おそよう
学校を出た足で、そのまま廃墟へと向かった。廃墟は、K山同様に街外れにあるため、行くだけで一苦労だ。塗装されていない獣道を上るだけで、汗が溢れてくる。
いい加減な傾斜で続いている坂道を上ると、廃墟が見えてきた。
お世辞にも趣があるとは言えない外装をしている。蔦が絡まっているわけでも、味のある色をしているわけでもない。ただただ古く、ぼろい。人で表現するなら、無駄に年だけを重ねた、歯はボロボロで、髪は抜け落ち、枝葉のような手足をした老人のようなものだ。
腐りかけの木で出来た扉を開ける。中へ入ると、がれきの世界がそこには広がっていた。窓は全て割られており、怪しい光がそこから漏れ入っている。それが唯一の光源だった。窓枠のペンキは全てはがれている。壁は各所にひびが入り、扉は赤黒く変色し、所々に子供の落書きがあった。まるで異世界に迷い込んだような光景だ。
僕は勝手知ったる街を訪れたような足取りで、二階へ向かう。二階へ向かう階段を踏みしめるたびに、ギイギイと苦しげな悲鳴が響く。
二階へ着くと、一番端の部屋の扉を開け、中へ入る。すぐに二つの鋭い光が、僕へ向いた。
「おはよう。……いや、おそようって言ったほうが良いかな」
返事はなかった。代わりに鋭い光が、棘を帯びる。
「昨日は大変だったんだからね。遠野さんを運ぶの。わざわざ台車を取りに行かなきゃいけなかったんだよ」
僕のような非力な人間では、人一人運ぶのもかなりの労力を必要とする。しかも台車で人を運ぶ姿など見られるわけにもいかないため、余計に体力を使った。おかげで両腕が筋肉痛だ。
「誰も運んでくれなんて頼んでねーよ。こんな変な場所に放置しやがって」
遠野さんは、自分の首に巻かれた首輪を鬱陶しそうに触る。
「変な場所ってひどいな。一応、殺人鬼がかつて根城にしていた由緒正しき場所なんだけど」
遠野さんは、あからさまに表情を歪めた。
「洋服のサイズはどうかな? 僕の服だからサイズが合わないかもしれないけど」
さすがの遠野さんも、同じ服で過ごすのは嫌だと思い僕の洋服を貸したのだが、どうやら答えは聞くまでもないようだ。ダイナマイトボディの遠野さんは、サイズがあっていないのか、一部分がパツパツだった。それでいて身長は僕の方が大きいため、全体的なシルエットが歪んでおり、より一層ギャル要素が増していた。
「それにしてもよくスカートなんて履けるよね。寒くないの? ポケットもないし」
軽口を叩きながら、僕はコンビニで買ったおにぎりを遠野さんへ渡す。余程空腹だったのか、遠野さんは僕の手ごと引きちぎる勢いで奪っていき、もぐもぐと雅な心を忘れたかのように一心不乱に嚥下し続けた。なんだかリスに餌を与えている気分になる。
しばらくすると、遠野さんは食べ終え、無言の時間が訪れた。
その間、僕はただ待ち続けた。なんとなく遠野さんが言いたいことがあるように見えたからだ。
遠野さんは何度な口を閉じては開いてを繰り返し、やっと言葉を発した。
「……お前がいない間に、あたしなりに色々と整理して、考えた」
「考えた?」
僕はその先を促すように訊き返す。
「あたしの質問に正直に答えろ。その答えによっては、協力してやるよ」
僕は苦笑いを浮かべながら頷き、近くに置いてある椅子に腰かけた。
「まずお前は、殺人鬼じゃないんだよな?」
「どうだろうね……そもそも殺人鬼って言葉が曖昧だと思わない? 人を殺したら殺人鬼だとするなら、みんな殺人鬼になっちゃうよ。この世に生を受ける時点で、僕らは他の可能性をつぶして生まれてくる。これもある意味で殺人だし、何気ない一言で人を殺してしまう。これも殺人と言える。もっと言えば、僕らは日常を生きるだけで、間接的に世界のどこかにいる人間を殺している。今、遠野さんが食べたご飯だって、死にかけの人間に譲れば助けられたかもしれないのに、それをしなかった。それも殺人にあたる。だからそう言う意味で言えば、僕は殺人鬼だよ」
遠野さんの舌打ちが廃墟に響いた。うん、そうだよね。今の答えは、僕もふざけすぎたと思う。どうにも昔から、真剣な話が苦手なのだ。すぐに煙に巻いた態度を取ってしまう。
「違うよ。僕は、遠野さんの言っている殺人鬼ではない。顔の皮を剥ぐなんて、出来ないよ」
「それなら証拠を見せろ」
「疑り深いね」
「クラスメイトを拉致して、監禁するような奴を信じられるか」
「だから誘拐だって……」
しかし困った。証拠を見せろとは。そんなの悪魔の証明だ。……いや、遠野さん相手なら違うのか。僕は少しだけ考えてから、話し始めた。
「昨日の遺体を覚えてる?」
「……夢に出てくるぐらいにはな」
遠野さんの強烈なトラウマになっているようだ。
「血液が新鮮だっただろ? 少なくとも、犯行が行われたのは一時間前だ。でも、僕はその時間、遠野さんと一緒にいた。アリバイがあるんだよ」
「血液が新鮮だったかどうかなんて覚えてねーよ。っていうか、血液が新鮮かどうかなんて普通わかるわけないだろ」
尤もな話だった。確かに血液から犯行時間を予想するなんて普通は出来ない。それに遠野さんは、すぐに気絶してしまったから、そこまでつぶさに観察していないのだ。
「じゃあ、血が少なかったことは覚えてる?」
遠野さんは深く目をつぶり、次に開いた時は嫌悪感たっぷりな表情を浮かべた。
「……ああ、それは覚えてるよ。傷の割に、血が少なかったな」
「そう、血が少ないんだよ。あの傷で、それはおかしなことだ。つまり犯行自体は別の場所で行われたってことになるんだよ」
遠野さんは先を促すように頷く。
「犯行が別の場所で行われたってことは、犯人がわざわざあの山へ遺体を運んだってことになる。だけど、遠野さんも体験しているからわかるだろうけど、あの山を人一人担いで登ることは、難しい」
「台車を使えば出来るだろ。実際、お前はそれであたしを運んだんだから」
「それは下りだからだよ。登るのとは訳が違う。この僕の細腕で、人一人乗せた台車を押しながら山を登れると思う?」
ワイシャツをまくり、自慢の細腕を見せる。
「それに仮に僕が犯人なら、遠野さんを誘拐する意味がないだろ。こんなことせずにさっさと殺害したほうが早いんだから」
殺したい人間を誘拐し、警戒を促すなど完全に矛盾している。
「これで僕が犯人ではないってわかってくれた?」
遠野さんは頷いたが、表情は納得しているように見えなかった。頭ではわかっているが、感情が納得の邪魔をしているのだろう。
「でも、それならどうして助けなかったんだよ?」
「遠野さんを助けてるだろ」
「ちげーよ。昨日、殺された奴のことだ」
「ああ、水口裕子さんね」
「お前なら助けられたはずだろ。あたしを拉致したみたいに」
確かに僕が誘拐したことで、遠野さんは生きながらえている。そうでなければ今頃、殺されていたはずだ。
「それは無理だよ。僕は水口裕子さんを知らないし、調べる時間もない」
遠野さんは、クラスメイトだからこそ誘拐できたのだ。でも、水口裕子さんは違う。僕は彼女の顔も、どこの学校に通っているかも知らない。時間をかければ調べることも可能だっただろうが、ノートを拾ったのは犯行が行われる当日。それでは時間が足りないのだ。
「だったら警察に……」
遠野さんは、途中で言葉を呑み込んだ。それをすれば、自分の大切な人間が疑われてしまうことに気づいたのだろう。だが、それでもなお納得は出来ないのか、遠野さんは駄々っ子のような口調で続けた。
「だけどよ……」
「あのね。僕も慈善事業でこんなことしてるわけじゃないんだよ。それに僕だって襲われる可能性があるかもしれないんだ。他人のために命を懸けられるほどに、僕は偽善者じゃないのさ」
見ず知らずの人間のために命を懸けるほど、僕は自分の命を安くは売っていない。
「質問は終わり?」
「……それならなんであたしを助けた?」
「好きだから」
「ざけんな」
「今の世の中でその言葉は良くないと思うよ。多様性の時代なんだからね。ネットだったら炎上してるよ」
「あたしが言ったのは、てめーの態度のことだ。人を馬鹿にした態度を取りやがって」
僕は一つ息を吐き、本心ではないが限りなく誠実な答えを口にする。
「遠野さんを助けた理由については、答えられないかな。でも、善意でないことは確かだよ。僕は僕の目的のために、遠野さんを助けた。そこに善意なんてものはないよ」
遠野さんが僕の目をじっと見てくる。ウィンクの一つでも返そうかと思ったが、それをすれば今度こそ信頼してもらえそうにないので、大人しく僕も遠野さんを見続けた。
しばらくすると、遠野さんはどこか諦めたように息を吐いた。
「いいぜ。納得してやるよ」
「それは協力してくれるってことで良いのかな?」
「お前があたしのためとか言ってたなら、ぶん殴ってたところだ」
さすがツンデレの遠野さんだ。素直に協力するとは言ってくれない。まあ、でも、一応は協力してくれそうなので、ひとまずは安心と言ったところか。