プロローグ 『最初の罪』
『あなたの名前は、風吾……』
ふいに頬を掠める春の暖かな風を受けて、俺は懐かしい声を思い出した。
空からは柔らかな陽光が降り注ぎ、雲がゆったりと流れている。その下に広がるのは背の低い建物が連なる住宅地。その向こうには、いまだに手付かずのまま放置されている瓦礫の荒野が広がっている。コンクリと緑の荒地に周囲を囲まれた中規模の町、その中でも一番背の高い三階建ての建物——その屋上で、俺は目の前に広がる景色を眺めていた。
「いい天気だ……」
——こんな天気の日には、何をしたらいいのだろう。
俺は昔から、自分で何かを決めることをほとんどしてこなかった。他者から言われたことを行い、他者の作った基準を超えるよう成果を出す、それが俺の全てだった。
俺にとって意思決定という行為は、あまりに難しい。行動の選択には定まった一つの正解がなく、それには必ず肯定的な側面と否定的な側面がつきまとう。俺には、その中のどれを選べばいいかもわからない。その責任を背負う覚悟もないのだ。
その点、数学は好きだ。定められた公式や定理を用いて定められた答えを導き出す、これほど安心できるものはない。正解と不正解がはっきりと存在しているからだ。そうでないものは、俺には到底扱えない。
正解は正義で、不正解は悪。それが俺の世界だ。
人に言われたことをやった結果、何か否定的なことが起きたとしたら、それは指示した人間の間違い、不正解であり、「罪」である。俺は指示内容を正確に実行したのであって、その意味において正解——正義を行ったのである。
だから、俺は自分で意思決定——あるいは行動選択は行わない。
俺は間違いを犯したくない、『罪』を背負いたくないのである。
——再び吹いてきた風が、俺の全身を撫でる。風は俺の癖のある髪の毛を揺らし、右耳についたイヤリングを揺らした。
俺はそのイヤリングにそっと左手を添え、目を伏せる。
「シスター……」
そうだ、いつまでもそんなことを言ってはいられない。俺はもう、『風吾』なのだから。
俺は目を閉じ、始まりの日に思いを馳せた。
*
俺に名前が与えられたのは、十四歳の時だった。
俺はその時のことを、今でも時々夢に見る。
十二月のよく冷えた夜。街灯に照らされた大通りの脇にある静かな路地裏。すぐ隣にはゴミ置き場があるような場所で、俺は名前を与えられた。
目の前には一人の若い女性。聖母のような慈悲深さを思わせるその瞳は、白く張りのある肌を持つ二十代とは思えないほどの深みがある。黒い修道服を身にまとい、首からは十字架を下げ、両耳には青く透き通った宝石をぶら下げたイヤリングをしている。
彼女の名前はシスター中山、俺の世話係である。
俺はあの日、シスターに連れられて城を出た。
俺は何がなんだかわからないままシスターに手を引かれ、気づけば町の外れまでやってきていた。普段は温厚なシスターが、この日はやけに必死だったのを覚えている。
息を白くする凍てつくような寒さ、建物の隙間から見える満天の星空が、やけに印象的な夜だった。
「いい? 風吾、よく聞いて。あなたは今晩、ここから逃げるの。この町から離れて、遠くへ遠くへ行きなさい」
シスターは俺の目を強く、それでいて優しく見つめながらそう言った。
突然の話に俺は驚く。
「シスター、何を言っているの? もう戻らないとまずい、アイツに気づかれちゃう!」
「静かに!」
シスターは俺の口を押さえ、あたりを警戒する。俺はハッとしたように声のトーンを落とした。
見るとシスターの左肩は血で滲んでいて、俺は慌ててその傷を心配した。
だがシスターは気にも留めない。
「……あなたはもう、自由になるの。誰もあなたを支配できない。誰もあなたの、代わりにはなれない。あなたはあなたとして、風のように自由に生きるの、風吾」
その言葉に、俺は痛みに近い感情を抱く。
「……無理だよ、自由なんて。それに外の世界なんて行ったことがないんだ。どこに行けばいいかわからないよ……」
俺は生まれてからの十一年間、一度もこの町からでたことがない。ずっと城で育てられてきた。その世界しか知らない、その人達しか知らないのだ。
……怖かった。外に出るなど、恐怖でしかなかった。
シスターはそんな俺を勇気づけるように声を掛け、右耳につけたイヤリングを差し出してきた。
「これを……。どんな時でも、私はあなたのそばにいる。その証よ」
俺は恐る恐るそれを受け取り、握りしめた。
その瞬間、俺は自分の中の恐怖が薄れていくのを感じた。
シスターは両手で俺の頬に触れ、目を合わせて微笑んだ。
「……いい? よく聞いて。あなたは今日、新しく生まれ変わった。これからは風吾として、貴方はあなたの人生を生きて……」
シスターの言葉に、俺は静かにうなずいた。それを見て、シスターは優しく笑った。
俺はシスターに背中を押されるようにして、一人闇の中へと駆け出した。
「祝福をあなたに……」
最後に、シスターがそう言ったのが聞こえた気がした。
……これが始まり。あの日、城に残らず逃げ出したこと。
それが俺——風吾の最初の「罪」だった。