第8話
クライバーン大公国は、今でこそハリウス王国の中にある独立国となっているが、それまでは一つの王国として大きな領土を持っていた。
反乱軍に負けハリウス王国の統治下となった後、クライバーンの大公が独立をさせたと史実には載っている。
ユリシアがそれを知ったのは、施設で暮らしているときだった。
まだ五歳だったユリシアは読書を好み、施設で暮らした三年間をほとんどその時間にあてていた。
「ユリシア、何を読んでいるの?」
施設長の女はいつも、一人でいるユリシアを気にしていた。彼女はとても優しく笑う。ユリシアの翡翠の瞳を綺麗だと褒め、ユリシアのすることをいつも肯定してくれた。
ユリシアは今でも彼女を覚えている。
もう九年も前のことにはなるが、彼女だけはユリシアの記憶の中に鮮明に残されていた。
『施設長が自殺をした。報告まで』
それは、依頼人の男から初めてきた返事だった。
シオンの白魔法の件に触れるかと思えば、まったく関係のないことである。
(……死んだんだ)
とはいえ、ユリシアには興味がない。
学校に行く直前、見つけた郵便に気を取られたのが運の尽きか。遅刻をしそうな時間だと気付き、ユリシアは紙をぐしゃりと丸めると、遠くにあるゴミ箱へと放り投げた。
学園の校門にはすでに人影はなかった。どうやらユリシアほど遅くなった生徒は居なかったらしい。今日は全校集会があるため、ユリシアは直接、生徒が集まる大講堂へと足を向けた。
集会は定期的におこなわれるわけではない。それこそ、誰かが何らかの功績を残したとか、大きな問題が起きたとか、臨時休校があるとか、全校に知らせなければならない事項が溜まったときに開かれる程度である。
集会の日、生徒は教室に寄ることなく全員直接大講堂へと向かうから、ユリシアがカバンを持っていても目立つことはなかった。
それぞれの学年の生徒たちが椅子に座っている。ユリシアもさりげなく大講堂に入り、一番後ろの席についた。
(間に合った……)
どうやらまだ集会は始まっていない。ユリシアが来たことにリナリアが気付き、前のほうから呆れた視線を送っている。
『定刻となりましたので、全校集会を始めます。まず、前年期の最優秀表彰からおこないます。最優秀者は、成績、レポート、専攻、すべての観点から総合的に数字の良かった生徒とします。では、一年期。――アグドラ・シウォン。前へ』
到着したばかりで頭の回らないユリシアでも、アグドラが呼ばれたことに一瞬思考が止まった。
他の生徒もそうだったのだろう。呼ばれるのは当然シオンだとばかりに思っていたし、学園側もそう配慮をするだろうと勝手に思い込んでいた。
クラングラン学園の教師は忖度をしないということか。噂通り、実力主義で間違いはないらしい。
(それにしてもシウォンくん、普段はあんな感じなのにいつの間に)
壇上に上がるアグドラの背中を見て、ユリシアはなんだか感動した。
六年期の生徒まで表彰を終えると、学園で起きている侵入事件や窃盗への注意喚起などを続けた。どれもユリシアは知らなかったが、他学年では問題になっていたことのようだ。どれも興味がなかったから、ユリシアの記憶には残らなかった。
『続いて、救護室の新しい担当教諭を紹介します』
壇上に知らない男の教師が上がる。真っ黒な髪と鮮やかな青い瞳が目立つ、やけに顔立ちの良い男だった。細いがしっかりとした体付きの上、身長も高いものだから余計に大きくも思える。
女子生徒がざわつく。ユリシアとリナリアだけは静かだった。
『前任のナターリエ教諭が一身上の都合で帰国をしたため、こちらのセヴェリ・アクラウド教諭が本日から担当となります。アクラウド教諭、挨拶を』
『ご紹介に預かりました、セヴェリ・アクラウドです。怪我をしたらすぐに呼んでください。どこにいても駆けつけます』
――“セヴェリ”とは、ここではあまり聞かない発音の名前だ。彼もアルシリウスの人間ではないのか。
(……どこかの密偵だったりして)
異動の時期など特にはないが、前任教諭が突然一身上の都合で帰国することもおかしな話である。何らかの圧力がかかりやむを得ず帰国をしたのか、はたまたすでに殺されたのか。
どちらにしてもユリシアに関係はないが、ユリシアの目的の邪魔になるようなら対処を考えなければならないだろう。ひとまず警戒をしておくかと、セヴェリ・アクラウドという名前を記憶した。
「平民は惰眠を貪ることがお得意なようね。呆れましたわ。このわたくしよりも遅い時間に来るなど」
教室に戻った途端、呆れた様子のリナリアにさっそくたしなめられた。講堂で目が合ったときからそんなことを思っているだろうことは分かっていたが、本当にそうだったらしい。一年期に比べれば、リナリアもトゲがなくなり分かりやすくなったということだろうか。
「寝坊はしなかったんですけど、少し家を出るのが遅れました」
「おまえの彼氏すごいな。前年一年期の最優秀だってさ」
後から戻ったウィシュアが、言いながらも前の席に座る。
「……シウォンくんはお友達だよ」
「ユリシア、そろそろハッキリとさせてほしいのですけれど……やはり彼とはその、恋仲なのかしら? ここだけの話にいたしますから、わたくしには教えていただけませんこと?」
「オレも知りたい」
「だからハッキリ言ってるじゃないですか。私とシウォンくんはお友達です。二年期になってからはクラスも違うからそんなに話してもないし……」
「でもたまにご飯を一緒に食べておりますわよね」
「クラス違ったら接点なくなるだろ、普通。なんとも思ってないなら関わろうともしないだろうし」
二人分の目がユリシアに集まる。
「その……ユリシア。彼はユリシアのことが好きなのではなくて?」
「まさか、あのシウォンくんに限って……ほら、シウォンくんって女の子に興味とかなさそうじゃない?」
「オレたちの年齢で異性に興味ないことってあるのか?」
「え! ウィシュア、女の子に興味あるの? それはそれで衝撃」
「今はおまえの話な」
あまりにも衝撃的な発言だったのだが、ウィシュアは教えてはくれなかった。
「で、どうなんだよ。実際」
「……今日はなんかやけにしつこいね。どうしたの?」
「んー、別に? 今後のためというか」
「今後……?」
よく分からないが、ウィシュアが「どうなんだよ」と続けたから答えざるを得ない。とはいえすでに答えているのだが、二人が納得しなければこの地獄のような時間は終わらないのだろう。
思春期とは厄介だ。愛だの恋だの、ユリシアにはまったく興味も関係もないところで、知らないうちに巻き込まれている。
「……シウォンくんも私のことはなんとも思ってないし、私もただのお友達と思ってるよ。そもそも私、恋愛とか興味ないし」
「まあユリシア、恋に興味がないなんて」
「私にはまだ早いというか」
「ふぅん」
あんなにしつこく聞いたくせに、ウィシュアの反応はどうでも良さげだ。
「そういや、手首とかどうだよ。まだ痛むのか?」
「あ、大丈夫。まだちょっと赤いけど腫れはひいたし」
「休み時間に救護室行けよ。今日騎士学あるだろ、見学証明書いてもらわねえと」
そういえばそうだった。
この学園は、見学や欠席をするのに証明が必要になる。担当教諭が基本的には書く決まりとなっていて、騎士学の実技の見学には救護室の教諭が対象である。
怪しい新人教諭にさっそく関わることになるとは。
「もうほとんど治ってるし、出ようかなぁ」
「いけませんわ。油断をして悪化したらどういたしますの? 平民の働き口などいくらでもございますが、給与には響きますわよ。最悪の事態を考えないなど愚かですわね。平民は浅はかで困りますわ」
「心配してくれてることは分かりました」
「早めに行けよ、騎士学今日の午後だぞ」
それなら昼休みにでも救護室に出向くかと、ユリシアは仕方なく腹をくくった。
「どこに行くんだ?」
昼休み、救護室に向かっていたユリシアを呼び止めたのはアグドラだった。今日はシオンとは居ないようだが、リナリアが一緒に食事をとると言っていたからそのせいだろう。
アグドラは注目を浴びながら教室から出てくる。いつもより視線が多いのはやはり、優秀者表彰をされたからだろう。
「救護室にちょっと」
「ああ、見学証明か」
アグドラがちらりとユリシアの手首を見る。
「だから言っただろ、騎士学は怪我をする。来期は薬草学にしろ」
「やだよ、薬草学興味ないもん」
「来期も騎士学にするつもりか?」
「……さぁ。決めてない」
そもそも、ユリシアが来期まで居るかも分からない。卒業予定もないから、ユリシアにとって未来の話は無意味である。
「ところでシウォンくん。私、シウォンくんに騎士学で捻挫したって言ったんだっけ?」
指摘をされ、アグドラは微かに眉を揺らす。




