一番後ろの席っていいよね
殺人事件が起きようとも、世界は回るようで、翌日僕は学校で授業を受けていた。当然、教室内に遠野さんの姿はないし、クラスメイト達もそれに関して疑問を抱いてはいなかった。日付さえ変わらなければ、焼き直しの動画でも見させられているような気分になっていたのだろう。そう考えると、日付とは偉大な発明だ。誰が発明したかは知らないけど。
睡眠導入音楽にでもして販売すれば爆売れ間違いなしの、国語教師の声が教室に響いていた。窓から漏れ出てくる春の心地よい風も相まって、生徒のほとんどが眠りへとついている。やる気が全く感じられない光景だが、まあ、高校なんてこんなものなのだろう。働きアリと同じで、まじめに勉強しているのは数人で、あとは適当に過ごしているのだ。それでもまあまあな人生を送れるのだから、ある意味で人生はイージーモードとも言えるのかもしれない。
閑話休題。
僕は容疑者五人へ順番に視線を向けた。一番後ろの席のためか、五人の姿はよく見えた。
山内君は、視線を教師だけに向けていた。ノートを取る素振りはない。教師の言葉に全意識を集中しているようだった。
植野さんは、小動物のように体を小さくして、ノートを取っていた。授業に集中しているというよりも、ノートをとるという動作に重きを置いているようだった。
女渕さんは、授業そっちのけで爪をいじっていた。ネイルでもしているのだろう。
渡会さんは、机に突っ伏しながらも時折視線を黒板へと向けている。どこか叱られることに怯えている犬のようだ。
田中君は、よくわからなかった。傍から見れば誰よりも真面目に授業を受けているように見えるが、なんだかその目はここではないどこかを見ているようだった。
後姿だけでも、これだけの人間性が見て取れる。
尤もそれで犯人が分かるわけではないが。
やはり観察するだけでは限界があるのだろう。僕の主観を補填してくれる根拠が何一つ見つかってはくれない。
僕は息を一つ吐き、手帳を開いた。相変わらず猟奇的な文字の羅列ばかりだった。ターゲットの選定から、場所、殺害方法に至るまで事細かに記されている。手帳というよりかはミステリー小説に近いのだろうが、この手帳の場合ターゲットを人気のない場所へ連れて行くときの心情や殺害している時の被害者の悲鳴、自分を見る被害者の心情などまでもが記されていた。その点で言えば倒叙ミステリーと呼ぶべきなのだろう。尤も実際に殺人事件が起きているのだから、犯人が捕まった場合は犯行手記として扱われるのだろうが。
文字を改めてじっくりと眺める。一応は容疑者たちと比べてみたが、わからなかった。犯人は余程慎重なのか、文字を敢えて崩しているため筆跡鑑定は出来なかったのだ。
次に文字を一文字ずつ指でなぞる。ただ紙に書かれた文字をなぞっているだけのはずなのに、気分が悪くなった。猟奇的な文字が僕の中に入ってきて、血管の一つ一つを犯し、脳に届く頃には映像となって網膜に焼き付けられていく。文字から指を離そうとするが、ボンドをつけられたかのように指が離れてくれなかった。目をつぶり指に力を入れて無理やり外した。映像はすっかり消えていた。
もう一度文字へ視線を落とす。文字が歪んでいた。どうやら僕の汗で濡れてしまったようだ。そう言えば、手帳の文字の一部も歪んでいた。あれは持ち主の汗だったのだろう。
僕はページを閉じて、表紙が見えるように机の上に置いた。なんの特徴もない手帳だ。黒の皮で、男女問わず持っていても不思議ではない。
「ん?」
今まで気づかなかったが、手帳は角が少しだけ折れ曲がっていた。まるでサイズの合わない袋にでも無理やり詰めたかのように。僕の管理が杜撰だったのだろうと考えたが、思い返してみれば最初から角は折れていた。つまり犯人が角が折れてしまうような管理をしていたことになる。
いや、待てよ。だとするなら……
そこまで考えた時に、頭に電流が走った。
「そういうことか」
僕は小さな声でそう呟いた。