明していた。アグドラはずっと真面目に聞いていたのだが、突然くるりと振り返る。後ろからユリシアにちょっかいをかけられるのが嫌になったのかと思いきや、どうやら何かを話したいらしい。
「……あいつ。クラン・ストレイグ。気をつけろよ。あいつは生粋の女好きで有名だからな」
「モテそうな見た目してたもんね」
「……おまえみたいな慣れてなさそうな女が標的にされて泣きを見るんだからな」
やや睨むような目で、ユリシアに忠告をする。
アグドラは少々情に厚すぎる。いちいち心を動かしていては、いざというときに正常な判断ができない。
彼は密偵には向いていない。最初に思ったことをまたしても思い、そんな彼がこの学園に放り込まれたことに、やはり最初のように同情した。
「シウォンくんがそう言うなら気をつけるよ」
ユリシアは笑いながら言ったのだが、アグドラはどう思ったのか、むすっとしたまま「そうしろ」と不機嫌そうに言っただけだった。
*
入学から一ヶ月が経過した。その日の昼の休み時間は、アグドラが側に居なかった。
たまに姿を消す謎の時間である。何をしているのかは知らないが、ユリシアは彼の仕事の都合だろうと思っているから深追いをしたことはない。
しかし昼休みという長い休み時間にアグドラが消えたのは初めてのことだ。これ幸いと、ユリシアは初めて教室から外に出た。
入学から一ヶ月も経つと、オリエンテーションも全て終わり、生徒が学園にも慣れてきたということで、もうすぐ専攻科目が実施される。
ユリシアは宣言通り騎士学を選択した。アグドラは薬草学で、最後まで「薬草学にしておけ」とユリシアに突っかかっていたが、もちろんユリシアが聞くわけもなく、アグドラは終始不機嫌そうにしていた。
さて、この時間は裏庭に彼女が居るはずなのだが。
お弁当を持ったユリシアはさりげなく辺りを見渡す。
「あなた、どういうおつもりかしら。シオン様が誰の婚約者かご存知?」
怯えるように立ちすくむ女子生徒を相手に威圧的な物言いで仁王立ちをしているのは、王太子の麗しの婚約者である。
女子生徒は校舎の壁に追い詰められている。顔色も悪く、困ったように俯いていた。
リナリア・アックスフォードが悪女であることは、学園中で噂になっていた。
そもそも貴族界隈でリナリアの悪女っぷりは話題となっており、学園に入学した貴族たちがこぞってその話をするものだから、たったのひと月ですっかり悪者となっている。
彼女自身、高飛車で不遜な上にハッキリと物を言う性質なため、そのような態度も悪く受け取られるのだろう。愛する婚約者に近づく女を蹴散らすことに必死なところは、さすがに弁明のしようもない。
リナリアは今日も、シオンに話しかけた女子生徒を捕まえてどういうつもりかと詰め寄っている。
「その耳は飾りなのかしら? それとも、わたくしのことを無視なさっているの? 早く答えなさい。あなたはどういうつもりでシオン様の肘に触れたのかしら」
「……それは……」
「まさか、あなた如きがシオン様に相手にされるとでも? とんだ勘違いですわ。おかしな期待を抱く前に、ご自身のお手入れでもされたらいかが?」
女子生徒の顔が一気に赤く染まる。リナリアの美しさを前に何も言えないのだろう。女子生徒は震えながら、その場から逃げるように駆け去った。
リナリアはただの言葉を選べないリアリストだ。間違ったことは言っていないし、理不尽なこともない。しかし女子生徒は平民だったから、貴族であるリナリアの価値観やそれによる沸点も分からないのだろう。
不機嫌なリナリアは、逃げて行く女子生徒の背中を睨みつける。その姿が見えなくなるまでそれを続け、振り返ったとき、ようやくユリシアの存在に気付いた。
「……ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう。……アックスフォードさんですよね。はじめまして、ユリシア・ユーフェミリアといいます」
リナリアは、先ほどの場面を見ても動じないユリシアの態度に微かに眉を揺らす。リナリアは侯爵家のご令嬢だ。媚を売るような態度には慣れているから、見極めてでもいるのだろう。
「ユーフェミリアは聞いたことのない家名ですわね。ユリシアとお呼びしても?」
「はい、もちろん」
「そう。ユリシアは覗き見が趣味なのかしら? 空気を読むということをご存知ない? 先ほどの小娘といい、平民は随分と自己中心的に生きていらっしゃるのね。楽しそうで何よりですわ」
その言葉に感情はない。彼女はやはり嫌味を言いたいのではなく、ただ事実を述べている感覚なのだろう。
「今日は天気が良かったので、外でご飯を食べたいと思ったんです。そうしたらアックスフォードさんがいて……聞いてしまったことはすみません。確かに無遠慮でしたね」
あまりにさらりと返したからか、リナリアのほうが面食らったようだった。
こんなにもあっさりと非を認められたことがなかったのだろう。これまでにない反応に戸惑っている。リナリアはおかしな生き物を見る目で、やや睨むようにユリシアを観察していた。
「そういえばアックスフォードさんはご飯食べました?」
「……まだですわ。本日は天気が良いので、わたくしも外で食べたくて」
「それなら一緒に食べません? 誰かと一緒のほうが美味しいと思うんです」
「……一緒に?」
「はい」
「わたくしが、あなたと?」
「? はい」
リナリアはますます渋顔だ。
「わたくしのことをご存じかしら? それとも馬鹿にしていらっしゃる?」
「知っていますよ。アックスフォード侯爵令嬢で、王太子殿下の婚約者ですよね。でもここは学園内で、この学園では実力が全てです。アックスフォードさんには劣りますが、私も入学できたので一緒にご飯くらいは食べても良いのかなと思います」
「それをあなたが決めますの? なんて厚かましい方かしら。平民の感覚は肌に合いませんわ」
「私も貴族の感覚って分からないので、おあいこですね。ご飯を食べながら教えてもらっても?」
ユリシアの態度に、リナリアはますます訝しげに目を瞬いた。
生粋の貴族であるリナリアにとって、身分の違う者と食事をするなど理解が出来ないようだ。いくら校則であっても「平等」という意味がまず分からない。どうして自分が平民の、それも初対面の女に馴れ馴れしくされているのか。リナリアはまずそこから理解にも及ばないのだろう。
なるほど、正面からぶつかっても意味がない。察したユリシアは、アプローチの方向性を変えるべく思案する。
「残念ながら、あなたと過ごす時間はございませんの。ごめんあそばせ」
「さっきの女の子、殿下に近づきすぎでしたよね。私からも注意はしたんですが、全然聞いてくれなくて」
立ち去ろうと踵を返したリナリアが、数歩先で足を止めた。
「当たり前のことですけど、殿下はアックスフォードさんと並んでいるのが一番お似合いだと思うんです。それなのに横恋慕なんて……殿下にもアックスフォードさんにも失礼だなって」
「あら、あなたもそう思いますの?」
「もちろんです。あんな平民の平凡な女の子じゃなくて、教養もあって綺麗なアックスフォードさんじゃないと、殿下のお相手はつとまりません」
ゆるりと振り向いたリナリアは、まんざらでもなさそうに頬を染めていた。
「そう。そうですわね。あなた、平民のくせによく分かっているじゃない。……気が変わったわ。テーブルの用意をさせているの。こちらにいらっしゃい」
「わーい。さすがアックスフォードさん。外見だけじゃなくって、心もお綺麗なんですね。殿下も幸せ者ですね」
おだてたらおだてただけ、リナリアは口角を上げていく。
まったくチョロくて困ったものだ。けれどもユリシアにはそれがありがたかったから、ここぞとばかりに褒めておいた。
リナリア・アックスフォードには親しい友人がいない。意地悪な友人でもいそうなものだが、なまじ彼女の身分が高いことと、彼女の高圧的な性格が周囲から人を遠ざけていた。
だからこそ、ユリシアいわくのチョロさが生まれてしまったのだろう。
リナリアは終始ご満悦な様子で食事を進めていた。ユリシアにとっては情報を抜き出すための下ごしらえである。とにかく褒めそやし、懐に入ろうと話を合わせる。これではまるで取り巻きのようだが、任務遂行のためだから仕方がない。ユリシアにプライドなどありはしない。そんなもので腹は膨れないのだから。
「こんなところにいたのか」
食事の後のデザートを楽しんでいると、ユリシアの背後から呆れたような声が聞こえた。ユリシアが振り返るより早く、正面に座っていたリナリアが立ち上がる。所作に気をつけている彼女らしからぬ焦ったような仕草だった。
「あれ、シウォンくん。どうしたの?」
「おまえが教室にいないから探していたんだろうが」
「? そっか。ありがとう。何か用事があったとか?」
「いや?」
アグドラと視線がぶつかると、リナリアはふたたび椅子に腰掛ける。
「アックスフォードさん、シウォンくんと知り合いなんですか?」
「……そうね、顔見知り程度かしら」
「そうだな。顔見知り程度だ」
「ふぅん……?」
それにしては、なんだか気まずいような。
(……もしかして、シウォンくんの雇い主がアックスフォードさんとか……?)
ありえない話ではない。アグドラはリナリアと同じ薬草学を選択しているから、連絡を密に取りあっているのかもしれない。
リナリアのことだ。王太子に近づく気に入らない女を消すためか、あるいは王太子の監視でもするために密偵を雇っているのだろう。それならば慣れていないアグドラを使うのも納得である。そんな簡単な任務、失敗のしようがない。
「シウォンくんも一緒にデザート食べる? アックスフォードさんの家のシェフさん、すごく料理が上手でね。美味しいよ」
「当然ですわ。アックスフォードにふさわしい腕前でなければ恥ですもの」
「おまえなあ……そんなものばかり食べていたら太るぞ」
「食べられないよりいいじゃない。太れるなんて幸せだよ」
「……いいから行くぞ」
軽く息を吐くと、アグドラはユリシアの腕を掴んで強引に引き連れた。リナリアは驚いたように二人を見送る。ユリシアは少々早足なアグドラについて行くことに必死だった。
「ちょっとシウォンくん、アックスフォードさんに失礼だよ」
「授業が始まりそうなことのほうが大事だろ」
チャイムが鳴ったのは、二人が教室に入った直後だった。